2.陵山里寺木簡の内容
陵山里寺木簡は1996年及び1997年の調査時に発見されたが、その内容が知られるようになったのは1999年である。国立昌原文化財研究所(現在、国立加耶文化財研究所に改名)が刊行した『韓国の古代木簡』にカラー及び赤外線写真が載ることで完全公開された(a3)。そしてその内容は、2009年に刊行された報告書により正式に報告された(a4)。一方で報告書が刊行される前に公開された資料を基に、議論がなされてきた(c1, c2, c3)。
その後、最終報告書の刊行のために行われた資料整理及び木材資料の保存処理の過程において、新たに3点の木簡と100余点の削り屑が追加収拾され、2009年国立扶余博物館から刊行された『百済木簡』に公開された(a1)。本来は報告書に載せるべき内容であったが、保存処理が予定より遅れたために追加報告となったのである。
陵山里寺出土木簡は、その形態と内容により、1.文書及び記録類、2.荷札、3.削り屑と大きく分けることができる(a2)。
- 文書及び記録類
- 細長形(011形)
- 308号(12p)(注3)011形式-下部完形, 破損, 数字「二百十五」
- 311号(12p) 011, 破損, 習書「者者」
- 312号(13p) (011?) 破損, 仏教的用語「七災」「死」「再拜」
- 296号(14p) 011, 完形, 再利用, 記録(三月十二日梨田二…)→習書(淸麥,麻布, 月偏の身体をあらわす文字)
- 301号(15p) 011, 完形に近い, 仏教的文章
- 298号(16p) 011, 完形, 上段に穴, 前面に奈率の官位をもつ人々, 裏面に僧侶の名前を列挙
- 305号(18p) 011, 完形, 4字句, 因縁をあらわす仏教的用語「宿世」「結業」, 僧侶名「慧暈」
- 陵1号(19p) ? 破損, 紙のような薄い木簡
- 304号(20p) 011, 破損, 寶熹寺, 塩などの物品運送
- 307号(20p) 011? 破損, 官等あるいは人名,「資丁」
- 297号(21p) 011, 完形, 官僚名(所属+官等+名前)
- 299号(22p) 011–上部圭頭, 破損, 人名 習書, 紙のような薄い木簡
- 四面体
- 陵2号(24p) 4面体-支薬児食米記, 破損
- 303号(28p) 4角, 破損, 日付と土地
- 陵3号(29p) 4角, 破損
- 陵4号(30p) 4面体, 完形? 破損? 文章「熹拜而受之, 伏願」
- 陵5号(32p) 4面体, 破損, 永春, 江
- 306号(33p) 4面体, 破損 4角, 米
- 陵6号(34p) 4面体, 破損 馳馬, 憲
- 陵7号(36p) 4面体, 棒形 木製品
- 295号(37p) 4面体, 男根
- 木製品
- 陵18号(40p) 木製品, 習書
- 310号(42p) 木製品, 破損, 綿
- 陵8号(42p) 木製品, 破損
- 陵9号(43p) 木製品, 破損
- 314号(43p) 木製品, 破損
- 荷札
-
- 300号(44p) 032, 完形, 上段に切り込み, 3月 上田
- 312号(45p) 032, 完形, 上段に切り込み, 子基寺
- 削り屑
-
- 陵10,11,12,13,14,15,16,17号及び302号
- 慧權(陵12,46p), 石六日(17-25,50p), 了(17-21,50p)
- (將)德(17-5,49p)
文書と記録類は、2面体の細長型すなわち短冊形のみならず、4面体のような多角形もある。また普通は木簡と考えにくい木製品に文字を書いたものもある。短冊形のうち、298号は上部に穴があり、編綴するか、あるいは掛けていたようである。荷札は二つだけだが、いずれも上部にV字切り込みがある。削り屑は非常に薄いものがほとんどであり、それより若干厚いものもある。木簡 20余点の内容は破損したものや削り屑が大部分であるため、数点を除いては文字があまり多くない。それらも字がはっきり見えて判読できるものではない。したがって、文章をなしている幾つかの木簡以外は、断片的な単語から木簡の性格を推定するしかない。
