2008年秋、私たちは米国ではじめての研究会をひらいた。
本研究プロジェクトは2007年4月の発足以来、文学の共同研究としては異例なほどに国内での大小の研究会を組織し、さらに韓国や台湾に出向き、かの地の研究者と意見交換する機会をもった。東アジア古典学という提起を提起だけに終わらせず、実質をかたちづくっていくのにそれは欠かせない試みであり、実際、それぞれが刺激的な場となった。そうした論議の中で、新たな古典学の輪郭は明確となり、教育プログラムについても具体化しつつある。
そして今回はじめて、アジアを離れた地で、東アジア古典学を論じ教育プログラムを考える機会を得た。9月27日に米国マサチューセッツ州ケンブリッジのハーヴァード大学、その後、ニューヨークに移動し、10月3日、同地のコロンビア大学で、それぞれワークショップを開催した。コロンビア大学でのワークショップでは、同大東アジア学科のシラネ・ハルオ教授、ディヴィッド・ルーリー教授から終始行き届いたご助力をいただいた。両氏のご尽力に対して心から感謝の意を表したい。またその模様については、二氏、そして、模擬授業を受講した大学院生ジェニファー・リンゼイさんから感想を寄せていただいたので参照していただきたい。
ここではハーヴァード大でのワークショップの模様を紹介しよう。コロンビア大でのワークショップが模擬授業を行い、教育プログラムの可能性を考えたのに対し、ハーヴァード大では、このプロジェクトの趣旨にかかわる諸問題が討議された。
ワークショップ開催にあたっては、ハーヴァード・イェンチン研究所の支援を得た。簡単に紹介しておこう。同研究所は、アジアにおける人文学の振興を目的とし、一九二八年に設立された研究機関である。一九三六年以来、同研究所が刊行するHarvard
Journal of Asiatic Studiesは、現在に至るまで確固たる地位を占めるアジア研究の学術雑誌であり、二十世紀前半には『哈佛燕京学社漢学引得』シリーズを刊行、現在でもアジアを対象とする人文学研究書の刊行を助成しつづけている。併設するハーヴァード・イェンチン図書館は、中国語、日本語、韓国語、ヴェトナム語文献を中心としたコレクションをもち、アジア研究の分野では西欧で最大規模を誇る。研究所独自の客員研究員プログラムともあわせて、時代の変遷に応じながら、派手さはないが本来の目的であるアジア人文学支援の実績を着実に積み重ねてきた研究所である。
各国文学研究を越えて東アジア古典学を構想する私たちのプロジェクトにとって、まさに願ってもない拠点であり、同所で今回ワークショップを開催し、多様な研究者と意見交換の場を持てたことは、大変意義深いことと考える。
9月27日午後1時からはじまったワークショップは、日本文学研究者、中国文学研究者、韓国文学研究者、ヴェトナムの研究者など30名を超す熱心な参加者を得た。研究会は四時間を超え、通訳を介する必要もあったものの、終始熱を帯びた活発な議論が行われた。
当日は、本プロジェクト共同研究者の齋藤希史氏が「漢字圏としての東アジア」と題した報告を英語で行い、続いて、研究代表者である神野志隆光氏が「古代東アジア世界の教養の基盤-学習、辞書・類書」と題する報告を日本語で行った。これらの報告については事前に英語版をウェブサイトに用意し、出席者が閲覧できるようにした。両氏の報告については資料を参照してほしい。
報告に先立って、ハーヴァード大学文学・比較文学科のカレン・ソーンバー教授は、聴衆に向けて本プロジェクトと講師、司会者の紹介をし、自らの専門である東アジア比較文学の立場から、本プロジェクトの提起について有益な指摘をされた。以下、女史の発言の要旨である。
本プロジェクトは、二十世紀に至る東アジア文化史における漢詩漢文の重要性を強調している。ただし、その提起する「中国の先進文化をモデルとした一つの世界」あるいは「東アジア諸国に漢字と中国古典を基盤とした世界観が共有された」といった見方には疑問なしとしない。たとえば前近代の日本や韓国の支配層は、中国文化に対し選択的にかかわってきたのであり、固有文化の賦活をともないながら中国文化を吸収し変形した。中国文化に対する態度のそうした両義性に注意を向けるべきではないか。
本プロジェクトの大きな意義は疑いない。十九世紀まで圧倒的な中国中心の基層文化が東アジアの文化関係をささえていたことを踏まえて、標榜するように文献学的にアプローチしていけば、漢字の豊饒な歴史と、漢字が今日まで果たしてきた文化的役割の理解が可能になるだろう。漢字をめぐる文化変動transculturationを精査することで、東アジア文化が、同質ではなく統合されてきたその実態が明らかになるはずである。
