金素雲年譜

1908年(明治41年)

1月5日(旧暦では前年の12月2日)、釜山の絶影島(日本人は牧の島と呼んだ)に生れる。本名・金教煥。父は旧韓国度支部(日本の大蔵省に当る)の少壮官吏であった。

1909年(明治42年)1歳

職責上、親日派と見做された父が、慶尚南道の晋州で同胞の銃弾に斃れる。日韓併合の前年という政治状況下での悲劇であった。その後、父方の祖父母と母との間で、ただ一人の遺児である素雲をめぐる葛藤がつづいた。

1912年(明治45年・大正元年)4歳

母が帝政ロシアに去る。

1914年(大正3年)6歳

鎮海の私立大正学校に入学する。

1915年(大正4年)7歳

金海の伯母の家に移り、金海公立普通学校一学年に編入する。併せて、漢文私塾に通う。

1916年(大正5年)8歳

母を訪ねてロシアに行こうとして、単身、平安南道の鎮南浦まで行く。空しく帰ってより後、釜山の叔父のもとに身を寄せる。絶影島の私立玉成学校二学年に編入する。

1919年(大正8年)11歳

この年、朝鮮全土に波及した三・一独立運動の影響を受けた叔父のお膳立てもあり、民族主義的な絶影島少年団を結成し団長になる。

1920年(大正9年)12歳

少年団は憲兵隊の圧力で解散させられる。秋、日本行の石炭船に便乗して大阪港に到る。大阪で伯母のもとに寄寓する。

1921年(大正10年)13歳

2月、東京に出る。東京開成中等学校(夜間)に入学、新聞の立売り等さまざまな職業を経験しながら苦学する。

1923年(大正12年)15歳

9月、関東大震災が起って東京を離れ、大阪で半年を過す。

1924年(大正13年)16歳

釜山へ帰る。春、ソウルに移り、帝国通信京城支社に年齢を偽って入社する。

1925年(大正14年)17歳

帝国通信を辞めて、釜山で朝鮮日報通信員となる。9月、詩集『出帆』を五百部印刷したが、印刷費未納で、わずか十余部を手にすることができただけで流産した。再び渡日。一年半に及ぶ徒歩旅行で、日本各地を放浪する。

1927年(昭和2年)19歳

「地上楽園」(白鳥省吾主宰)に「朝鮮の農民歌謡」を連載したのをきっかけに、口伝民謡の採集、紹介に情熱を傾ける。9月、小川静子と結婚する。

1928年(昭和3年)20歳

朝鮮民謡の訳稿を手にして、北原白秋を訪ねる。8月、白秋の肝煎りで「金素雲を紹介する夕」が催される。

1929年(昭和4年)21歳

7月、日本語訳『朝鮮民謡集』を泰文館より刊行する。10月、帰国。ソウルの毎日申報社に学芸記者として入社。以後二年間、読者の協力を得て、全国の口伝民謡三千を採集する。

1931年(昭和6年)23歳

秋、口伝民謡の原稿を携えて渡日する。

1933年(昭和8年)25歳

1月、『諺文朝鮮口伝民謡集』を第一書房より刊行する。1月、『朝鮮童謡選』を、8月、『朝鮮民謡選』を、ともに岩波文庫で刊行する。この年、帰国して「朝鮮児童教育会」を設立。以後、断続的に「児童世界」「新児童」「木馬」などの児童雑誌を刊行するが、資金的に行き詰まり、四年後に終息する。

1937年(昭和12年)29歳

7月、児童雑誌の資金調達に来ていた東京で、日華事変勃発後まもなく検挙され、半年間、大森署に勾留される。

1940年(昭和15年)32歳

4月、朝鮮現代詩の最初の訳詩集である『乳色の雲』を河出書房より刊行する。

1942年(昭和17年)34歳

4月、史話『三韓昔がたり』を学習社より、6月、童話集『石の鐘』を東亜書林より、11月、童話集『青い葉っぱ』を三学書房より、それぞれ刊行する。

1943年(昭和18年)35歳

1月、『朝鮮史譚』を、6月、童話集『黄ろい牛と黒い牛』を、ともに天佑書房より刊行。8月、『朝鮮詩集・前期』を、10月、『朝鮮詩集・中期』を興風館より刊行する。

1944年(昭和19年)36歳

小川静子との結婚生活を解消する。太平洋戦争の戦局の深刻化に随い、静子の心情との間に民族的ギャップを感じたことによる。

1945年(昭和20年)37歳

朝鮮人として国策協調にとりこまれることを避けて、2月、戦時生活相談所外地委員の名目を手に入れ、日本を去る。北満州を経て帰国。8月、日本の敗戦を釜山で知る。11月、金韓林と結婚する。

1946年(昭和21年)38歳

5月、釜山東莱で、養豚、養鶏、乳羊飼育などの園芸生活を始める。

1948年(昭和23年)40歳

9月、ソウルで青驪社を設立、週刊諷刺誌「漫画行進」を発行したが、国内騒擾により街頭販売禁止令が出されたため挫折する。

1951年(昭和26年)43歳

7月、動乱下の韓国を「地獄」と呼び、敗戦国日本を「天国」とする「サンデー毎日」の座談会記事を黙過できず、日本への公開状「木槿通信」(韓文)を「大韓日報」に連載する。11月、「木槿通信」の翻訳「日本への手紙」が、川端康成の仲介で「中央公論」に掲載される。