(1)仏教及び寺刹 関連
木簡のなかには仏教及び寺刹にかかわるものがある。
まず、寺の名前の見える木簡がある。
寶熹寺(304号), 子基寺(312号)
次に、僧侶の名前の見える木簡が多数ある。
慧暈(305号), 慧明(298号), 智真,垂□(304号), 慧権(陵12号)
さらに、宗教的なもの、恐らく仏教的用語、仏教的な内容から構成されたものがある。
七災,死,再拜(312号)
宿世, 結業(305号)
…又行色也. 凡作形之中, 了其…□亦従此法為之. 凡六部五方…(301号)
寺址であるから寺名が見えることは当然であろう。寺の名前が見える二つの木簡はいずれも荷物の移動に関連する。312号は荷札である。すなわち子基寺というところから陵山里寺に送った品物に付けられたのである。304号は下部が破損しているが、残された部分に、前面には寶熹寺とそこの僧侶と思われる「智真,垂□」と書いてあり、裏面には塩2石などを送った旨が書いてある。前面の「四月七日」は仏教最大の行事の一つである釈迦誕辰日の前日である(c3, b2)。釈迦誕辰日の関連行事に参加した寺別の名簿だろうか。陵山里寺で仏教関連行事が催されたのであり、この寺を媒介に2石という少なからぬ量の塩などの物資が輸送されたことが分かる。ただし、裏面は異筆のようにも見えて、前面との関係は確言できない。
(2)薬 関連
続いて、薬にかかわるものがある。
支薬児食米記(陵2号) : 支薬児食米記. 初日 食四斗, 二日 食米四斗 小升一(中略)八日食米四斗大[升□](破損)(以上1,2面), 食道使□□次如逢使猪耳其身者如黒也道使弾耶方[牟氏,牟祋]祋耶(破損)(以上3面), (破損)又十二石又十二石又十二石十二石又十二石又十二石(以上4面)
医薬関連の実務官吏と思われる薬児に、食米を支給した帳簿であり、8日間の支給内訳と集計額を記録している。百済には22部の官府のなかに薬部があり、医博士や採薬師などの医薬関連の官吏があったと伝わる。中国の唐制を参照すれば、百済にも薬師-薬児が置かれていたと推定される(b1, b2.b3)。薬児がここを拠点にして採薬活動をした可能性もあるだろう(c3)。肝心なのは、薬部は内官所属であり、その施術対象が王室であったという点である。国王や王族などの高い身分の人々が、たとえば礼拝や行事関係で、少なくとも8日間、この寺に泊まっていた可能性がある。
1・2面と3面と4面との関係は不明で議論になっている(c3, c4)。3面と4面は、1・2面と異質な点もある。解釈が難しいのは3面で、なかでも下記の下線部である。
食(a)道使, □□次如逢使, 猪耳. (b)其身者如黒也. (c)道使, 弾耶方[牟氏,牟祋] 祋耶…
最初の字「食」の用法を重視すれば、その下に続くのは食米を支給された人々の名簿になるだろう(c4)。なお「猪耳」については、人名、豚の耳、薬草名という意見が出されている(b2, c4ほか)。(b)は当然、(a)に対する説明である。「道使」は地方派遣官であり、「弾耶方」は地方行政単位の名であるため、(c)(a)いずれも地方行政官とその組職の人々、もしくは彼らが持参した物品と見られる。つまり、3面は、地方から陵山里寺に来た人々(もしくは物品までも含む)に関する内容である。
4面は、単なる習書と見ることもできるが、集計帳簿と見る余地がある。ただし、その量は12石を基準としており、これは1,2面の食米の単位とは合わない。1,2面の1日支給額は約4升前後であり、8日間の総量は3石余りである。12石は、薬児に対する食料支給を基準に計算すれば、約1ヶ月分となる。
したがって、1・2面は薬児に対する食料支給の帳簿、3面は地方官の名簿、あるいは彼らに対する食料支給の記録、4面は集計帳簿、もしくは習書として、それぞれ独立した内容と見られる。この木簡が記録され再利用された機関は食料支給及び集計にかかわった場所であり、寺を造営した事務所か、またはその経費出納や倉庫管理を担当していた内椋部・外椋部のようなところであったろう。薬部や内椋部・外椋部はいずれも内官傘下であり、寺の造営や運営に王室の行政力と財政が投入されたことを示す。