ただ、その場合、漢字を東アジア文化の唯一の基盤と見なすのではなく、決定的なものだがあくまでその一部として考えるべきではないだろうか。東アジアの文化の動因を理解しようとする時、文字に関する研究は入口であって集約の場ではない。たとえば、齋藤氏が挙げる、十九世紀末から二十世紀初めに、西欧の学術語の翻訳として日本で創られた多くの新語が中国、韓国、台湾へ移入された現象は、植民地、半植民地に求められた広範な言語改革の一部にすぎない。その言語改革にしても、植民地の人びとが母国の構築を期待しながら日本の企図に加担していったありようの一端であることを認識すべきである。
支配/被支配のヒエラルキーが成立する中で、芸術上の接触は対等な関係を創出しながら文化変動をうながした。中でも、文学をめぐる多様な相互接触は、もっとも力強い動きを生み出したといえる。漢字を含んだ言語がその中心にあったことは言を俟たないが、それはこうした展開の一部にすぎないことを念頭に置く必要があるだろう。
最後に、漢字漢語の変遷といった文化現象は、東アジア地域のみならず、世界規模の脈絡で検証されるべきだと考える。多数の民族にかかわるラテン、ギリシャ、サンスクリット、アラビア語など他の古典語の例と関連づけながら、漢字漢語の変遷を問うのである。その時、私たちは古典語あるいは各国語による文化をよりよく理解し、人文的表現とは何か、それはいかにして成り立つのかを見きわめることができるだろう。
齋藤、神野志両氏の報告の後、コーヒーブレイクを挿んで、ディスカッションが行われた。司会を担当したのは、中古の日本文学を専門とするイェール大学のエドワード・ケイメンズ教授であった。二氏の報告を踏まえたケイメンズ氏のコメントについても要約して紹介する。
本プロジェクトの趣旨を追求するためには、より広汎に理論的に考察された書記の歴史、さらにその社会との連関に関する世界的な研究にもかかわっておくことが重要だろう。
今回の二氏の報告はきわめて刺激的で、提起された概念も新鮮だ。齋藤氏の「漢字圏」についての概観は、その「汎用文字」論とともに示唆に富んでいる。神野志氏が、これまで見過ごしてきたテキストの内に「共有された教養」の具体化されたさまをみる提起はきわめて魅力的だ。もちろん新たな提言には、十分な長さで展開されたペーパーではないせいもあって、疑問もいくつか浮かんでくる。
はじめに、両氏の論があまりに言語中心的すぎるのではないかという点である。たとえば、近代日本において、新造語の内実を欠いたという意識が大衆を動かし、東アジアの新秩序の希求につながったという齋藤氏の議論。また、文字の交通を作り上げることは、一国家を作ることなのだと語る神野志氏の議論。言語や文字を、諸資源を集約し社会を展開していく政治的な多様な力の一つと考えてはいけないだろうか。権力の浸透と移動は、言語と文字に依存するのと同程度に他の力によって担われているのではないか。私は文明史や書記史の専門家ではないが、古代中国の帝国主義の達成をすべて漢字の力に帰すことには疑問を覚える。
さらに、齋藤氏にうかがいたいのは、該博な知識に基づき、考え抜かれた刺激的な氏の古代研究は、それ自体として価値があるにもかかわらず、そこに近代を説明する作業を付加する必要があるのかということだ。近現代の説明にはもっと説明を求めたい事柄が多く残った。他方、飛鳥奈良時代から議論は徳川時代へと飛躍したために、鎌倉時代の大陸との交渉などは捨象されてしまっている。現下の教育の問題として本来弁別すべき複数の層をもった漢文が、訓点学習の下に一元化されてしまっているという氏の指摘には同意する。ただ、ここでの論議では、平安以降、原本や注釈に多様な訓点が現れ、共存し保存されてきたことに言及すべきではなかっただろうか。
神野志氏は、民族と国籍を基盤にした従来の文学研究のパラダイムに代わる新たなアプローチを創ろう、とわれわれを挑発している。その作業がどうなされていくかはいまだ定かでないが、このプロジェクトに参加する用意のある者はこの場でも多いはずである。
神野志氏は枕草子の一場面を取り上げて、当時流通した辞書や類書類を見合わせた時、共有された教養が実証されうること、さらに多様な書物が全体として教養の基盤を作り上げていることを示した。この教養のありようについてもっと詳細に知りたい。氏は、私たち自身が、当時の日本人の読書を追体験することをすすめているが、どんな証拠でどんなソースから、当時何がどのような方法で読まれていたかを、どう見きわめるかを知りたいところである。
報告の最後で、神野志氏は古代の学習を再現し、当時の文献をじかに読んだ経験を積むことを目的とする教育プログラムへの参加を呼びかけている。胸躍る招待だが、そこに限界があることも感じずにはいられない。過去とは結局のところ一つの「異国」であり、何らかの偏見や歪曲なしには接近できない。どう訓練を積んでも、おそらくこうした障害を克服するには至らないだろう。われわれは自らの動機とねらいを認識し、それについて明確でかつ正直である以外にないのではないか。この教育プログラムについて教示を求めたいことはまだまだ多い。どのような方法や仮説に対置させようとしているのか? その構想の詳細は? 参加するのは誰なのか? どのような成果が見込めるのか?等々。
