大学人は概して真理を追い求めるもので、それは文学や芸術に親しむ者にとっても同じなのですが、困ったことに物語も絵画も結局は虚偽なのであり、言ってみれば嘘つきです。朝読む新聞の記事がどれもこれもフィクションだらけでは戸惑うことでしょうが、日々読む小説がノンフィクションばかりではお話になりませんし、図画も版画も本当にあったことをそのまま描いたというだけではなかなか絵になりません。
ただ嘘から出たまこととでも言うのでしょうか、「芸術は嘘であるが私達に真実を明らかにしてくれる嘘である」とピカソが言っていますから、その嘘に真剣に向き合うというのも面白いものです。ところが「私は常に真実を言う偽りである(ジャン・コクトー『山師トマ』)」などと言う手ごわいペテン師もいますから、学問として文学や芸術に立ち向かう時には何か方策が必要です。
アンリ・ベルクソンは「私達が何かを目にした時に通常はそれを見ていないものだ、なぜなら私達が見ているものは実はそのものと私たちの間にある決まり事だからである」と言いましたが、決まりきったものの見方という束縛から逃れ、スタンダールが歎じたような文学や芸術の美しい嘘に立ち向かうには、何か他の文学、他の芸術との比較が有力な手段となります。それは直接的に私達に真実を明らかにするのかもしれませんし、遠回りに真理を告げてくれるのかもしれません。私達の分科ではその比較の方法論を学術的に学び使うことができます。
名高い嘘つきの話に「『クレタ人は嘘つきである』とクレタ人が言った」というものがありますが、マグリットが描いた『これはパイプである』という食わせもののパイプの絵を見ると、その背理と共に芸術作品の持つ真理について考えさせられます。ジャンルや国境を越えて比較することにより、その思考はさらに深まりを持つものです。大学という場で、多くの人とそのような経験を分かち合いたいと考えています。 |