東京大学教養学部国文・漢文学部会編
『古典日本語の世界 漢字がつくる日本』第一部について 
鉄野昌弘[東京女子大学]
2007/6/23
 

はじめに

(本講義は、神野志隆光氏よりの「『古典日本語の世界 漢字がつくる日本』の第一部記述について、どう評価するか」との問いに答える形で構成したものである。該当章から主な部分を抽出し、コメント(▼以下)するというスタイルを採った)

はしがき(神野志隆光氏)

 かなの和文を中心とする「古文」は、実際にあったものとは違う、近代国家によって作られた制度である。「日本語」によって一体性を持ち続けてきたことを、文学の歴史の中に確かめ、「国民」の一体性を保障するための文学史が求められた。
 「古代からあり続けた固有の民族の言語=『日本語』による文学」という近代の幻想に対して、近代以前の現実の文化は、圧倒的に漢字・漢文の中に生きていた。

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 従来の「古文」の問題点を端的に指摘し、本書の意義を過不足なく述べた序であると考える。その認識には共感できるし、一致して全面的に文学史を正当に書き換えようとする壮図に敬意を表したい。東アジア漢字文化圏の末端にあり続けたことを隠蔽することは、戦後も無自覚のまま継続されてきたが、今や文学史の実際をいっそう縁遠いものにすることによって、露骨な「日本」文化中心主義が国家によって唱えられるに至っている。その点で、東大でこのような良心的な企画が立てられ、実行に移されたのは意義深いし、影響力もある(あってほしい)と思う。

文字の文化世界の形成―東アジア古典古代(神野志氏)

1.文字と政治
 文字が存在しているかどうかでなく、社会的にいかに機能しているかどうかが重要。一世紀段階(奴国)では、中国王朝との関係という限られた場で、社会の外部で用いられたに止まる。「文字の内部化」のメルクマールは五世紀にある。列島内部で、文字が広範に流通する。それは、中国王朝の「天下」とは別の「天下」を、服属によって組織することであった(稲荷山鉄剣銘)。要するに文字は政治の問題であって、国家形成とともに、「文字の文化世界」が形成される。「文字の内部化」は、七~八世紀に一挙に進展した。

2.中国を中心としたひとつの文化世界
 その「文字の文化世界」は、古代東アジアで、政治関係をベースとした文字(漢字)の交通として成り立つ中にある。それぞれの地域に固有の言語が存在する中で、世界の共通言語として漢字・漢文があり、それによって教養・価値観が共有される。それは「東アジア古典古代」と呼ぶべきものである。

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 「文字の内部化」という語に、内田賢徳氏『上代日本語表現と訓詁』の「倭語を記すこと」(序章第二節)を想起する。同じく稲荷山鉄剣銘を扱って、「足尼」(スクネ)や「獲居」(ワケ)といった語に、「前代と異なる倭語の音節への、内側からの把握」がある。すなわち「外側から近似的に写されるのではなく、同じく近似的な文字を字母として表記されるのである。」「この銘文は、五世紀に書かれた漢文として、倭の人たちが一般に目にしたであろう、交互を交えた当代の文章の形式をもっている。しかし、すべてが漢文であることに尽きるのではない要素がある。…宮なり児なりは、その倭語としての意義を、文の中で構造的に了解されるのである。それは、ここに既に契機としての倭文が出発していることを意味している。」ここに、万葉仮名と訓字が同時に成り立ってくる、と説く。
 本書とは、巨視的・微視的の対照を持つし、「日本語表現」「倭語の表記」といった問題の立て方自体が、本書にとっては批判の対象なのであろうが、やはり同じ事態の両面を捉えたものとして見合わせたいと思う。中国王朝の「天下」とは別の「天下」を標榜しつつ、自らの中に「東アジア漢字文化・古典古代」を形成せねばならない、という矛盾の中で、非漢文(後述)への志向は当初から必然的であっただろう。

3.文字学習の実際
 『論語』『千字文』の習書木簡。文字の習得の実際を示すもので、これが「古典古代」の教養を共有するための基盤となる。

4.字書
 原本系『玉篇』の利用が想定される。多くの例文を持つことで、「原典によらずに知識を得ることができる」ということに利点が見出された結果である。「教養学習的な意味」を持つ字書であった。