三月十二日梨田二[形] // 習書(296号)
次に注目されるのは296号である。梨田にかかわる記録に用いたが、その用途が終り廃棄された後に、下部と裏面を薄く剥がして習書している(b2)。天地を逆さまに書いた字もあり、「清麦」「麻布」などの字も見え、また正確には読めないものの、「肉・月」偏の、恐らく臓器をはじめとする身体部分を指すと思われる字も見える。梨や清麦、麻などはすべて薬材であり、この木簡は医薬関連の官吏や官庁により作成されたものと見られる(b1)。1次記録は薬材にかかわって梨田などの栽培地管理に関するもの、2次記録は薬物類と処方に関する習書と考えられる。この木簡だけは、他の木簡と違い、寺の完成後に作成されたものであるという主張がある(c4)。しかし、初期の自然排水路から出土した木簡の間にも層位上の差異は見られるという指摘もあり、この点の検討には慎重を要する。
(3)物品及び土地 関連
他に、物品関連の単語が見える木簡がある。
米(306号), 綿(310号)
米や綿は食生活や衣生活に必要な主要物品でもあるが、それ自体、交換性が高く一般に物品貨幣として機能することもできる。国家にとっては徴税の対象であり貢物品でもある。そのような財貨は陵山里寺においても流通していた。よって、寺の造営や運営の財政に関係するものと見られる。
また、土地関連の木簡が2点ある。
□月卄六日上□□[竹山六/□□四](303号)
三月□椋内上田(300号)
303号は特定日に「竹山」が6、「□岸」が4という記録だが、山や岸は地理・地名にかかわる名称である。すなわち、竹を植えた土地ないし地名であろう。数字は土地の単位か、そこで生産された物品の数であろう。
300号は3月に「上田」に関係する物品に付けられた付札・荷札木簡である。竹は薬材に使われることもあるため、薬部につながる可能性もある(b1, b2)。また、倉庫運営に関しては内椋部と外椋部があった。先に指摘したように、これらの機関は内官所属であった。寺の運営にかかわる物品または土地などの財政運営において王室の関与を窺うことができる。
(4)人 関連
なお、人にかかわる木簡がある。
◎奈率 加姐白刕之息□淨(298号)
□城 下部, 對德, 疏加鹵(297号)
…德干尔…爲資丁…(307号), …(將)德…(陵7の5)
297号は「所属+官等+名前」という書式で書かれた官僚の名簿である。「下部」は王京所在の5部の一つである。16官等4階層から成る官僚のうち、「奈率」は第6等であり、第2群の高位級にあたる。「将徳対徳」は第3群の行政実務級として、それぞれ第7等と第11等にあたる。「徳干尔」は人名(恐らく官等を含む)であり、「資丁」の「丁」は16歳-50歳の男子として国の労役動員の中心になる対象である。王京居住の高級及び実務級官僚たちの寺への出入り、また百姓の労役動員が想定される。一連の寺の造営事業と関連して解釈することができる。
さらに、11人以上の人名を列挙した木簡もある。
三貴,文牟,□丁,…至丈,至攵,大貴 … (299号)
「貴」や「文」は、百済の人名によく使われる字である(b1, b2)。「丁」もまた、扶余・宮南池と双北里木簡や羅州・伏岩里木簡などにも見える字である。とくに「貴」字は、他の字より大きく書いてあり、新羅の人名語尾に使われた尊称語「智」「知」に相応する百済語である可能性がある。裏面には「乙」を繰り返して書いてある。左右を半分に分けており、どういう用途に使ったものか(b2, b6)は断言できないが(注4)、人々の名簿であることは確かである。戦争や寺の造営に動員された人々を想定することができる。段の分割や外枠を墨で表示し、多段記録の特徴を見せるが(a1)、文書書式を意識して書いたものであり、官庁の記録である。
(5)男根木簡
男根の形の木製品4面に墨書と刻書とが混在している。従来看過されてきたのだが(c4, c5, c6)、亀頭部分に「天」字が確認され、儀礼にかかわるものと見られる。
