本稿は2007年4月16日に東京大学出版会より刊行された『古典日本語の世界−−漢字がつくる日本』(東京大学教養学部 国文・漢文学部会編)の「第I部古代、文字の文化世界の形成−−東アジアの古典古代」草稿であり、本文も若干異なり図版も省かれている。全容は書籍によりご確認いただきたい。

 
     
文字の文化世界の形成 −− 東アジア古典古代
神野志 隆光
2007/4/16
 

1 文字と政治

 この列島に、どの段階で、どのようにして文字(漢字)が受け入れられ、広がっていったか。それは、この列島の歴史において、どのように文化世界が形成されたかということに他なりません。この列島、などと言うと、もってまわったような言い方に聞こえるかも知れませんが、「日本」は、七〇一年の大宝令で、「日本天皇」というかたちで王朝名として設定されたものだと考えられます。その「日本」の成り立ちに鑑みると、いま、どのように文字の世界が形成されるかを述べるときには、「日本」は使わないほうがいいと思われます。(なお、「日本」の成立については、わたしの『「日本」とは何か』講談社現代新書を参照してください。)

 発掘があって、あたらしい資料が発見されると、これが最初の文字ではないかというふうに話題になることがあったりしますが、そうした問題のとらえかたが、文字の本質からはずれたものだということをまずはっきりさせましょう。文字らしいものが刻まれてあったとしても、一、二の文字があるだけでは、文字が社会的に機能していたという証にはなりません。大事なのは、文字が、社会的に機能しているかどうかということです。そうした観点から言えば、列島の人々が文字に触れること自体は、紀元前からありえたかも知れませんが、接触しているうちに自然に文字を用いるようになるというものではありません。単発的に書いてみたということはあったかも知れませんが、それと、社会にとっての文字ということとは別問題です。

 文字がただ存在するだけのものでなく、用いるべきものとして意味をもつようになるのは、一世紀のことでした。それは、この列島の社会の成熟とは関係なく、外側から否応なくもたらされたものでした。五七年に、倭(倭というのは、中国からこの列島の人種を呼んだ名ですが、その字の意味は実はよくわかりません)の王が、後漢王朝に使いを派遣し、冊封をうけたことはよく知られています。冊封というのは、中国王朝が王として任じて君臣関係を結び、その地域の支配を認めることですが、王であることを証する印綬を与えます。後漢王朝から倭の王に与えられたのが、有名な志賀島出土の金印でした。そして、王に任じられることによって中国王朝に対して朝貢の義務を負うことになるのですが、朝貢の際には印を使用した国書を携行しなければなりませんでした。つまり、中国王朝のもとに文字の交通のなかに組織され、文字を用いなければならなくなったということです。

 そういうかたちで文字を用いることがはじまりますが、五世紀までは、こうした中国王朝との関係という限られた場で、社会の外側で用いられたにとどまりました。列島の内部で文字が機能したと認められる資料が五世紀までは見られないのです。文字が、外部でしか意味をもたないものでなく、社会内部で機能し、意味を持つようになることを、わたしは、文字の内部化と言いたいのですが、そのメルクマールは、五世紀におくことができます。

 A千葉県稲荷台古墳出土「王賜」銘鉄剣、B埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣、 C熊本県江田船山古墳出土鉄刀の、三つの鉄剣・鉄刀の銘【図1】が、五世紀における文字の内部化を証してくれます。Aは、古墳の年代が五世紀中葉から後半のはやい時期と見られ、Bに「辛亥年七月中記」とある「辛亥年」は四七一年と見られます。CにはBと同じ大王の名があります。それらは、地方の族長に下賜することによって、服属関係を確認するものだったと考えられます。

 これらのなかで、とりわけBの最後に、「時に天下を治むるを左けむが為に此の百練の利刀を作ら令め、吾が奉事の根原を記せしむる也」とあることが注意されます。「天下を治めるのをたすけるために、この精錬を重ねた刀を作らせ、奉事の由来を記させた」という意味ですが、だれが「天下」を治めているかというと、文中に見える「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王。雄略天皇にあたるのではないかと考えられています)です。列島の王を「大王」と言い、その治めるところを「天下」と言うのです。しかし、元来「天下」とは中国皇帝の世界を言うのであり、冊封を受けるとは、その世界の中に組み込まれることに他ならなかったのです。自分たちの大王の世界を「天下」というのは、中国のそとにあって、みずからひとつの世界であろうとすることを意味します。その世界を組織することが、文字によって(厳密に言えば、レガリアとして刀剣を授与し、その上に服属関係を確認する文字を刻むことによって)になわれています。文字の内部化も政治の問題だったのです。