5.類書・詞華集
 類書…『北堂書抄』『芸文類聚』『初学記』 また『修文殿御覧』を吸収した『太平御覧』
 詞華集…『文選』特に「李善注」が、教養と表現見本とを一挙に獲得できる「多様な学習事典」となる。

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 こうした工具書的な書物に関しては、芳賀紀雄「万葉集比較文学事典」(『万葉集事典』所収)に詳しい。「教養学習」ということが、いずれの小節においても強調されている。個別に典籍にあたって読み込むということではなく、便利なツールによってまとめて覚えこむという態度であった。確かにそうした面は否めない。

6.大伴旅人の手紙と藤原宇合の詩をめぐって
 旅人の房前宛書簡(万葉集巻五)…『文選』嵆康「琴賦」による
「手紙というのはこのようなかたちで書くものだということからはじめて、共有される基盤(まさに教養)が必要です。」
 宇合「不遇を悲しぶ」(懐風藻)…太公望・傅説・鍾儀(P26「鐘」は誤り)・蘇武・東方朔・朱買臣などの故事を踏まえる。
 「それは知識のひけらかし(ペダントリー)ではありません。不遇を訴えることが、そのようなかたち(ないし、パターン)で言うしかないということなのです。また、このように言うからといって、宇合が不遇意識を強くもっていたと見るのもどうでしょうか。それは発想の様式であって、自分の身について不遇を言うスタイルによったと見るべきかと思われます。」
 朱買臣の故事は、『漢書』によったとすると、朱買臣と宇合の年齢が合わない。『蒙求』のような類書によった可能性が高い。
 「学習辞典的にこうした類書があり、リアルタイムで、この列島においてそれらを学習していたと考えるべきです。それは、『影響』『出典』などというのが適切でなく、本質からはずれることはもう理解されるはずです。教養を共有し、ひとつの文化世界に生きるということだったと言わねばなりません。」

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 「教養を共有する」基盤の上に成り立つやりとりであり、作品であることは疑いない。しかしその上で、個々の作品に対する「影響」を考えてもよいのではないか。例えば、旅人の歌に、嵆康を初めとする竹林の七賢のような、琴を友とする生活や、君子の交友に対する憧憬があったこと、あるいは房前に対して、そのような交友を取り結ぶことへの訴えかけがあったことは考えられるであろう。そこには、単に琴にまつわる事柄を述べ立てる以上のものがあったと考えたい。宇合詩の場合、「不遇を悲しぶ」という直截な題にしろ、最初から最後まで典故を並べる構成にしろ、既に和臭と言うべきで、「そのようなかたちで言うしかない」というのは正しいだろう。しかし、それが類書によって得られた知識で述べられていたとしても、「不遇」という主題を、宇合が主体的に選び取って、少なくとも『懐風藻』に載る限りでは、最初にそれを歌っていることも確かである。藤原四子の三男として、詩に傾倒するとともに、むしろそれによって「不遇」意識を持つようになったと見られる。慣例を破って、兄とともに参議になりながら、一方で実行部隊として東奔西走しなければならなかった宇合には、中国の様々な「不遇」の人に対する共感があったと見てよいだろう。
 ただし、ここはマクロな見通しを述べるところであり、そのような個々の影響関係を論ずる場ではない。

漢字と非漢文の空間―八世紀の文字世界(神野志氏)

1.はじめに

2.訓読による学習とそれがもたらすもの
 外国語をダイレクト・メソッドでなく、訳読法(訓読)で学ぶとき、漢字の読み書きの浸透が一挙に果たされ、外国語として読み書きするのとは異なるものをもたらす。七世紀後半、列島全体に文字が行き渡るとともに、漢文とは認められないものが現れる。そうしたもので、文字の広がりが支えられている。例えば「山名村碑文」。
 訓読するとは、文字を自分たちの言葉の中で消化すること。漢文でないということが本質的であるから、「非漢文」と呼ぶべきもの。

