比較文化基礎論I

担当教員:竹内 信夫
講義題目:「文化」との出会い—河口慧海『チベット旅行記』を読む

本講義は、「文化」と呼ばれる現象に学問的に立ち向かうための基本姿勢を自覚することを目的とする。「比較文化基礎論」なる学問分野は存在しない。少なくとも現段階では、そしておそらくは永遠に。その理由は、「文化」という対象概念が内包するものが膨大かつ無限定であるからだし、「比較」はすべての学問に内包され、すべての学問を基礎づける基本的方法であるからだ。 個別の「文化」現象に関しての学術的調査、研究は数限りなく存在している。対象が無数に存在しうるばかりか、どのような対象についてもそれを学術的にとらえる方法は数多く存在しうる。文化研究は、さまざまな方法によってさまざまな「文化」現象を対象とする学術的活動の動的な総体であるが、その総体を包摂することができるのは理念的に可能な哲学的思考のみである。

「文化」は、人間諸活動のすべての側面と密接に関係し、それを駆動し、方向付け、意味付けると同時に、そこから絶えず新しい要素と活力を得て変化してゆく。「文化」の定義は山ほど提示されているものの、それらはすべて「文化」を作業仮説的に限定するものでしかない。その有効性は限定的である。 しかし、それらの多くの定義に共通する点がある。それは、「文化」が人間という主体の社会生活に相関的なものであり、その主体に特殊な社会生活が産出し、かつまたいったん産出された後はその社会生活を一定の範囲で規制するものである、ということを主張していることである。

その意味では、「文化」を持たない人間社会はない。また、その社会と離れては「文化」は存在しない。社会は複数の主体を想定するものであるが、極めて動的な複合体である。幾重にも層を成し、相互に浸透しながら変動する、複雑な一個の連続構造体である。

一人の人間は、その連続構造体のどこかの場所に生を受け、その場所から文化的規制(恩恵)を受けながら、その「文化」構造の変動に寄与する。文化研究とは、そのような人間の(ある意味では宿命的な)生活条件(それが「文化」である)を意識化するものである。その限りで「文化」を対象とする学術研究は、広範な人間学の一翼を担いうるものとなる。

「文化」の「意識化」には、一定の努力が必要となる。その努力は「文化」の発見へと向かい、多くの場合「文化」の発見は「異文化」との出会いによって顕在化される。本講義の目指すものは、この顕在化を通じてそれぞれの受講生が、「文化」との出会いを体験することである。

そのための手がかりとして、本講義では、1冊の著作を読み、それについて互いに討論するという方法を用いる。読むべき著作は、河口慧海『チベット旅行記』(講談社学術文庫版、初版原題は『西藏旅行記』博文館、1904)である。