漢字と『万葉集』―古代列島社会の言語状況 品田悦一氏
1.『万葉集』の書記方式
文字で書かれている以上、古事記と同様、万葉集も書記言語の一種である。しかし事柄が伝わればよい古事記とは異なり、歌は細部まで伝える必要がある。実際、多くの万葉歌は、一定の排他的な訓読を目指すものになっている。
2.万葉語は古代日本語か
宣長によって万葉語は、回帰すべき正しい「古語」とされた。「文字は借り物」とすることで、古道の書たる記紀が漢字で書かれたという、屈辱的な関係を逆転する。それは無論、口頭言語の次元に見出されなければならなかった。更に近代「国語」学がそれを引き取り、組み替えて、太古から連綿と続く「国語」(国民の言語)の実在と位置づける。国家の成員を均質な「国民」と見なす理念から求められた、「統合の象徴」としての「国語」。しかしそこには二重の倒錯がある。すなわち①七~八世紀の列島社会には、国家はあっても「国民」は存在しなかったし、②当時の言語交通は漢文が中心だったにも関わらず、非漢文による俗語が特権化されている。
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品田氏ならではの観点からの問題提起と言ってよいだろう。「はしがき」に書かれた本書の主題と、もっとも深く関わる部分でもある。
3.七―八世紀列島社会の言語状況
律令国家の文書行政を支えていた漢文は、官人の大多数にとっては、口頭言語としての中国語に還元できない書記専用言語であり、訓読がその理解を支えていた。一方、列島内部において、様々な地域語があって、異なる地域同士では、口頭語による意思疎通は困難であった。畿内語は、化内の地にかなり広く通じたろうが、それはもろもろの文書が流通し、その訓読が畿内語で行われていたからであって、化内でも僻地では識字層にしか通じなかったはずである。その畿内語が、やまと歌という宮廷の文化を通して精錬され、特殊な位相を呈したことばが万葉語に他ならない。
4.非漢文の書記資料は何語を書いたものか
数式を書く時に何語を書いたかを意識しないのと同様、木簡を書き残した人々に、何語を書いているかという意識は無かったろう。漢文を前提とする書式に則り、字音語が含まれる一方、正格の漢文とは異なる語順も見える。「表意文字で読み書きする行為は、原理的には個別の言語を超えた次元で成り立つものでありながら、実地にはローカルな言語の干渉を免れない」。そしてこうしたローカル言語に影響された書き方自体が、朝鮮半島から伝わった可能性もある。形式上の大枠の中に、訓読しやすい文字をはめこんでいく流儀で文章が成立している。漢文の文法に通じていなくても読み書きできる実用的な書記である。
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「大部分が西澤一光氏の論文からの受け売り」と言う。確かに西澤論文の論旨の一部を取り出している。それ以上に、西澤論文は、本書の趣旨と重なるところが大きい。
上代書記体系の多元性をめぐって
書記体系の多元性―一言語使用という神話をめぐって
1 「国語表記史」という虚構
2 漢語による神話の「翻訳」をめぐって
3 書記体系の多元的性格と漢字の双面的機能について
文字言語としての「日本語」の生成について
1 普遍言語から固有言語へ
2 「文字言語」の生成―「森ノ内第2号木簡」をめぐって
3 「法隆寺二天造像銘」と「山名村碑文」をめぐって
文字言語と音声言語の境界確定
1 「辞」の文字化について
2 「音声言語/文字言語」という境界確定について
3 「俗語」から「日本語」へ―北大津遺跡出土の木簡をめぐって
結語―固有なものをめぐって
「日本」において「日本人」の間で「漢文」がコミュニケーションの媒体として使われてはならないというのは、「国語史」のもたらした最大の虚構だと言っていい。やはり当時の文明語は圧倒的に「漢語」であり、それから見れば自土の言葉は「俗語」にすぎなかったのである。(一-1)
「漢語」を記す文字も「日本語」を記す文字も、実は同じ文字なのであり、このことを通じて「漢語」と「日本語」という二つのシステムが相互互換的関係に置かれていたのである(一-3)
本来、漢字は東アジア文明圏に流通する普遍語としての漢語を表わす手段であり…漢字の用法に差異が生ずるのは、東アジア世界の宗主国中国に対して、朝鮮半島の三国や日本列島の倭国が国家としての独立性を獲得し、中国からの脱属領化を成し遂げていった過程とパラレルな事態である。…漢字が個別文化の刻印を背負って東アジア世界に流通するということ自体、逆説的に、この文字の普遍性を示すものだと言ってよい。…そのような漢字の多元性こそが列島の文字言語を成り立たせた(二-1)
文字言語としての「日本語」は、あり得たであろう「音声言語」―それを「日本語」と呼ぶことは不可能である。なぜなら、それは多数多様の口頭言語であり、規範性をもたない俗語だからである…―を出発点として生成したものではなく、半島経由でもたらされた「漢語」の内側から生み落とされたものである(二-3)
このような書記方法は、原理的にはピジン言語と似ている。…シンタックスに頓着しないからこそ結果的に母国語のシンタックスに従ってしまう…あくまでも語(一字)単位の〈訓読〉を想定した書き方であり、読ませ方である。(三-1)