ディスカッションは二時間を超えた。その質疑応答の一端を、メモのかたちで次に紹介する。
問 神野志報告で、文字の交通の成立が国家の成立を可能にするといった話があったが、文字が必要とされる原因として、それで十分と言えるだろうか。政治的なものばかりでなく、宗教的・文化的要請もありうるのではないか。
答 成り立った文字は、それを通じて経典を読む、あるいは詩作・作文を試みるといった文化性をもっている。しかし、そうした特性を、古代における文字使用の確立を考える際に、そうした特性を、さかのぼって考慮に入れるのは適切ではないだろう。
問 漢字が「漢」の字と呼ばれることについて齋藤先生に補足してもらいたい。
答 民族や地域を越えたところで、漢帝国内部の文字として漢字が使われた。漢帝国が、文字に政治力を付与したという点においても「漢」の字と呼ぶにふさわしい。
問 当時の教養を考えるとすれば、文選などとは別に、仏典の重要性を見落としてはならないのではないか。
答 教養を考える上で、仏典の問題がきわめて重要であることには賛成する。ただ、私たちの研究は、現在のところ、仏典の問題までふくめて教養を十分に考察できる段階に至っていないことを認識する必要がある。
問 出典研究に限界があるというのはどういうことか。
答 出典研究が前提としてきた時代的な制約を、とりあえず取り払って考えてみようという提案だと受けとめてほしい。そして従来は、作者が何を典拠にしたかということばかりが焦点になってきたが、そこに読者の問題もふくめて総合的にとらえてみようというのである。
問 漢語漢文やそれに由来する価値観を東アジアが共有している、と言い切ることは、政治的な問題をもはらむ見識ではないか。また、西洋人には東アジアの伝統的価値観は理解できないということになるのだろうか。
答 中国中心主義を言うつもりはない。中国も日本列島も朝鮮半島もその他の地域もすべてフラットに古典的教養をかつて共有していた、と言っているだけである。東アジアの各地域に固有性がないと言っているのでもない。また、伝統を理解できるかどうかは民族の問題ではなく、教養の問題である。古典的教養を学ぶための教育システムが必要とされるゆえんである。
問 東アジアの共通の教養基盤ということに目をむけると、たとえば日本の場合、中国から一方的に流入する一方で、逆はほとんど存在しないという文化的な現実がみえなくなってしまうのではないか。
答 そうした現実は承知した上で、それを論じる前に、まずは漢字漢文による教養基盤を共有していた、そのことを押さえたい。
以上、当日の質問やコメントをあらためてたどってきて思うのは、漢語漢文を中心とした古典世界という観点から東アジアを把握すること、あるいはそれを主体として通史的に概観することに、強い批判や警戒感があることである。一つの次元に地域も歴史も還元してしまうことによって、多様なものが錯綜し異質な力がたえず接触し葛藤する空間と時間としての現実の東アジアが見えなくなるのではないかという批判である。いま振りかえると、この問題に対する応答には二つの側面があるように思う。
一つは、まさにこれまで見失われてきたのは、漢字漢文という次元の存在であり、その次元を共時的にまた通時的にたしかめることが趣旨であること、その次元にすべてを解消するというのではないということだ。メモで挙げた最後の問答にもあるように、その次元を確認することからはじめることで、東アジア地域の多様さや展開をうながす諸力のありようも、むしろ具体的に明らかにできるのではないだろうか。
ただし、その点とかかわって、漢字漢文という共通の教養基盤というのは、多様な選択と変形に溢れた古代の現実から取り出された、実体のない一つの抽象にすぎないという見方がありうる。
共有ということ、あるいは普遍性が目に見えるかたちで提示されることはなく、たしかに私たちが現実に向き合うのは、つねにある固有性をもった現場だろう。しかし、その固有性は、共有された教養という共通性をぬきにしては成り立ちえないのではないか、言い換えれば、固有の表現が成り立っていること自体が、前提としての共有された次元の存在を指し示しているのではないか。これが第二の側面である。この点には大いに議論の余地はあり、今後も向き合っていかなければならないだろう。
研究会終了後にはレセプションが開かれ、東アジアの研究者同士、また米国の研究者と交流をふかめる貴重な機会となった。出席者の反応はおおむねよく、私たちにとっても得るところの多い会であった。(なお、発言の要約など、すべて文責は筆者にある)
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