来し方を振り返って思うこと。
高校生のときに、文楽ぐらい見ておけ、と父親に連れて行かれた大阪日本橋の国立文楽劇場で、私は人形浄瑠璃に初めて出会い、その美しさと迫力の虜となった。『国姓爺合戦』に続いて『妹背山婦女庭訓』、『菅原伝授手習鑑』。『仮名手本忠臣蔵』は言うまでもなく。
その後京大に進学した私は、ガラパゴスのようなキャンパスで様々な人と出会い、自分なりの価値判断の規準を求めて模索していた。当時学んだ言葉の一つ――美談とは社会の不幸のバロメーター。高校生の頃には輝いて見えた時代物の歴史スペクタクルは、大学生の私には、子どもが忠孝の犠牲にされる理不尽な芝居と映った。興味を感じたのは、むしろ、近松の世話物だった。なかでも、若者の非行を描いた『女殺油地獄』は、とても斬新に見えた。
国文学に進むつもりでガイダンスに行ったところ、暗く寒々とした雰囲気に気持ちが沈み込んだ。北向きで陽の当たることのない第五講義室で行われたことが、災いしたのかもしれない。一方、第二志望の英文研究室は文学部新館四階の西側にあって、明るい午後の陽光が燦々と射し込んでいた。こっちにしよう、と思った。但し、これは京大での思い出話なので、念のため。
人生の岐路における選択とは、私の場合、随分と単純なものだったようである。その単純な決断の積み重ねの上に現在の私がある。なぜ、ある特定の時代に、ある特定の詩人なり作家なりが、ある特定の傾向を持つ文学を生み出すのか。文学と歴史、文学と芸術、外国文学と日本文学を並べて考えると、見えなかったものが見えてくる。
さて、私の人生双六は、これからどうなるのだろう。小学生のときは昆虫少年であり、中学生のときは数学少年だった。あの頃の理系少年としての私は、私の人生にどのように関わってくるのだろうか。日々手探りの気分であるが、生きるとはそういうことなのだろうと思い始めている。 |