3.文字世界のなかの非漢文
 天武朝段階での非漢文の一般化、多様な表記を飛鳥池木簡に見る。仮名主体から、訓・仮名交用、訓主体まで。
 文化世界の中心はあくまで漢文であり、それによって東アジアの文化世界につながっている。しかし漢文も、ダイレクトに読み書きされるだけでなく、訓読されることで、単なる外国語文を超えて、非漢文とひとつながりのものとなる。

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 「和化漢文」「変体漢文」「倭文体」といった呼び方に対して、「非漢文」はどうか。中国語話者には理解不能、すなわち「東アジア文化世界」と直接にはつながり得ない、という面を捉えて、そのように呼ぶことは適当である。「非~」という形で規定することに違和感を覚えないわけではないが、本来漢文しかないところに、それと異なる文が現れた時、それを非漢文と呼ぶことは許されよう。ただし訓読を通じて、漢文と非漢文が一続きである時、そこに両者の線引きをすることは難しいことになる。漢文と一口に言っても、様々な文体があることは周知の通り。また訓読は、非漢文を生む原因ではあっても、漢文と非漢文とを分ける要素ではない。正格の漢文(中国語話者が理解できるもの)を訓読すれば、訓読文は漢文そのものではないが、無論書かれてあるものは漢文に他ならないからである。問題は、漢文が、書記されるのは一つの形でも、読む時には、中国語文にも日本語文にもなるということから起こっている。したがって書記の側から見るか、音声の側から見るか、また中国語話者の側から見るか、日本語話者の側から見るか、で見え方が変わってくるのではないだろうか。中国語話者にとっては非漢文にしか見えないものが、書いている日本語話者は漢文のつもりで書いていることは当然ありうるだろう(後の品田論文)。どのような呼び方にせよ、一面的にならざるを得ないようにも思う。「非漢文」は、書記された形の上で、正格漢文からの距離と考えておけばよいだろうか。

4.訓読のことばの人工性
 訓読の言葉は、人工的であって、現実の生活の中で話されている言葉とは異質である。万葉仮名文書のようなものでも、その言葉は、訓読する中で得る以外にはなかったはずの言葉である。

5.漢文から非漢文までひとつながりの読み書きの空間
 法隆寺金堂では、薬師仏光背銘の非漢文と、同じく釈迦仏光背銘の漢文とが並んでいる。漢文と非漢文とのが「ひとつながり」であることを象徴する。非漢文といっても、薬師仏光背銘のそれは、精錬されたものであり、例えば正倉院文書のそれとひとしなみには扱えない。非漢文の書記がより広く用いられ、仮名主体の文書なども現れるのは、正倉院文書に代表される実用的な場であるが、その中から古事記・万葉集のようなハレの側で書記されたものが出てくることを見なければならない。

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 このあたりは、十分に納得がいく。「ことばがあってそれを文字にするのではなく、文字から作られたことばのうえに文字で書くというべきなのです。」は、端的に事態を説明している。

6.文字テキストの水準―『古事記』に即して
 序文によれば、「帝紀」「旧辞」といった基になる文献があって、それに検討を加えたものを阿礼が「誦習」したことになる。ただし阿礼が「古語」を「誦習」したのをうけたかのように言うのは、安万侶の虚構・装いと見るべきである。基に何も無かったのではないが、考えられるのは現在見る形であり、それはあくまで八世紀の文字の技術環境に出るもので、訓読のことばの基盤の上に成り立つものでしかない。
 ひとつの物語構造をもつテキストが、訓字の連続によっていかに成り立たせられているか。字種を絞り訓・用法を限定すること、多様で多数の注をつけること、接続辞の多用。単純な事柄を重ねて、出来事の継起として組み立てることも、伝承の次元の素朴さの反映などではなく、文字テキストの構成の方法と見るべきである。時間的構造は作らないで、できごとを積み上げる、できごとの広がりを作るという物語叙述のありようを方法化する。

