朝日会館および『会館芸術』について

朝日会館は1926年から62年まで大阪の中之島に存在していた総合文化施設です。朝日新聞社を経営母体とする会館は、内部に展覧会場やホールをそなえ、映画上映、舞踊公演、演劇公演、音楽会、講演会に美術展、さらには雑誌出版など 多彩な文化事業を行っていました。川沿いにそびえる地下一階、地上六階の建物は、全体が黒色に覆われていたこともあり、ひときわ目を引くものだったといいます。朝日会館が会館する際におこなわれた談話の中で、当時の大阪市長である関一はこんなふうに述べています。

「この壮麗で『文化の殿堂』として申分のない建築物は大阪市民の多年熱望していたものです。(中略)その建築様式も異彩を放ち海外に誇るに足るべきものでシヴィック・センターの同所を中心として都市計画の完成とともにその偉観に接することのできるのは私の最も欣幸とするところであります。」(『朝日會館史』より)

 この時期、関はみずからが掲げる「大大阪」理念のもとに大阪を近代都市へと変貌させようと目論んでいましたが、この談話はそのなかで文化施設としての朝日会館に期待がかけられていたことを示しています。実際に会館はさまざまな 文化領域において主導的な役割をはたし、「ここが大阪文化の中心」(『まぼろしの大阪」』より、坪内氏との対談のなかでの谷沢永一氏の発言)とまで評される存在となりました。『会館芸術』は朝日会館が発行していた、いわば会館の機 関誌のような位置づけの雑誌です。とはいえ、たんに会館に関わる情報を載せるだけでなく、独自の文化雑誌としての性格を持っていました。たとえば創刊号の特集は舞踊家の伊藤道郎(イトウ・ミチオ)と声楽家のトティ・ダル・モンテです(写真1)。この特集がくまれ た第一の理由は朝日会館において伊藤やダル・モンテじしんの公演が催されたことにあるでしょうが、掲載された記事の中には藤田進一郎が舞踊芸術全般を考察した「ダンス藝術」がふくまれるなど、その広告・紹介にとどまらない編集姿勢が伺われます。
 『会館芸術』は1931年の創刊いらい幾度かの誌名変更と戦時中の中断期間をへて、1953年まで出版され、当時の大阪文化を知るうえでも貴重な資料になっています。わたしたちの研究会は朝日会館および『会館芸術』の歴史的意義を各芸術分野の専門家によるグループ研究によって明らかにすることを目指しています。





写真1(本号の所蔵者である豊田善敬氏のご厚意により画像掲載の許可を戴いている)

参考文献
朝日新聞社社史編集室編『朝日會館史』(朝日新聞社、未刊行)
坪内祐三『まぼろしの大阪』(ぴあ、2004年)
なつかしの大阪朝日会館編集グループ『なつかしの大阪朝日会館 –加納正良のコレクションより』(LEVEL、2004年)


(文責:岡野)