大[天?] 无奉義 道縁立立立 / □□□十六
无奉 天 / □道縁 (295号) (下線は刻書)
4面のうち、2面は字が正方向に、他の2面は逆方向になっている。正方向の2面と逆方向の2面の内容はほぼ同じである。正方向は勃起した状態、逆方向はそうでない状態を暗示しているが、これは内容の「立」にもつながる(b2)。この木簡は寺とは無関係に、都城への進入にかかわる道祭の可能性のあることが指摘されてきた(c1, c3)。
扶余地域では先史時代の祭祀に使われた土器の男根形の取っ手や、百済時代の男根木製品が発見されている。男根木簡は百済地域における古来の男根信仰と文字が結合された木製品といえる。換言すれば、寺では土俗的・道教的な色彩の濃い儀式が行われていたと見られる。因みに、朝鮮時代ではあるが、「郡首吏房遊び」と呼ばれる、寺で男根をもって儀礼を行う例もある(b1)。百済仏教に影響を与えた中国南朝の仏教の特徴が道教的要素を包容していた点を勘案すれば、仏教寺院において土俗的・道教的儀礼が催されたとしても不自然ではない。陵山里寺の香炉自体が、仏教的要素と共に道教的要素をもあわせ持つことは示唆に富む(注5)。
(6)その他
以上の他に、次のような木簡もある。
A 者者(311号),意意(陵10号),□□(陵11号),見/公/進/德/道(陵18号)
B 熹拜而受之, 伏願(陵4号)
永春, □江(陵5号)
馳馬, 憲(陵6号)
C 二百十五(308号)
Aは習書したものである。Bには「熹」字が使われているが、偶然にも304号の寶熹寺においても同字が使われている。当代の用字の記号を一緒にするグループの書写といえよう。302号や陵17号など、100余点に及ぶ削り屑があり、これらの相当部分は習書したものである。311号、陵10号、302号のように、同じ文字を繰り返して学習している。陵3号、陵7号、陵8号、陵9号、314号のように、粗悪な木製品に字を書いたものもある。302号や陵17号と同様に削り屑が多い。
金(陵17中 28)
慧(陵17中 20)
了(陵17号 中 21p)
…石, 六日…(陵17号 中 25)
陵17中2の「金」は、宝物であり財貨である。これは陵16にも見られるため、陵山里寺を媒介にして金の流通と使用があったことを示す。金銅光背、金銅香炉、金糸など、現に金製品が出土しており、金は寺の造営にかかわって工房で実際に必要な原料材でもあった。陵17中20は、僧侶の名前かもしれない。陵17中25の「石」は、穀物などの計量単位である。これは穀物などの会計に関連する内容であろう。「了」は、文書の決裁やチェックに関連するもので、文書点検を示唆する。それぞれ数文字しかないものだが、幅広く文書作成と再利用、練習などが行われていた跡を見ることができる。同種の木簡グループのなかに、このように僧侶が活動し、また「金」のような原料ないし財貨が流通し、穀食が支給され、文書決済が行われた情況が窺われるのは、寺の造成作業と決して無関係ではないだろう。
|
|
3.6世紀後半における百済仏教と文字の展開
陵山里寺の建立は、百済が管山城戦闘で新羅に敗戦して以降、国家とりわけ戦争を主導した威徳王が政治的危機に陥ったことに深くかかわっている。敗戦後の民心の収拾と共に、政治的危機を反転させるために選んだのが、仏教政策であった。恐らく王室のなかで王に次ぐ年長者であった公主が中心となって、王室の主導により陵山里寺を造営し、舎利供養を行ったと推測される(b1)。
寺刹の造営には莫大な財政が必要であった。持続的に大規模な予算を要する大土木工事の推進を通じて、王位継承と国家運営の大義名分を作り、その過程で自然に、徴税、物資供出、労役動員などの国家財政の基盤を掌握し続けることができたのだろう。このように王室・王権が意図した陵山里寺の造営の政治的目的は、ある程度達成されたと考えられる。なぜならば、陵山里寺が完成を見る頃、再び第二の王室寺刹である王興寺の建立を進めているからである。その動きは扶余地域を超え、さらに益山にまで広がって彌勒寺の建立につながる。彌勒寺の場合、西の石塔から出土した舎利供養具のなかに、王室のものだけでなく貴族の寄進品も見える。王室が主導した王室寺刹の建立のためには、貴族及び王京居住人たちも財政的負担を負わざるを得なかったことを意味する。
