夏目漱石『三四郎』の冒頭近く、大学入学のため上京する三四郎は、列車内で謎めいた人物と言葉を交わす。日露戦争後の日本を擁護しその発展への期待を口にする三四郎に、その男は「囚われちや駄目だ」と言い放つ。
私は現在、文献調査の基本を実習する授業をしているが、以前、私自身がこの授業で学び、これからも授業を通じて伝えたいことはこの言に少し似ている。すなわち、調べる際、「眼前の現状に囚われるな」ということだ。たとえば、身近な図書館の現状、そこで見られる書物に調査を限定されては駄目だ。何を調べるべきかという観点から、時にはその図書館では足りないと判断し、別な場を探すようでなければならない。現状でできる調査ではなく、あくまで必要十分な調査を追求すること。
これだと調査だけの問題に聞こえるかもしれないが、たとえば、実に面白そうなフランスの文人に出会った時、フランス語未履修だから避けよう、ではなく、その時からフランス語学習を開始するのも同様の態度だと思う。こうありたいというところから現状を変える努力をする。そこで求められるのは、勤勉にとどまらない強引さ、もっといえば野蛮さかもしれない。
そして、ここでいう現状とは、自分の学力や身近な図書館の蔵書にかぎらず、対象についての「普通」の見方、現行の学部学科の枠組み、対象分野の既存研究の状況等々、時には三四郎の場合のようにこの国のイメージさえ含みうるだろう。これら「現状」の中には簡単に変えられないものもある。だが、自分の中に、こうありたいという望みと現状との対立を創り出し、それを乗り越える努力をするのが重要だと考える。「囚われちや駄目だ」と言われた時、三四郎は真に郷里を出たような心持ちがしたのだった。それをショックとして消化してしまわず、着実に、時に強引に具体化していくことを追求したい。 |