固有の「文字言語」(「日本語」)が普遍的な「文字言語」(「漢語」)を食い破って出てきたという順路で「日本語」の問題を考える…「文字言語」は「音声言語」を写す道具だという写像論の形を取る理論こそ、上記のような定式化と対極に立つ…文字は唯一真正なる音声言語を写すものであるとされ、そこでは方言的な差異がいっさい隠蔽されてしまう。しかし事態はその逆であって、文字なしに唯一の規範的な言語が現れることはできない。(三-2)
文字一つ一つについて「日本語」とのあるべき対応を確定する作業が〈訓読〉のプロセスであったということだ。〈訓〉を文字化してわざわざ木簡に記すことの意味は、「漢語」と「日本語」の間の相互互換関係の確定作業であり、それは「漢語」がいつでも「日本語」がいつでも「漢語」に反転しうるような有契的関係を樹立することである…このように文明語たる「漢語」にいつでも書き換えられることこそが「日本語」が成り立つ条件であった。…文字との関わりのなかで洗練され、文字に書かれていく中で、「俗語」はもはや「俗語」ではなくなり、規範的な言語としてふるまうようになるのだ。(三-3)
5.人麻呂歌集の問題
漢字の表意性を極力活かして書いたものが略体歌であり、書かれたものと読みとが緩やかにしか対応しない。その略体の書式を山ノ上碑文などと同一の発展段階に位置づけ、和語の文章がこのようにしか書けなかった所から、歌詞を細部まで書き伝えることへの欲求によって、人麻呂が新たな表記法を開発したという稲岡学説が主流であった。それが「なにはづ」木簡などの出土によって、再検討されるようになり、やまと歌は早くから音仮名主体で書かれていたのであり、それが日常の書き方でもあって、歌集に載せるような特別な場合だけ、訓字主体で書かれたのだと主張する論者もいる。
6.やまと歌を書くこと
難波宮出土孝徳朝木簡は、もともと万葉仮名の練習用に作成されたものではないか。「なにはづ」木簡も、歌を読ませようとしたものではないし、個々の字母を練習したものでもない。筆馴らしと見るべきであり、その他の韻文らしきものも同様だろう。
七~八世紀の列島社会には多様な書記様式が併存しており、その先後関係より位相に目を向けるべきだという議論は正当で、単線的な発展段階説は見直されるべきである。しかし見直しが必要なのは、稲岡学説だけでなく、「国語(日本語)表記史」そのものである。
歌はもともと声に出して歌うもので、リズムなど身体的諸契機と不可分であることを見落としではならない。文字の歌と声の歌はおよそ異質であり、音声の連なりを直接表示する音仮名主体表記であっても、肉声を伝えるわけではない。歌を書くことは、歌われたものを書き写す、というにとどまらない。逆に歌を残すとは、歌い継ぐことであったはずだ。その点で、稲岡学説の核心部分、文字の歌は、人麻呂歌集という編纂物とともに始まった、ということの意義は失われていない。
人麻呂はなぜ略体の表記を主体的に選び取り、歌を書くという非常識な行為へと挑戦したのか。略体歌に期待されたのは、歌詞を覚えこむためにそれを文字列に沿って確認することだったのではないか。歌は声に出すものという通念が健在だったからこそ、肉声による実現を各自の暗誦に託するとともに、漢字の表意性を尊重することで、いわば声と文字との共存を図ったと考えられる。
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難波宮木簡の説明は相当苦しいが、「なにはづ」木簡については、品田氏の説が正しいと思う。字ないし万葉仮名の習得・練習のためにしては、出土するものの多くは雑だし、途中で止められているものが多い。犬飼隆氏のように、歌を書く練習をしていると見るのは無理がある。そもそも練習が大半で、正式に書き留めたらしきものが出ないことはどう説明するのか。少なくとも、これをもってやまと歌の書記と考えることはできないだろう。
ただし万葉仮名で文章全体を書くことが、歌の書記から始まった可能性は強いだろうと思う。歌でなければ音一つ一つを書く必要は無いだろうし、歌でなければ読みがたい。しかし出土した木簡に書かれているのは、たとえ創作だとしても、せいぜい単に備忘や記録でしかないだろう。人麻呂が試みたのは、文字による表現である。品田氏の「歌詞を覚え込むためにそれを文字列に沿って確認する」という仮説は、現在の文字列の表現性を過小評価しているように聞こえる。特に阿礼の「誦習」になぞらえる辺りは、本質的に異なるものを比べていると言わざるを得ない。むしろ、隅々までの歌詞の確定・伝達を犠牲にしても、漢字の訓、真名としての漢字の表現性にストイックに拠ろうとした書き方と言うべきではないか。それは、朗詠されると同時に、文字表現でもある詩を強く意識したものだったろう。文字で表現するとは、訓で書く以外にはありえない。多様な書記法の中から選択されたという言い方がされるが、文字による表現を目指す人麻呂に、仮名書きを選択する余地は最初から無かった。
従って、文字によって歌を作った最初の歌人は、人麻呂である、ということは動いていないと考える。そして略体歌の表記は、やはり非略体歌の書き方に先行する試みだろうと思う。それにしても、歌の質ということ抜きに書記法を論ずる議論は、皮相と言わざるを得ない。 |