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 「出来事の継起」という形で語られていて、時間的整合性は求められていない、ということは、重要な指摘として認められるだろう。ただし、それをどのように評価するかは難しい。「ふくらみのない叙述」は、訓読によって作られた文章語の、初期的であるが故の限界、「文字テキストとしての水準」の低さと考えるべきか。しかし筆者は、そのように否定的にではなく、物語叙述の方法として評価したいらしい。ならば、時間的整合性や叙述のふくらみを犠牲にして、何が実現しているかが問題であろう。「できごとの広がり」は、その点、やや説明不足に感じる。出来事だけを連ねることによって現れるリアリティは、特に神話のような不可思議な事柄を語る時には有効であると思われる。場面場面での迫真が追求されていて、物語全体を一つの時間的連続としては見ていないと言えばよいか。
 漢文で記された日本書紀第六の一書は、その点、あらすじばかりで全く迫力が無い。しかし古事記が書いたものは、漢文では実現できないか、と言えば、そうとも言えないだろう。なぜ古事記がこの「非漢文」を採用しているのか、という問題は、本書では触れられていない。
 更に言えば、古事記における空間の整合性の問題も考え合わせられよう。「黄泉国」でありながら、少しも地下世界らしくなく、境の「黄泉比良坂」は、下ったところに「葦原中国」があるように述べられること、後の「根国」は別の世界でありながら、境はやはり「黄泉比良坂」であるとされることなど。

漢字と『万葉集』―古代列島社会の言語状況 品田悦一氏

1.『万葉集』の書記方式
文字で書かれている以上、古事記と同様、万葉集も書記言語の一種である。しかし事柄が伝わればよい古事記とは異なり、歌は細部まで伝える必要がある。実際、多くの万葉歌は、一定の排他的な訓読を目指すものになっている。

2.万葉語は古代日本語か
 宣長によって万葉語は、回帰すべき正しい「古語」とされた。「文字は借り物」とすることで、古道の書たる記紀が漢字で書かれたという、屈辱的な関係を逆転する。それは無論、口頭言語の次元に見出されなければならなかった。更に近代「国語」学がそれを引き取り、組み替えて、太古から連綿と続く「国語」(国民の言語)の実在と位置づける。国家の成員を均質な「国民」と見なす理念から求められた、「統合の象徴」としての「国語」。しかしそこには二重の倒錯がある。すなわち①七~八世紀の列島社会には、国家はあっても「国民」は存在しなかったし、②当時の言語交通は漢文が中心だったにも関わらず、非漢文による俗語が特権化されている。

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 品田氏ならではの観点からの問題提起と言ってよいだろう。「はしがき」に書かれた本書の主題と、もっとも深く関わる部分でもある。

3.七―八世紀列島社会の言語状況
 律令国家の文書行政を支えていた漢文は、官人の大多数にとっては、口頭言語としての中国語に還元できない書記専用言語であり、訓読がその理解を支えていた。一方、列島内部において、様々な地域語があって、異なる地域同士では、口頭語による意思疎通は困難であった。畿内語は、化内の地にかなり広く通じたろうが、それはもろもろの文書が流通し、その訓読が畿内語で行われていたからであって、化内でも僻地では識字層にしか通じなかったはずである。その畿内語が、やまと歌という宮廷の文化を通して精錬され、特殊な位相を呈したことばが万葉語に他ならない。

4.非漢文の書記資料は何語を書いたものか
 数式を書く時に何語を書いたかを意識しないのと同様、木簡を書き残した人々に、何語を書いているかという意識は無かったろう。漢文を前提とする書式に則り、字音語が含まれる一方、正格の漢文とは異なる語順も見える。「表意文字で読み書きする行為は、原理的には個別の言語を超えた次元で成り立つものでありながら、実地にはローカルな言語の干渉を免れない」。そしてこうしたローカル言語に影響された書き方自体が、朝鮮半島から伝わった可能性もある。形式上の大枠の中に、訓読しやすい文字をはめこんでいく流儀で文章が成立している。漢文の文法に通じていなくても読み書きできる実用的な書記である。

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 「大部分が西澤一光氏の論文からの受け売り」と言う。確かに西澤論文の論旨の一部を取り出している。それ以上に、西澤論文は、本書の趣旨と重なるところが大きい。