 さらに、七世紀後半には内部化は一挙にすすんで、列島全体に広く文字が浸透すると言っていい状況となり、文字による行政が行われていることが、木簡によってうかがわれます(図版 藤原京付け札木簡)。そして、八世紀初頭に律令国家を作り上げることにいたりつきます。言うまでもなく、成文法に基づき、文字によって運営される国家です。
要するに、文字は、政治の問題でした。文字を用いることは、文字にふれているなかで自然発生的におこなわれるようになるといったものではありません。文字(漢字)の交通を作り上げることで、国家が作られる――、それが、七世紀から八世紀にかけて一挙に果たされた文字の文化世界の形成であったということです。

2 中国を中心としたひとつの文化世界

 いま考えたいのは、その文字世界の形成です。それは政治の問題であったと言いましたが、さらに踏み込んで言うと、その文字世界は、古代の東アジアにおいて、中国を中心としたひとつの文化世界が、政治関係をベースとした文字(漢字)の交通として成り立つなかにあるということです。文化世界が、政治構造として成り立つのです。この古代東アジア世界の本質について、もっとも明確に示してくれたのは、西嶋定生です。

 西嶋は、漢字文化圏という文化的共通領域が、自然発生的な広がりではありえず、政治的関係をベースに成り立つと見るべきだとして、こう言います。

漢字が伝来修得されると、外交文書の解読・作成に限らず、漢字を媒介にして中国文化が広範囲に受容されることになる。後代における律令の受容、儒教思想や仏教思想の受容などのすべてが漢字を媒介とするものであったことはいうまでもない。このようにして中国文化が受容消化され、これを契機として日本文化が形成されていくのであるが、その発端となる漢字の受容事情が上述のように(冊封を受け、中国を中心とした文字の交通のなかに組み込まれるということです――神野志)理解されるとすれば、日本における中国文化の受容は、ただ海を隔てた大陸に先進文化が存在していたためというよりも、受容を必然化させた国際的政治事情、およびそれに対応する国内的政治事情が先行していたということに留意せざるを得ないのである。(『日本歴史の国際環境』)

 わたしは、全体がひとつの文化世界として作られるという点で、この見方をうけとめたいと思います。もちろん、中国地域で先進的に形成されていた文化を中心とするのですが、それを延伸して、共通の文字(漢字)、共通の文章語(漢文)により、教養の基盤と価値観とを共有してあらしめられる文化世界です。古代の問題として、一世紀から九世紀の範囲で(冊封を受けたときから、唐の滅亡で区切ってみます)考えることにしますが、そのとき、「中国」「日本」といった、つきつめれば、近代の国民国家の単位であるものを立ててとらえることは、有効ではないということです。

 それを、ヨーロッパの古典古代世界に擬して、東アジア古典古代世界と言うこともできるかも知れません。それぞれの地域に固有の言語が存在するなかで、その世界の共通言語として貫く漢字・漢文の位置と意味は、ヨーロッパの古典古代世界におけるギリシャ語やラテン語のそれにも相似たものがあります。

 同じ教養を共有しようとするものですから、「中国文学」の「影響」といったとらえ方が適切とは言えません。もちろん、もともと何もなかったのではありません。固有の文化の存在は考えていいでしょう。しかし、いま、文字の世界においてあるのは、それとは別なところで、ひとつの文化世界につながってみずからもあろうとする営みです。大事なのはそのことであり、漢字の文化世界の東のはてのローカルな営みとして、この列島の文字世界は、あったということです。

 それを成り立たせているのは学習です。たとえば、ある字をどう用いるかは、実際の用例に即して知らねばなりませんから、典籍を読むことが必須です。また、何かを書くというときには、文章としてのかたちを学ぶことがなければなりません。文字によって書くということは、教養を身につけることによるほかないのです。そして、その教養は、同じ文化世界にあることを保障するものにほかなりません。

3 文字学習の実際

 ともあれ、古代の人々の読み書きの現場に立ち入って、文字学習と、文字の運用の実際をうかがうことにしましょう。

 出土した木簡のなかに、習書木簡と呼ばれる類があります。『論語』『千字文』によったものが目立ちますが、それらを文字学習のテキストとして、同じ字をいくつも書いたりしたもので、字を練習したと思われるものです。そこに文字学習の実際をまざまざと見ることができます。
いくつか、並べて掲げてみます。【図2】

  糞土墻墻糞墻賦 (藤原京跡出土)
<表> 子曰学而不□□ (藤原京跡出土)
<裏> □水明□□
  慮慮慮慮逍□ (藤原京跡出土)
<表> 池池天地玄黄
宇宙洪荒日月
霊亀二年三月
(平城京跡出土)
<裏> (略)
  売売売売売
買買買買買買
(平城京跡出土)