また、以上のような仏教政策(仏教寺刹建設の政策)は数年から数十年もかかる大事業であり、中・長期の計画的かつ組織的な管理を必要とする。上記木簡の内容からすれば、穀物関連の「穀部」、倉庫及び財政関連の「内椋部」と「外椋部」、仏教関連の「功徳部」、医薬関連の「薬部」、土木工事関連の「木部」など、多くの部の関与が推定される。これら部はすべて王室関連機構「内官」の傘下にあった。関連行政組職の構成という点から見ても、陵山里寺の造営と運営には、やはり王室を主体にした国家組職が機能していた情況を窺うことができる。
前章で述べたように、陵山里寺出土木簡には、寺や僧侶の名前、仏教的用語など、仏教にかかわる内容が散見される。それ自体は寺刹出土の文字資料として違和感はない。仏教がこの時期、文字生活の一面に内在していたともいえる。とくに仏教用語を駆使するには仏経の知識が活用されたはずである。近年、扶余と益山地域の主要寺刹に対する発掘作業が相次ぎ、寺刹におけて泗沘時代の文化財が集中的に発見されている。要するに、王室は寺刹建立の中心となって木塔と舎利供養の儀式を実行し、そうした仏経儀式に伴って文字文化が展開されたのである。
これに関連し、『隋書』倭国伝にある、次の有名な記事に注目したい。
無文字,唯刻木結繩. 敬佛法,於百濟求得佛經,始有文字.
百済からの仏教伝来により日本の文字が始まったという、この記事を、6-7世紀の日本社会にそのまま反映することはできないものの、少なくとも仏教が日本の文字文化の発展に影響を与えたことはいえよう。こうした情況は百済の文字文化の展開を考える際にも非常に示唆的である。
この時期、百済の仏教文化は先進文明を積極的に取り込んで、さらにそれを発展させていた。梁武帝の仏教政策に影響され、中国との公式交流を通じて仏教文化を受容した百済は、舎利の供与と寺刹建立の技術的援助などの形で、周辺の新羅や日本に仏教文化を伝えていた。6世紀中葉の百済では、欽明天皇政権の要請に従い、日本に五経博士などを派遣し仏経を伝えたという。ほぼ同時期に、百済は梁に毛詩博士と涅槃経を要請している。百済において、まさに仏教・仏経を通じて、文字文化が発展したと解釈することができる。たとえば、「宿世」という用語が百済木簡と飛鳥池木簡の両方に見られることは、断片的な例ではあるが、東アジアにおける仏教を媒介にした文字文化の展開様相を示唆している。
さて、陵山里寺木簡には、仏教的な内容の他にも、あたかも行政機関であるかのような文書や記録において多様な内容が混在している。この点に関しては、陵山里寺の左側に位置する羅城と関係のある木簡ではないかと、かつて指摘されてきた(c1, c2)。ところが、今まで見てきたように、一見して仏教的内容ではない木簡の場合も、実は寺の建立や運営から派生した内容のものと解釈される。とりわけ決定的なのは、寺の自然排水路から出土した木簡は、遺構の先後関係からして寺の造成期間内、あるいはその直後と見ることが妥当だという点である。これらの木簡資料を陵山里寺と切り離して考えることは難しい。
以上のように、陵山里寺木簡を通じて、この寺の建立に国家行政が機能しており、行政において文書と記録行為が大々的になされていたことが分かる。これに相まって、官制が組職・整備され、「刀筆之任」の行政実務官たちの活動の場が広まった。そしてそれは、何より仏教と緊密な関係にあった。実際100余点にも上る削り屑や幾つかの習書木簡の発見は、ここで行政末端官吏の実務における試行錯誤、文書の再生産、練習などが、繰り返し行われていたことを物語る。寺刹建築という大規模の土木工事に王室ないし国家が深く関与することで、寺の建立そのものが国家行政の主要要素となり、寺の建設地はいわば文字行政実務の競演場となったのである。
