新たなる秩序への夢―20世紀の「機械音楽」
20世紀初頭から1920年代にかけての時代は,音楽が機械との結びつきを最も強めた時代の一つであった。自動ピアノにはじまり,自動ヴァイオリン,自動ハープ,さらには自動バンジョーなどというものまで作られ,それらに打楽器装置も組み込んで,一台で合奏をしてしまうというオーケストリオンなる巨大なものまで登場した。他方,自動ピアノには,ピアニストの演奏を紙のロールに記録し,再生することのできるリプロデューシング・ピアノと呼ばれる精巧なタイプのものも開発された。しかしながらこの時代の自動演奏楽器はただ単に,人間の演奏する「生」の音楽を,人間の手を借りることなく模倣したり再生したりすることができる装置であったわけではなく,人間が演奏するこれまでの音楽にはできなかった新しい表現世界を可能にするメディアでもあった。
自らロールに穿孔する作曲家
自動演奏楽器のもつ,機械ならではの新しい表現の可能性に着目したのは作曲家たちであった。パウル・ヒンデミット(1895-1963),エルンスト・トッホ(1887-1964),ゲルハルト・ミュンヒ(1907-?)の3人は,ドイツのフライブルクに本社をもつウェルテ社と共同して,ウェルテ・ミニョンという同社のリプロデューシング・ピアノのロールに,実演を記録するのではなく,作曲家自らが直接に穿孔作業を行って「作曲」をする実験を行い,その成果は1926年7月25日に行われた「ドナウエッシンゲン室内音楽演奏会」シリーズ最終日の「機械ピアノ(ウェルテ・ミニョン)のためのオリジナル作品の演奏会」において発表された。ヒンデミットはまた,レコード盤に自らの手で刻みを入れ,やはり演奏家を介することなく音響化する試みを行ったりもしている。
それまでの音楽で不可欠であった演奏家という媒介を排する,このような試みによって,人間の肉体的な限界をこえる表現,たとえば指がとても回らないような速いパッセージや,指の数や手の大きさの制約をこえた多彩な表現が可能になったことはもちろんだが,ヒンデミットらが自動演奏にこれほど大きな期待を示した背景には,生み出される音のそのような具体的なおもしろさをこえた音楽観自体のレベルでの問題が関わっていた。
ヒンデミットやトッホは自作への解説をいろいろ書き残しているが,そこでは,人間が演奏することによって不可避的に音にまとわされてしまう夾雑物を排除できるメリットが繰り返し語られている。それは演奏家の主観が分厚くまとわりついていた,ロマン主義的な音楽表現のあり方への反動とみることもできるし,そのような中でしばしば背景に退いていた作曲家自身の意図を,演奏家を介さずに直接に伝えようとする意志のあらわれとみることもできるが,それ以上に,そこにはこの時代の独特の美意識が現れているのである。
幾何学的秩序への志向
注目すべきことは,これらの作曲家たちが機械音楽の新しい可能性を、しばしば刻まれた模様の視覚的表象の中に見ているということである。たとえばトッホは、人間の演奏家を排して機械に演奏させることによって、これまでの演奏に混入していた人間的な「偏差」を排除した「幾何学的な正確さ」を獲得することができると主張している。なぜ「幾何学的」なのか? それは、彼らがいだいていた音楽作品の理想的な姿が究極的には、人間的な生々しさを排した「純粋」な秩序体のイメージであり、そこでの「音」も、現実的なふくらみや奥行きをそぎ落とされた抽象的なものとしてイメージされていたからである。
実際,彼らの同志とも言うべき作曲家ハンス・ハース(1897-1955)が制作した自動ピアノの作品のロールなどは、きわめて美しい幾何学的な模様が刻まれており、そのまま抽象絵画の作品にしてしまってもよいと思われるほどである。そのようなものをみていると,彼らがこの楽器を通して追い求めようとしたのが,音楽という枠をこえて,造形芸術などにも共通する,より抽象的なレベルでの美的秩序であったことが感じられてくる。そのことを裏書きするかのように,この時代の彼らの活動はバウハウスなどの造形芸術の活動といたるところで交錯している。
バウハウスの活動との接点
1926年7月25日の「機械ピアノ(ウェルテ・ミニョン)のためのオリジナル作品の演奏会」の最後には,バウハウスで活動した造形作家オスカー・シュレンマー(1888-1943)との制作したバレエにヒンデミットがウェルテ・ミニョンを用いた自動演奏の伴奏をつけた《三組のバレエ》が上演された。シュレンマーは,舞台上の人間の動きについて,人間の肉体に具わる夾雑物や限界を払拭したロボットのような機械的・抽象的な動きにいたることが現代の理想である旨を述べているが,その論調は,ヒンデミットらの音楽の理念と見事に重なり合っている。
バウハウスの造形作家としてもう一人重要なのがラースロー・モホイ=ナジ(1895-1946)である。彼は1926年に書いた論考で,蓄音機を創造的なメディアとして用いる可能性に言及し、その中で、通常のように現実の振動波形をレコードに記録する代わりに、作曲家自身がレコード盤に直接に刻み目を入れるやり方を提唱している。作曲家がそこでの刻み目の形の中にある法則性を体得し、その「文法」を発見することができれば、演奏家の介在なしに、より理想に近い作曲行為が可能になると主張しているのであるが,これまたヒンデミットらの活動を代弁しているかのようだ。
電気録音や電気的再生の技術以前のこの時代のレコードでは、空気の振動がそのまま盤面に刻み込まれ、それが電気的な媒介を経ることなく直接針で拾い上げられ,音に変換された。それゆえレコードの溝に刻み込まれた刻み目は、ちょうど海の波が海岸の砂を削ることによって残された爪痕の如く、音響と直接的に結びついていると考えられ、それがとりもなおさず「音の形」として認識されたのである。ヒンデミットやモホイ=ナジが考えていたのは,楽譜や演奏家を排除することによって,物理的な音の媒介を経ることなく直接にそのような「音の形」を造形する可能性であり,彼らは,新しい機械技術がそのような新たな美的秩序への道を開いてくれると確信していたのである。
自動演奏楽器はこの時代,人々のそのような「夢」をのせて発展した。それは,人々が音楽と機械との関わりの中で古代以来積み重ねてきた,普遍的な秩序の追求の歴史につらなる壮大な「夢」であった。そしてそのような「夢」は,音楽機械を通して視覚的な要素と音楽的な要素との交点に新たな世界を開こうとするリッチズ氏の試みをはじめとしたその後の時代の多くの人々の仕事に,脈々と受け継がれているのである。
(渡辺 裕)