 同じ字をいくつも書いたeは「売買」という熟語を練習したということがわかります。これはべつに何かをもとにしたというわけではなさそうですが、あとのものは、『論語』『千字文』によっていることが注目されます。

 aは、『論語』公冶長篇に「糞土墻不可杇也」とある一節をもとにしています。その文字通りの意味は「腐った土で築いた牆は上塗りができない」ということですが、心根の腐った人物には教育も無駄だという、弟子の宰予に対する批判のことばです。すごく強烈なことばですね。教師の嘆きは昔も変わらないと実感させられます。最後の「賦」はこの一段には出てきませんが、この段の前に出てくる字だということを、東野治之「『論語』『千字文』と藤原宮木簡」(『正倉院文書と木簡の研究』)が注意しています。なお、「糞」も「墻」も普通に見る字形とは異なります。異体字と言われていますが、活字の字形規範とは違う字形意識のなかにいるのだと受けとめてください。

 bも、表は『論語』為政篇の有名な一節、「子曰学而不思則罔、思而不学則殆」によるものでしょう。むやみに読みあさるだけで思索しなければ混乱するばかりだし、ただ思索するだけで読書しなければ独断におちいってしまう、という意味で、孔子の学問論とも言えます。

 cは、『千字文』の「散慮逍遥」の句(こころの憂さをはらし、のびのびとする、の意)を書いたと見られます。dの「天地玄黄宇宙洪荒日月」は、『千字文』の冒頭そのままです。「日月」から「盈昃」と続きますが、途中で切ってあります。『千字文』は、その名のとおり、基本となる文字千字を、四字一句に組み立て、覚え易くした、学習テキストです。「天地玄黄、宇宙洪荒、日月盈昃」は、「天の色は黒く、地の色は黄色である。空間・時間は、広大で茫漠としている。日や月は、満ち欠けする」という意味です。よくできたテキストですから、古代からずっと長く初歩の教科書として生き続けました。本文だけでなく、はやくから注をつけてさまざまなテキストを関連させながら(たとえば、「天地玄黄」の注は『易』『老子』をあげます。注の意味については後にまた述べます)学ばれるものでした。なお、「霊亀二年」は、七一六年にあたります。

 『論語』や『千字文』をもとに書いた木簡は他にいくつも発見されています。そのことの意味については、先にあげた東野治之の論文「『論語』『千字文』と藤原宮木簡」が、明快に教えてくれます。この二つは、東アジア古典古代世界では、最初に学ぶべきテキストだったのです。『論語』は言うまでもなく基本中の基本というべき書ですし、『千字文』は文字を学習するためのテキストとして作られたものです。初級読本をもとにした文字学びのありようがこれらの木簡にうかがえます。その学び方は中国でも同じことでした。大事なのは、文字は、一字ずつ切り離して覚えるようなものでなく、こうしたテキストの学習とともに学ばれるものであったということです。

 文字の習得ということからして、教養を共有することにおいて果されるのであり、ひとつの文化世界として成り立つ基盤がそこに認められます。

4 字書

 読み書きの現場というとき、忘れてならないのは、字書や類書、詞華集であり、また、注の意味です。教養・知識と、運用を実際にになう、読み書きの基盤として、その役割はきわめて大きかったことに注意したいと思います。

 まず、字書は、字形・字義・字音によって文字を分類したり解説したりするものですが、いま注意したいのは『玉篇』です。六世紀半ば、南朝の梁の時代に成ったものです。『大広益会玉篇』という、同じ『玉篇』という名の字書が現存しますが、後代に大きく改変されたものであり、古代の問題としては、いまは失われた元来の『玉篇』について考えねばなりません。ただ、原本も、成立後間もなく改められており、伝来されたのは原本ではなかったわけですから、正確には、原本系『玉篇』と呼ぶべきだと言われています。この字書の特徴は、所収の文字数が多く、先行の字書を取り込み、諸書から原文を引いて掲げるという体裁にあります。つまり、原典によらずに知識を得ることができるという、便利なもので、ひろく用いられたのでした。

 幸いに、一部ですが、原本系の残巻が高山寺や石山寺に残っています。それによって、元来の姿をうかがうことができます。たとえば、以下の例を見てください【図3】。相互参照をもとめられることは、すぐわかりますね。

与昭反。毛詩、我歌且謡、伝曰、徒歌曰謡。韓詩、有章曲曰歌無章曲曰謡。説文、独歌也。
古何反。説文、咏歌也。或為謌字。在言部。古文為哥字、在可部。
葛羅反。尚書、謌詠言。野王案、礼記、謌之為言也説之故言々之々不足故長言之。毛詩、我謌且謡、伝曰、曲合楽曰謌。或為歌字、在欠部。古文為哥字、在可部。
古何反。説文声也。古文以為歌字。野王案、尚書、歌詠言、是在欠部。或為謌字、在言部。