寺刹建築を媒介にした仏教政策の展開と、それによる文字の内部化という一連の傾向は、陵山里寺の建立が終了した後にもなお続いた。国王または王室が中心となった王興寺の建立(577年)、そして王后が中心になった彌勒寺の建立(613年)がそれである。『周書』百済伝には「僧尼寺塔甚多,而無道士」とあり、百済に仏教寺刹が多かったことを伝えている。これは概して6世紀後半、すなわち威徳王代にあたる記録と考えられ、陵山里寺木簡と時期を同じくする。泗沘時代、現に扶余だけでも文献や伝承、また発掘から、約 20ヶ所の百済寺刹が確認されている。寺刹の隆盛は、先述した威徳王の政治的な仏教政策により加速されたはずである。
このように国家の強力な仏教政策を基盤にして王室儀礼と行政実務が成り立っていたのであり、その意味で、仏教は百済の文字文化の内部化に大きな役割を果たしたといえる。陵山里寺木簡にその詳細を見ることができる。『周書』百済伝に、百済は「…兼愛墳史.其秀異者,頗解屬文.」と描写されている。6世紀後半、こうした文字理解と実務の能力を備えることを可能にした歴史的背景の重要な一要因として、以上のような仏教政策があげられよう。
※付記:翻訳を引き受けてくれた裴寛紋(東京大学大学院博士課程)、多くのご教示を下さった畑中彩子(学習院大学助教、国立中央博物館招請研修中)のお二方に感謝の意を表したい。
〔注〕
(注1)2008年以後の新出資料に対する整理は、別稿で扱う予定である(b3)。
(注2)c4には木簡出土地点についての具体的な記載がある。とはいえ、実際の発掘報告書の基になる発掘日記に、そのような詳細な記録は確認できない。
(注3)木簡番号と頁数は『百済木簡』による。以下同じ。
(注4)前稿では、c1, c3の主張に従い、これが位牌である可能性を想定していた。しかし、外形と内容からして、それよりは人名を記録した文書・記録類である可能性が高いため、修正する。
(注5)香炉上部の蓋には山や神仙などが描かれており、下部の器には蓮の模様が描かれている。上部は道教的、下部は仏教的と見るのが一般的な見解である。
〔参考文献〕
a1 |
|
国立扶余博物館, 『(所蔵品調査資料集)百済木簡』, 2008年 |
|
|
国立扶余博物館・国立加耶文化財研究所, 『木の中の暗号, 木簡』, 2009年 |
a3 |
|
国立昌原文化財研究所, 『韓国の古代木簡』, 2005年 |
a4 |
|
国立扶余博物館, 『陵寺 ; 6-8次調査』, 2008年 |
a5 |
|
国立扶余博物館, 『陵寺』, 2005年 |
a6 |
|
国立扶余文化財研究所, 『陵寺-10次調査-』, 2010年 |
b1 |
|
李鎔賢, 「百済中興の夢, 陵山里寺」『百済中興を夢見る, 陵山里寺址』, 2010年, 国立扶余博物館 |
b2 |
|
李鎔賢, 「木簡」『百済文化史大系(巻10―百済の文化と生活)』, 2009年, 忠清南道歴史文化院 |
b3 |
|
李鎔賢, 「百済木簡―新出資料を中心に」『(東アジア古典学としての上代文学の構築)韓国木簡の現在』, 2008年報告 |
b4 |
|
李鎔賢, 「百済新出文字資料」『2010年度上代文学会シンポジウム 文字文化を問い直す―新出出土資料から見る百済・新羅・倭―』, 2010年10月予定 |
b5 |
|
李鎔賢, 「百済泗沘時代の政治と仏教」『古代東アジアの仏教と王権―王興寺から飛鳥寺へ―』, 2010年, 勉誠出版 |
c1 |
|
近藤浩一, 「扶余陵山里出土木簡と泗沘都城関係施設」『東アジアの古代文化』110, 2005年 |
c2 |
|
平川南, 「百済と古代日本における道の祭祀」『百済泗沘時代文化の再照明』, 2005年, 国立扶余文化財研究所 |
c3 |
|
尹善泰, 『木簡が聴かせてくれる百済物語』, 2007年, 周留城 |
c4 |
|
李炳鎬, 「扶余陵山里出土木簡の性格」『木簡と文字』1, 2008年, 韓国木簡学会 |
c5 |
|
朴仲煥, 「扶余陵山里寺址発掘木簡予報」『韓国古代史研究』28, 2002年, 韓国古代史学会 |
|
|
|
翻訳:裴寛紋 |
|