1952年(昭和27年)44歳

7月、随筆集『馬耳東風帖』を大邱の高麗書籍より刊行する。9月、ユネスコの招請で国際芸術家会議に出席するため、東京経由でヴェニスに向う。東京でのインタビュー記事「最近の韓国事情」(朝日新聞9月24日)が舌禍事件となり、帰途12月、東京で駐日韓国代表部に旅券を没収される。以後十三年間、滞日を余儀なくされる。

1953年(昭和28年)45歳

3月、合巻『朝鮮詩集』を創元社より、6月、童話集『ろばの耳の王さま』を講談社より、12月、民話集『ネギをうえた人』を岩波少年文庫で、それぞれ刊行する。

1954年(昭和29年)46歳

2月、随筆集『恩讐三十年』をダヴィッド社より、『朝鮮詩集』を岩波文庫で、それぞれ刊行する。

1955年(昭和30年)47歳

12月、『希望はまだ棄てられない』を河出新書で刊行する。

1956年(昭和31年)48歳

4月、『アジアの四等船室』を講談社より刊行する。

1957年(昭和32年)49歳

日韓の文化交流の一つの拠点として、韓国文化資料センター「コリアン・ライブラリー」の設立を企画する。その第一段階として〈木槿文庫〉〈木槿少年文庫〉の刊行を図るが、各二冊を送り出したのみで中断する。

1959年(昭和34年)51歳

センター開設の資金づくりを図り、テープライブラリー「録音教材社」を設立して、まずアジアの民話六巻を製作する。しかし、資金操作の不手際と人間関係の齟齬とから全く行き詰まる。素雲は事業上の失敗以上に、同胞の協力を得られなかったことに挫折感を深くする。帰国を阻まれて八年、家族との交信も意に背くことが多くなり、以後帰国するまで、屈辱と虚無感にまみれた日々を過す。

1965年(昭和40年)57歳

夏、旅券がおりる。10月、再び日本への発言はすまいと心に誓いながら羽田を発つ。ひそかに金浦空港に降りるつもりであったが、帰国第一夜からマスコミに追われ、まもなく回想録「逆旅記」の連載を「ソウル新聞」に始める。家族と暮すこと数ケ月で別居して、宿願の韓日辞典の編纂に全力を注ぐ。

1966年(昭和41年)58歳

1月、自選随筆集『健忘虚妄』をソウルの南郷文化社より刊行する。

1967年(昭和42年)59歳

7月、『日本の二つの顔』をソウルの三中堂より刊行する。

1968年(昭和43年)60歳

KBS国際放送より懇望され、1月より日本向け放送「ソウルの茶の間」(対談)と「現代詩の鑑賞」を週一、二回受持つ。断続的に二、三年つづく。5月、『精解韓日辞典』をソウルの徽文出版社より刊行。同辞典は、その後72年2月より、東京の高麗書林でも発行される。7月、随筆集『水一杯の幸福』をソウルの中央出版公社より、11月、自伝エッセイ『天の涯に生くるとも』をソウルの同和出版公社より、それぞれ刊行する。

1969年(昭和44年)61歳

9月、『東京・この巨大な村落』をソウルの培英社より刊行する。

1974年(昭和49年)66歳

7月、随筆集『日本という名の汽車』を冬樹社より刊行する。

1975年(昭和50年)67歳

5月、『韓国美術全集』全十五巻(解説を日本語訳)をソウルの同和出版公社より刊行する。

1976年(昭和51年)68歳

11月、編集と日本語訳に三年余を費した『現代韓国文学選集』全五巻(ソウルの同和出版公社と冬樹社との共同出版)が完結する。

1977年(昭和52年)69歳

12月、韓国翻訳文学賞(韓国ペンクラブ)を受賞する。

1978年(昭和53年)70歳

9月、訪日して、東大で二度の懇話会をもつなど約一ケ月間滞在する。10月、『金素雲随筆選集』全五巻、『金素雲対訳詩集』全三巻を、ともに釜山の亜成出版社より刊行する。

1979年(昭和54年)71歳

3月、随筆文学賞(韓国随筆文学振興会)を受賞する。12月、随筆集『近く遥かな国から』を新潮社より刊行するのを機に訪日。その直後より健康に異常を感じ、二週間後に予定を切りあげて帰国する。

1980年(昭和55年)72歳

1月、胃癌と診断される。3月に病名を知らされ、月末にソウル大学病院で胃の切除手術を受ける。経過は良好で、余生を韓日辞典の改訂にかけることを念願する。10月、大韓民国銀冠文化勲章を受ける。11月、「地球」主催の「国際詩人会議」に招かれて、最後の訪日をする。一ケ月間滞在して帰国後、再び健康に変調をきたす。

1981年(昭和56年)73歳

3月、再手術を受け、以後、肝臓転移のための激痛に耐えて自宅で闘病生活をする。1月、『心の壁』を、6月、『霧の晴れる日』を、ともにサイマル出版会より刊行する。10月、国際文化デザイン賞(梅原猛代表)を受賞する。『はだしの人生行路』をソウルの中央日報社より刊行する。11月2日、自宅にて永眠。師北原白秋の39年目の命日であった。享年73。

[『天の涯に生くるとも』(新潮社、1983年)巻末「年譜」より]