 「謌」の項の『礼記』の引用は、図版だと「説文」となっているところは、「文」は「之」の誤りですから、訂正しました。字形が似ているので誤ったのです。これらを見てゆくと、「謡」の項に、「毛詩」「韓詩」が引かれ、それによって、「歌」と「謡」とが対比的であることが示されます。「謡」は「徒歌」であり、「韓詩」によれば「章曲」のないもの、つまり楽器を伴わないで歌うものだといいます。それに対して、楽器に合わせて歌うのが「歌」だというのです。それが「独歌」だと「説文」によって確認するのでもあります。

 そこから、「歌」に関連させて見てゆくことは容易です。そして、「歌」を見ると、「謌」でも「哥」でも同じだとあります。さらに、「謌」では「歌」「哥」への、「哥」では「歌」「謌」への参照をうながされるというかたちで、三者を見合わせることが相互にもとめられます。その見合わせのなかに「尚書」「毛詩」が繰り返しあらわれます。それを「歌」に関する基本文例として、字体が通用するということととともに、学ぶわけです。「謌」の項で、「謡」と対比をなすことが、「毛詩」及びその「伝」を引いて言われることは、「謡」の項と同じです。なお、「野王案」というのは、『玉篇』の編者顧野王のコメントであることを意味します。

 一字ずつ切り離して見ることもできるとともに、相互連関のなかで(これは他の字でも同じです)、基本的な枠組みを、『毛詩』とその注である「伝」等によっておさえることが、原典によらずにここで果されます。

 ちなみに、この『毛詩』の文は、「国風」のうちの「魏風」「園有桃二章」の歌いはじめにあたります。

園有桃 園に桃有り
其実之殽  其の実を之れ殽ふ
心之憂矣 心の憂ふるや
我歌且謡 我は歌ひ且つ謡ふ
  (以下略)

 大意は、園に桃あれば食らい、心に憂いあれば歌いかつ謡う、ということですが、その「歌且謡」に対して、「伝」は、「曲の楽に合はすを歌と曰ひ、徒歌を謡と曰ふ」と注をつけます。

 『玉篇』は、その「伝」を、「謡」「歌」にそれぞれ分けて引用することがわかります。引用は分断的だけれども、『毛詩』とその「伝」という基本は、効率よく学ぶことができるという仕組みです。

 しかし、字義だけ知ろうとすると、こうしたありようは迂遠かも知れません。実際、そのために、簡略版をつくることになりました。空海編の『篆隷万象名義』【図4】は、原本系『玉篇』をもとに、反切と字義だけにしてしまったと言われるものですが、たとえば、「謡」は、

謡 与照反。独歌。

 という次第です。これはこれでまた極めて効率的に用を足すことになるでしょうけれども、質の違うものになっています。元来の『玉篇』の有していた教養学習的な意味を、ここから逆に見なおすことができるでしょう。

5 類書、詞華集

 類書と詞華集とは学ぶべき実作例文集という点で、字書より、運用の点では実用的で大事だったと言えるかも知れません(元来の『玉篇』の挙げる用例も、文例になったでしょうが、規模も質も違います)。

 類書は、主題別にさまざまな典籍から記事をあつめて、いわば切り張りするものです。ある事柄について、どの典籍にどういうかたちで載り、それにかかわる詩などにどのようなものがあるかということなども知ることができるようにしています。この列島に伝えられたものとして、『日本国見在書目録』(九世紀末に現存した漢籍の目録)には、「雑家」の部に、『華林遍略』六百二十巻、『修文殿御覧』三百六十巻、『類苑』百二十巻、『芸文類聚』百巻、『翰苑』三十巻、『初学記』三十巻等の名が見えます(図版)。『北堂書鈔』百六十巻の名はありませんが、確実に伝来されていたと認められます。文字世界の形成におけるそれらの役割は非常に大きいものがありました。

 いま残るのは、『芸文類聚』『初学記』『北堂書鈔』の三だけです。規模もかなり異なりますが、作り方も特色があり、ちょうど用途に応じていろいろな辞典や事典があるのに似ています。類書は、知識・教養を身につけるための、絶好の学習事典だったのです。