上代書記体系の多元性をめぐって
書記体系の多元性―一言語使用という神話をめぐって
1 「国語表記史」という虚構
2 漢語による神話の「翻訳」をめぐって
3 書記体系の多元的性格と漢字の双面的機能について
文字言語としての「日本語」の生成について
1 普遍言語から固有言語へ
2 「文字言語」の生成―「森ノ内第2号木簡」をめぐって
3 「法隆寺二天造像銘」と「山名村碑文」をめぐって
文字言語と音声言語の境界確定
1 「辞」の文字化について
2 「音声言語/文字言語」という境界確定について
3 「俗語」から「日本語」へ―北大津遺跡出土の木簡をめぐって
結語―固有なものをめぐって

 「日本」において「日本人」の間で「漢文」がコミュニケーションの媒体として使われてはならないというのは、「国語史」のもたらした最大の虚構だと言っていい。やはり当時の文明語は圧倒的に「漢語」であり、それから見れば自土の言葉は「俗語」にすぎなかったのである。(一-1)
 「漢語」を記す文字も「日本語」を記す文字も、実は同じ文字なのであり、このことを通じて「漢語」と「日本語」という二つのシステムが相互互換的関係に置かれていたのである(一-3)
 本来、漢字は東アジア文明圏に流通する普遍語としての漢語を表わす手段であり…漢字の用法に差異が生ずるのは、東アジア世界の宗主国中国に対して、朝鮮半島の三国や日本列島の倭国が国家としての独立性を獲得し、中国からの脱属領化を成し遂げていった過程とパラレルな事態である。…漢字が個別文化の刻印を背負って東アジア世界に流通するということ自体、逆説的に、この文字の普遍性を示すものだと言ってよい。…そのような漢字の多元性こそが列島の文字言語を成り立たせた(二-1)
 文字言語としての「日本語」は、あり得たであろう「音声言語」―それを「日本語」と呼ぶことは不可能である。なぜなら、それは多数多様の口頭言語であり、規範性をもたない俗語だからである…―を出発点として生成したものではなく、半島経由でもたらされた「漢語」の内側から生み落とされたものである(二-3)
 このような書記方法は、原理的にはピジン言語と似ている。…シンタックスに頓着しないからこそ結果的に母国語のシンタックスに従ってしまう…あくまでも語(一字)単位の〈訓読〉を想定した書き方であり、読ませ方である。(三-1)
 固有の「文字言語」(「日本語」)が普遍的な「文字言語」(「漢語」)を食い破って出てきたという順路で「日本語」の問題を考える…「文字言語」は「音声言語」を写す道具だという写像論の形を取る理論こそ、上記のような定式化と対極に立つ…文字は唯一真正なる音声言語を写すものであるとされ、そこでは方言的な差異がいっさい隠蔽されてしまう。しかし事態はその逆であって、文字なしに唯一の規範的な言語が現れることはできない。(三-2)
 文字一つ一つについて「日本語」とのあるべき対応を確定する作業が〈訓読〉のプロセスであったということだ。〈訓〉を文字化してわざわざ木簡に記すことの意味は、「漢語」と「日本語」の間の相互互換関係の確定作業であり、それは「漢語」がいつでも「日本語」がいつでも「漢語」に反転しうるような有契的関係を樹立することである…このように文明語たる「漢語」にいつでも書き換えられることこそが「日本語」が成り立つ条件であった。…文字との関わりのなかで洗練され、文字に書かれていく中で、「俗語」はもはや「俗語」ではなくなり、規範的な言語としてふるまうようになるのだ。(三-3)

5.人麻呂歌集の問題
 漢字の表意性を極力活かして書いたものが略体歌であり、書かれたものと読みとが緩やかにしか対応しない。その略体の書式を山ノ上碑文などと同一の発展段階に位置づけ、和語の文章がこのようにしか書けなかった所から、歌詞を細部まで書き伝えることへの欲求によって、人麻呂が新たな表記法を開発したという稲岡学説が主流であった。それが「なにはづ」木簡などの出土によって、再検討されるようになり、やまと歌は早くから音仮名主体で書かれていたのであり、それが日常の書き方でもあって、歌集に載せるような特別な場合だけ、訓字主体で書かれたのだと主張する論者もいる。

