今日私がお話しますのは、七世紀に日本(当時中国では倭国と呼んでいました。倭倭たるつまり遠い遥かな国の意味です)で、定型詩、つまり短歌という、五七五七七の音律をもった和歌が成立したことに、当時日本の文化を先進的にになっていた渡来人たちがどのように関与したのかということです。渡来人とは、中国と朝鮮半島から日本に移住した人たちで、ことにこの時代は、半島南部にあって、新羅に亡ぼされた百済から亡命した人々が多かったようです。そもそも日本語を発音のままに記すことは、こうした渡来人たちによって始められました。一つ一つの音を類似の音をもった漢字で写すことは、中国では、古代インドのサンスクリット語で記された仏教のテキストである仏典を漢訳することで進んだ方法でした。それが古代朝鮮語に、そして古代日本語に応用されたのです。日本の資料でも、古いものの中には古代朝鮮語への漢字の当て方を反映したものがありますから、日本語の一つ一つの音を類似の音をもった漢字で写す、一字一音の表記が朝鮮半島を経由したものであることは間違いありません。ただ、日本の主な資料が記された八世紀には、日本語に直接した漢字を選ぶように、ほぼ整えられています。
そうした日本語を記す方法によって、日本古代の歌が書き留められます。歌は古くは自然に歌い継がれた、民族の生活感情の粋といった質をもちます。それを歌謡と称しています。日本語におけるそれは、多く古事記と日本書紀に記された伝説をともなったもので、宮廷の儀式や民間の伝承の中に伝えられたものでした。それを記紀歌謡と称しています。そのなかに、短い五七五七七の音律をもったものが多くあります。最も知られた歌をあげます。
八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
(雲がゆたかに立ち上がると称えられる出雲のみごとな八重の垣、
今新妻と籠もろうと八重垣を作るのだ、ああその八重垣よ) 高天原から追放されたスサノオノミコトが、地上の出雲に降り立ち、そこでオロチ(大蛇)の犠牲になるところであった処女を救い、そしてその処女と結婚するという伝説の中の歌です。最初の五七で八重垣を提示し、次の五七で説明をつけ、最後の七で八重垣を繰り返して終わります。
この歌の形に注目したのが、どうやら渡来人系の人たちであったようです。その現れが『日本書紀』巻二十五、孝徳天皇紀に見られます。この時期には年号がありまして、
大化五年〈六四九〉三月です。皇太子であった中大兄皇子の妃蘇我造媛は、父蘇我倉山田石川麻呂が讒言によって死んだのを傷み、悲しみのあまり亡くなってしまいます。それを哀悼して止まない皇太子に、野中川原史満という人物が歌を奉ります。この人は、中国系渡来人の氏族の一人です。
『日本書紀』の原文であげます。
耶麻鵝播爾 烏志賦拖都威底 陀虞毘預倶 陀虞陛屢伊慕乎 多例柯威爾 鶏武 其一
模騰渠等爾 婆那播左該騰摸 那爾騰柯母 干都倶之伊母我 磨陀左枳涅 渠農 其二 一字一音で表記されたこの歌を、次のように解釈しています。
山川に 鴛鴦二つ居て 偶よく 偶へる妹を 誰か率にけむ 其一
(山川に番の鴛鴦が二羽いて、仲良く連れ添っている。そのように連れ添っていた妻を、一体誰が連れ去ったのか。)
本毎に 花は咲けども 何とかも 愛し妹が また咲き出来ぬ 其二
(春になって、木々のそれぞれに花が咲くけれども、どうしていとしい妻は再びこの世に咲き現れてこないのか。)
宮廷歌謡や民謡風の歌の多い記紀歌謡の中で、際立った内容をもった、二首構成の歌です。皇太子の悲しみを見事に代弁しています。こんなに個人の悲しみを歌い上げた歌は、あとこの二首の他に、九年後の斉明天皇が孫の建王が亡くなったのを傷んで歌ったとされる六首だけです。これらの歌は、もう歌謡であることを離れた、個人の心情にそった内容の、短歌形式の歌、即ち定型歌といってよいものなのです。
では、作者野中川原史満は、どのようにしてこの歌を作ったのでしょうか。実はこの二首にははっきりとしたモデルがあるのです。中国の六世紀、南北に分裂していた時代の北周という国の詩人、庾信(513~581)の「代人傷往二首」がそれです。庾信は、南朝梁の生まれですが、戦いで捕虜となり、北に連れて行かれ、そこで文章を書く仕事をしていました。帰還の叶わぬ故国への郷愁を詠んだ詩で知られます。「代人傷往二首」は、庾信が妻を亡くした貴人に代わって傷みを詠む詩です。それをあげます。
代人傷往二首 人に代りて往くを傷む二首
青田松上一黄鶴 青田の松上 一黄鶴
相思樹下両鴛鴦 相思の樹下 両鴛鴦
無事交渠更相失 事無くして渠をして更に相失は交めんは
不及従来莫作双 従来双を作すこと莫きに及かず
雑樹本惟金谷苑 雑樹は本惟れ金谷苑
諸花旧満洛陽城 諸花は旧洛陽城に満つ
正是古来歌舞処 正に是れ古来歌舞の処
今日看時無地行 今日看る時地無くして行くべし
詳しいことは省きますが、第一首に「両鴛鴦」がでてきます。それと相手を失った「一黄鶴」が対比され、いっそ連れ添うのではなかったと悔やみます。第二首は、かつて繁栄の地に樹々は繁り、花は満ちるけれども、もはやかつての人はそこに帰ってこないと嘆きます。二首の主題と鳥や花との対比、ともによく似ています。また、造媛の死を傷む歌には、一方で死を連れ去られることして詠み、一方で再び現れる自然と対比して再現されることのない人の生を詠む中国漢の時代の挽歌の影響もあります。これは庾信の詩との対応を論じた私より十年ほど前に、ここにおられる身崎さんが述べられたところです。庾信の詩も、その挽歌の系列のもとにあります。
この内容を和歌に詠み込もうとして選んだのが、歌謡の中で多用されていた五七五七七の音律だったのです。これは、「八雲立つ」の歌のように、五七、五七と展開して七を繰り返して終わるといった単純な形式でした。その中に、このような内容を盛り込んだ感覚はすばらしいと思います。倭語が母語だったら、単に自然な音律というだけだったでしょう。渡来人という環境がこれを可能にしたと思います。倭語にも習熟していたのでしょう。
文化一般ではなく、このような歌の内面に至るまで渡来人をもちだすことは、日本ではあまり支持されそうにありません。私もそれがすべてとは思いません。成立したこの形式を、本当に日本の定型歌に育て上げたのが柿本人麻呂であることは、広く認められ、その方法がしきりに論じられていて、ここにおられるお二方、神野志さんと身崎さんは、その分野で日本を代表する研究者です。ただ、日本の定型歌が成立したその時、日本の音律を客観的に聞き取る耳があり、そしてその耳の奥深くに中国の詩があったことを、私は言いたいのです。 |