 そのことを実感するには、実見に如くはないので、これらの部立てを一覧化して示し、あわせて、天部の巻頭の記事【図5−7】を紹介することとします。

『北堂書鈔』 帝王、后妃、政術、刑法、封爵、設官、礼儀、芸文、楽、武功、衣冠、服飾、舟、車、酒食、天、歳時、地
『芸文類聚』 天、歳時、地・州・郡、山、水、符命、帝王、后妃、儲宮、人、礼、楽、職官、封録、治政、刑法、雑文、武、軍器、居処、産業、衣冠、儀飾、服飾、舟車、食物、雑器物、巧芸、方術、内典、霊異、火、薬香草、宝玉、百穀、布帛、薬、木、鳥、獣、鱗介、虫豸、祥瑞、災異
『初学記』 ―天、歳時、地、州郡、帝王、中宮、儲宮、帝戚、職官、礼、楽、人、政理、文、武、道釈、居処、器物、宝器、果木、獣、鳥・鱗介・虫

 それぞれの特色は、図版を見てわかるとおりですが、『北堂書鈔』は、その事柄にかんする熟語・短文を連ねてゆくという体裁です。内容的には、帝王部二十巻(『芸文類聚』帝王部は四巻、『初学記』帝王部は、一巻のみ)をはじめとして、政治制度に偏るところがあり、詩や賦の実作を備えません。

 それに対して、『芸文類聚』は、事項説明に続いて、詩・賦を主に、賛・銘・碑・序・表など、豊富な実作例をあげます。

 『初学記』は、巻数を少なくした簡略版ですが、「事対」(故事の対)の項を立て、それに実作例を示して詩文の制作のために備えるというように、実用性を重んじたものと言えます。

 これらだけでなく、『修文殿御覧』など、いまは残らないものも視野にいれておかなければなりません。具体的に例を挙げて言うと、『日本書紀』神代の冒頭部が、世界の始まりを、陰陽論的に語ることは、よく知られています。

古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其清陽者、薄靡而為天、重濁者、淹滞而為地、精妙之合摶易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。

 「天と地とが分れておらず、陰と陽とがわかれていないで渾沌としたなかから、清く明るいものが上って天となり、重く濁ったものは凝って地となったが、清くこまかなものは集り易く、重く濁ったものは固まりにくい。それでまず天ができ、そのあとに地が定まった」というわけですが、その文は、世界のはじまりを語る『淮南子』や『三五暦紀』をそのまま使っています(図版)。それ以外に世界のはじまりなど書きようがないからです。ただ、その『三五暦紀』は、直接見られる条件がありませんでした。『芸文類聚』に拠ったと考える説もありましたが、今では『修文殿御覧』によったものと考えられています(神野志隆光「『日本書紀』「神代」冒頭部と『三五暦紀』」<吉井巌編『記紀万葉論叢』>)。

 『修文殿御覧』は失われましたが、十世紀末宋代の『太平御覧』(一千巻)は、これを受け継いだものと言われます。大規模で、類書の代表とも言える『太平御覧』ですが、『修文殿御覧』との関係という点でも注意したいものです。

 学習事典と言ったように、それらは、典籍そのものを読まずに効率的に知識を蓄え、教養を身につける役に立ったものでした。

 さらに、注意したいのは、実用という点で、読み書きするときに、直接そのまま使える文例の手引き・参考書となったということです。『日本書紀』冒頭部が『修文殿御覧』によったと言いましたが、『日本書紀』が、全体として、『芸文類聚』を使って書いたところが多いということは、小島憲之『上代日本文学と中国文学 上』によって実証されたとおりです。書くということは、そういうかたちではじめて可能であったと言うべきでしょう。

 詞華集(アンソロジー)も、そのまま使えるという点では同じです。
周代から梁代までの詩文のエッセンス、約八百篇を集めた『文選』(三十巻)を、ここであげねばなりません。『枕草子』にも「文は、文集、文選」とありますが、八世紀においては、その存在はより重いものでした。

 『文選』は、詞華集たることを、その名において宣言して、賦、詩からはじまって、騒・詔・令・表・書・序・論等々、さまざまな文体の作品をえりすぐって総集しています。こういうものはこのように書くものだという、いわば、壮大な、見本集とも言えます。しかも、たとえば、賦に含まれる主題を、京都からはじめて、紀行、遊覧、江海、物色、鳥獣、哀傷、音楽、情、等々と、書き並べてみればもうあきらかですが、事や物を取り出して見せる、その全体が、世界にある諸々のことをあらわしだすということになるものです。詩も、多様な主題が展開されます。献詩、公讌、詠史、遊覧、述懐、哀傷、贈答、行旅等、あり得るさまざまな場面における詩を並べることは、端的に言えば、世界に起こることを詩で覆うということです。世界のなかに考えられる主題を、まさに百科的にあらわしているのであり、学ぶ側から言えば、いろいろな場面に対応して、必要なことを知り、かつ、そのまま使える学習事典だということができます。