6.やまと歌を書くこと
 難波宮出土孝徳朝木簡は、もともと万葉仮名の練習用に作成されたものではないか。「なにはづ」木簡も、歌を読ませようとしたものではないし、個々の字母を練習したものでもない。筆馴らしと見るべきであり、その他の韻文らしきものも同様だろう。
 七~八世紀の列島社会には多様な書記様式が併存しており、その先後関係より位相に目を向けるべきだという議論は正当で、単線的な発展段階説は見直されるべきである。しかし見直しが必要なのは、稲岡学説だけでなく、「国語(日本語)表記史」そのものである。
 歌はもともと声に出して歌うもので、リズムなど身体的諸契機と不可分であることを見落としではならない。文字の歌と声の歌はおよそ異質であり、音声の連なりを直接表示する音仮名主体表記であっても、肉声を伝えるわけではない。歌を書くことは、歌われたものを書き写す、というにとどまらない。逆に歌を残すとは、歌い継ぐことであったはずだ。その点で、稲岡学説の核心部分、文字の歌は、人麻呂歌集という編纂物とともに始まった、ということの意義は失われていない。
 人麻呂はなぜ略体の表記を主体的に選び取り、歌を書くという非常識な行為へと挑戦したのか。略体歌に期待されたのは、歌詞を覚えこむためにそれを文字列に沿って確認することだったのではないか。歌は声に出すものという通念が健在だったからこそ、肉声による実現を各自の暗誦に託するとともに、漢字の表意性を尊重することで、いわば声と文字との共存を図ったと考えられる。

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 難波宮木簡の説明は相当苦しいが、「なにはづ」木簡については、品田氏の説が正しいと思う。字ないし万葉仮名の習得・練習のためにしては、出土するものの多くは雑だし、途中で止められているものが多い。犬飼隆氏のように、歌を書く練習をしていると見るのは無理がある。そもそも練習が大半で、正式に書き留めたらしきものが出ないことはどう説明するのか。少なくとも、これをもってやまと歌の書記と考えることはできないだろう。
 ただし万葉仮名で文章全体を書くことが、歌の書記から始まった可能性は強いだろうと思う。歌でなければ音一つ一つを書く必要は無いだろうし、歌でなければ読みがたい。しかし出土した木簡に書かれているのは、たとえ創作だとしても、せいぜい単に備忘や記録でしかないだろう。人麻呂が試みたのは、文字による表現である。品田氏の「歌詞を覚え込むためにそれを文字列に沿って確認する」という仮説は、現在の文字列の表現性を過小評価しているように聞こえる。特に阿礼の「誦習」になぞらえる辺りは、本質的に異なるものを比べていると言わざるを得ない。むしろ、隅々までの歌詞の確定・伝達を犠牲にしても、漢字の訓、真名としての漢字の表現性にストイックに拠ろうとした書き方と言うべきではないか。それは、朗詠されると同時に、文字表現でもある詩を強く意識したものだったろう。文字で表現するとは、訓で書く以外にはありえない。多様な書記法の中から選択されたという言い方がされるが、文字による表現を目指す人麻呂に、仮名書きを選択する余地は最初から無かった。
 従って、文字によって歌を作った最初の歌人は、人麻呂である、ということは動いていないと考える。そして略体歌の表記は、やはり非略体歌の書き方に先行する試みだろうと思う。それにしても、歌の質ということ抜きに書記法を論ずる議論は、皮相と言わざるを得ない。

さいごに

 共感し、説得もされつつ、あえて異を立てるという、苦しくも楽しい作業であった。「日本語」―「民族の声」―「かな文字」といった神話への懐疑を、若い人たちに知見を与えつつ問いかける、本書の所期の目的は達成されていると思う。欲を言えば、漢字テキストを読む楽しみ、その含みの豊かさを示す部分が、もう少しあっても良かったかと感じた。(了)

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