 その『文選』につけられた注にも注目したいと思います。七世紀半ばに、李善が注をつけた『文選』のテキストが、『日本国見在書目録』に載っています。「文選六十巻 李善注」とあります。巻数でわかるように、広翰な注ですが、その注のつけ方は、もっぱらその表現に関する用例を諸書からあげるものです。

 嵆康の「琴賦」(第十八巻所収)を例として見ましょう。序において「衆器の中、琴徳最も優なり」(さまざまな楽器では琴の徳がもっとも優れている)といい、その琴について述べてゆきます。琴の材料となる「椅梧」(イイギリとアオギリ)の生えている場所から語り起こしますが、その語り起こしの部分を見てください【図8:李善注文選】。本文と注とでは、注のほうが分量が多いくらいですね。

 まず、本文だけ取り出しておきます。

惟椅梧之所生兮、託峻嶽之崇岡。 惟れ椅梧の生ずる所、峻嶽の崇岡に託す。
披重壌以誕載兮、参辰極而高驤。 重壌を披いて以て誕に載ひ、辰極に参りて高く驤る。
含天地之醇和兮、吸日月之休光。 天地の醇和を含んで、日月の休光を吸ふ。
鬱紛紜以独茂兮、飛英蕤於昊蒼。 鬱紛紜として以て独り茂り、英蕤を昊蒼に飛ばす。
夕納景于虞淵兮、旦晞幹於九陽。 夕に景を虞淵に納れ、旦に幹を九陽に晞す。
経千載以待價兮、寂神跱而永康。 千載を経て以て価を待ち、寂として神のごとく跱ちて永く康し。

 大意は、「椅梧の生えている所は、険しい山の高い岡であり、大地をおしひらいて生え、北極星に届かんばかりに高くそびえている。天地の醇和の気を含み、日月の光を吸収し、鬱蒼として茂り、花を天に飛ばす。夕べには影を虞淵に浮かべ、あしたには幹を太陽に乾かして、千年のあいだ買い手を待って、静かに神のように立ち、永く安らかであった」となります。場所の説明がなおつづきますが、ここで切ります。

 これに対して、李善の注がどのようにつけられるかというと、文脈理解や解釈を示すのではありません。「椅」について「毛詩」とその「伝」を、桐と琴について「史記」を、「誕」の訓について「毛詩伝」を、「辰極」について「爾雅」を、「驤」の訓について「尚書伝」を、第三の句全体について「周易」を、「蕤」について「説文」を、「虞淵」について「淮南子」とその注を、「幹」「九陽」について「楚辞」とその注を、「待價」について「論語」を、それぞれ主に用例として挙げるのです。

 琴の素材の桐について語られたものと、そこに注として集められたものから派生してゆく知識(原典を見ることなく得られます)と、あいまって、教養と表現見本とを一挙に獲得できます。多様な学習事典となるわけです。

6 大伴旅人の手紙と藤原宇合の詩をめぐって

 見てきたような学習による教養の営みとともに、はじめて書くこと・読むことがありえたし、それ以外に方法はなかったということですが、実際の場面に具体的に立ち入って見ましょう。
『万葉集』に入っている大伴旅人の手紙と、『懐風藻』のなかの藤原宇合の詩とを取り上げて見ることにします。
旅人の手紙というのは、琴を贈るのにつけられたものです。

    大伴淡等謹状
梧桐日本琴一面 対馬結石山孫枝
此琴、夢化娘子曰、余託根遥嶋之崇巒、晞幹九陽之休光。長帯烟霞、逍遥山川之阿、遠望風波、出入雁木之間。唯恐百年之後、空朽溝壑。偶遭良匠、×為小琴。不顧質麁音少、恒希君子左琴。即歌曰、
伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我摩久良可武(八一〇)
僕報詩詠曰
許等々波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍之(八一一)
琴娘子答曰
敬奉徳音。幸甚々々。片時覚、即感於夢言、慨然不得止黙。故附公使、聊以進御耳。謹状。不具。
天平元年十月七日、附使進上。
謹通 中衛高明閣下 謹空

 対馬の梧桐で作った琴を、「中衛高明閣下」つまり藤原房前に贈ると言って、琴につけた手紙です。歌も二首入っている、進上の口上です。ちょっと手がこんでいて、夢に琴が乙女となってあらわれ「遠く離れた対馬の高山に根をおろし、百年の後むなしく谷底に朽ちることをおそれていたが、たまたま琴となったので、君子のそばにおかれることを願う」と言い、「いかにあらむ、、、(いつの日か音のよくわかるひとの膝の置かれることでしょうか)」歌ったのに、「こととはぬ、、、(もの言わぬ木ではあっても、きっとすばらしい方の愛用を受けるだろう)」と答えたら、琴の乙女が喜んだと言い、その琴を進上すると言うのです。房前こそ、琴を持つべき「うるはしき君」だということになります。省略しましたが、このあとには、房前の返事も載っています。

 琴の材の桐について述べる表現は、どの注釈書も指摘していますが、先にあげた「琴賦」をそのまま使っていることが瞭然ですね。「託峻嶽之崇岡」「吸日月之休光」「旦晞幹於九陽」を適宜組み合わせて作文して、「託根遥嶋之崇巒、晞幹九陽之休光」ができています。琴の材については、こんなふうに書くものだという文例として使っているわけです。

 そもそも、どのようなときにどう書くのかということを共有しなければはじまりません。コミュニケートの前提がなければ、書くことも、読むことも成り立ちません。手紙というのはこのようなかたちで書くものだということからはじめて、共有される基盤(まさに教養)が必要です。この列島に生きた人々は、東アジアの文化世界において、はじめて、それを可能にしたのです。

 宇合の詩は、「悲不遇」と題するものです。

賢者悽年暮。明君冀日新。 賢者は年の暮るることを悽み、明君は日に新しきことを冀ふ。
周日載逸老。殷夢得伊人。 周日逸老を載せ、殷夢伊れの人を得たり。
搏挙非同翼。相忘不異鱗。 搏挙翼を同じくせね、相忘鱗を異にせず。
南冠労楚奏。北節倦胡塵。 南冠楚奏に労き、北節胡塵に倦みぬ。
学類東方朔。年余朱買臣。 学は東方朔に類し、年は朱買臣に余る。
二毛雖已富。万巻徒然貧。 二毛已に富めりと雖も、万巻徒然に貧し。

 明君に見出された太公望(逸老)・傅説(伊人)を持ち出しながら(三、四句)、鐘儀・蘇武のように苦節を重ねることを言い(七、八句)、東方朔・朱買臣を引き合いに出して報われないで齢四十を越えたことを嘆く(九、十句)という、故事にあふれる詩です。

 しかし、それは知識のひけらかし(ペダントリー)ではありません。不遇を訴えることが、そのようなかたち(ないし、パターン)で言うしかないということなのです。また、このように言うからといって、宇合が不遇意識を強くもっていたと見るのもどうでしょうか。それは発想の様式であって、自分の身について不遇を言うスタイルによったと見るべきかと思われます。

 そして、その故事の教養がいかに共有されるか。元来の出典として言えば、『史記』(太公望、傅説)『春秋左氏伝』(鐘儀)、『漢書』(蘇武、東方朔、朱買臣)になるかも知れません。しかし、多重複線的なさまざまな学習を通じて作られてゆく教養の世界だと言わねばなりません。字書を通じてかも知れないし、類書から得たかも知れません。あれこれの、そうした全体が文字の文化世界をつくっていて、それを共有しているから、この詩を読むことも成り立つということです。もともと何から出たかというような、出典をもとめるのが大事だということではないでしょう。

 たとえば、宇合の詩における朱買臣に関して、もうすこし立ち入って見ましょう。「年は朱買臣に余る」というのは、年齢がもう朱買臣を超えたということです。薪を売っていた朱買臣が妻に見限られ去られたが、のち武帝に取り立てられ、故郷に錦を飾ったという話を踏まえています。その出世の年齢が、『漢書』では五十歳近くだとあります。そうだとすると、このとき宇合が五十を超えていないと、この嘆きは意味がありません。しかし、『懐風藻』によれば、宇合の没年は四十四歳と見られます。それだと、「年は朱買臣に余る」は、誇張とは解しがたいと言うしかありません。

 実は、『枕草子』にも、朱買臣の年齢に関わる話があります。日本古典集成本だと第一五四段です(『枕草子』は、本によって段の立て方が異なります)。「故殿の御服の頃」と書き出される一段です。中宮定子が、父藤原道隆の喪に服していたころのことというのです。そのなかで、藤原斉信の朗詠が名調子で「三十の期に及ばず」という句を、ことさらうまく吟詠していたと、藤原宣方の吟詠をくさしたところ、悔しがった宣方は、斉信に教えを受け、その真似をして吟詠してやってきたといいます。いままで居留守をつかっていたのに、この句を吟じてやってきたら面会するようにしたともいうのですが、あるとき、「三十の期に及ばず」はいかがでしょうと言ってよこした(つまり、面会をもとめてきた)のに対して、清少納言が、「その期はすぎたまひにたらむ。朱買臣が、妻を訓へけむ歳にはしも」(その年頃はとっくにお過ぎでしょう。朱買臣が、妻をさとしたという、年齢にもおなりではありませんか)とやりこめたので、そのことを聞いた帝が、「三十九なりける歳こそ、さは戒めけれ」(たしかに、宣方と同じ三十九になった歳に、朱買臣が、妻をさとしたのであったね)、宣方は言われたものだと仰せられたとあります。三十九歳で妻に去られたのでないと意味がなく、やはり『漢書』ではあいません。そこで、古典集成本の注は、古注本『蒙求』を挙げています。

 『蒙求』は、唐代にできたもので、古人の言行を四字の句にして覚えやすくしたものです。「蒙求」というのは、童蒙の求めに応じるという意味で、初学書たることを名乗っているわけです。上中下三巻に、上古から南北朝までのおよそ六百人を収めています。

 朱買臣のことは「買妻恥醮」として載せます。朱買臣の妻は再婚したのですが、太守となって帰京した朱買臣と会い、恥じて自殺したということを、四字に集約したわけです。これに注をつけておこなわれていました。「買妻恥醮」には、当然『漢書』を引くこととなります。こうした注とともにあれば、典拠つきの人物辞典というものにほかなりません。原典を見ずに、手っ取り早く、故事を学習する辞典がここにもあったのです。宋代の徐子光が注を整備した、いわゆる補注本がいま残っています(図版)。それによれば、やはり五十歳近くの出世となりますが、古注(図版)では『漢書』によるとしながら、朱買臣の言は「予、年卌当富貴、今卅九」とあって、四十になればきっと富貴になる、いま三十九だから、あと一年待て、と言ったのに妻は聴かずに去ったとあります。

 古注の年齢だと、『枕草子』の話にも合うし、宇合の詩にも適合します。しかし、宇合には、『蒙求』は時代が合わないと言われるかも知れません。『蒙求』自体は、八世紀半ば、唐代の成立です。しかし、そうした学習的人物辞典(これも類書と言えます)は、その前から作られていて、『琱玉集』(『日本国見在書目録』によれば十五巻。六朝末の撰と見られています)のようなものが伝来されて、二巻だけですが残っています(図版 中国では失われてしまいました)。敦煌でも、人事中心の類書『語対』が発見されています。この『語対』のなかには、「棄夫」の項があり、「買臣妻」が載っていますが(図版)、ここでも『漢書』によるとしながら、四十、三十九という、古注『蒙求』と同じ年齢設定の話となっているのです。そうした状況からすると、宇合の詩のもとにあったのは、『蒙求』以前にもあった、同じような類書による教養だと認めてよいでしょう。

 『漢書』の問題はいまおきますが、学習辞典的にこうした類書があり、リアルタイムで、この列島においてそれらを学習していたと考えるべきです。それは、「影響」「出典」などというのが適切でなく、本質からはずれることはもう理解されるはずです。教養を共有し、ひとつの文化世界に生きるということだったと言わねばなりません。

まとめ

 漢字・漢文によって、この列島の文化世界が形成されたということを見てきました。読み書きすることが、東アジア古典古代世界というべき、ひとつの文化世界においてなされることの実際に即して見ることがもとめられるのです。それは、一続きの教養の基盤に、学習によって繋がり、同じ文化世界に生きるという営みであったことを見るということにつきます。

 

参考文献

沖森卓也・佐藤信『上代木簡資料集成』、おうふう、一九九四年。
国立歴史民俗博物館編『古代日本 文字のある風景』、朝日新聞社、二〇〇二年。
木簡学会編『日本古代木簡集成』、東京大学出版会、二〇〇三年。長澤規矩也・阿部隆一編『日本書目大成 1』(「日本国見在書目録」)、汲古書院、一九七九年。
『原本玉篇残巻』、中華書局、一九八五年。
董治安主編『唐代四大類書』(『北堂書鈔』『芸文類聚』『初学記』)、清華大学出版社、二〇〇三年。
 *『北堂書鈔』『芸文類聚』『初学記』は、単行本としても刊行されている。
『文選』(李善注)、複数の出版社から刊行されている。小島憲之『上代日本文学と中国文学 上』、塙書房、一九六二年。
東野治之『正倉院文書と木簡の研究』、塙書房、一九七七年。
西嶋定生『日本歴史の国際環境』、東京大学出版会、一九八五年。
神野志隆光「『日本書紀』「神代」冒頭部と『三五暦紀』」(吉井巌編『記紀万葉論叢』)、塙書房、一九九二年。
東野治之『木簡が語る日本の古代』、岩波書店(同時代ライブラリー)、一九九七年。(初版、岩波新書、一九八三年)
神野志隆光「文字とことば・「日本語」として書くこと」(『万葉集研究』二一集)、塙書房、一九九七年。
神野志隆光『「日本」とは何か』、講談社現代新書、二〇〇五年。

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