発表:韓国木簡の現在
韓国木簡研究の現在 ─新羅木簡研究の成果を中心に
李成市[早稲田大学文学学術院]
2008/8/10
 

1 新羅木簡分類の前提

 日本の木簡は、大きく、文書(A)、付札(B)、その他(C)に、三つに区分されている。まず、文書であるが、諸官司において作成され様々な文書・記録・官人の書状などを一括して文書と総称している。これはさらに、その書式によって、狭義の文書(a)と、伝票・帳簿などの記録(b)に分けられている(2)。

 狭義の文書(a)とは、形式上、何らかの形で授受関係が明らかなものを指す。文書の差出者・授受者が明記されているものは勿論のこと、宛先がなくとも、いずれかに差し出したことを示す用語があるものは、これに含まれる。

 こうした狭義の文書に対して、文書の授受関係が明記されていないものの中で、物資の出納などに関する記録(b)は、さらに伝票と帳簿に分けられる。

 上記の文書(A)に対して、物資に付けられたものを付札(B)と総称している。付札は、税物に付けられた荷札(a)と、諸官司が物品の保管・整理のために付けた付札(b)の二種類を区分されている。

 これらの文書と付札のほかに、習書・落書・記載内容の不明な断簡類は、その他(C)として扱われている。本報告では、この範疇のものとして、習書と識字教本を扱うことにする。

2 新羅の文書木簡

(1)狭義の文書

 これまで出土した新羅木簡のうちで、文書(A)のうち、狭義の文書(a)と規定できる代表的な木簡が2点ある。ひとつは、二聖山城出土木簡(118号木簡)であり、もう一つは、月城垓字出土木簡(149号)である。各々、狭義の文書に該当する新羅木簡の内容を見てみることにしたい。

 まず、二聖山城出土木簡は、觚と呼ばれる四面体の形態をもつが、墨書は三面にわたって次のような墨書が見られる。

・戊申年正月十二日明南漢城道使
・須城道使村主前南漢城城城火囗囗
・囗囗漢黄去囗囗囗囗囗

 すでに、拙稿において検討したように(3)、この118号木簡は下端を逸失しているが、その内容は、「戊申年正月十二日の明け方に、南漢城道使」が「(囗)須城道使村主」に発信した文書と推定できる。その根拠は、二行目「村主」の次に記された「前」字であって、高麗以降に明確に見られる用例に従っているとみられるからである。

 また、古代日本の木簡には、「某の前に申す」(いわゆる「前白木簡」)という文書様式が7世紀後半から8世紀にかけての木簡に比較的多数、確認されており、その構文の由来は、中国六朝時代頃の文書形式であることがすでに考証されている(現在では、漢代に遡って用例が確認されている)。しかも、こうした隋唐以前の文書形式は、百済などを媒介にして、古代日本に受容された経緯が推測されている(4)。

 それゆえ、二聖山城出土の118号木簡は、このような文書形式を有する新羅木簡と推定されるのであって、その使用年次は608年ないしは、668年と推定されるが、出土遺物や種々の状況から608年の可能性が高いとみられる。こうした事実を前提に、118号木簡は日本において多数の出土例のある「前白木簡」の先駆的な形式の木簡として、中国六朝時代の文書形式が木簡に用いられ、8世紀に日本で用いられることに至るような伝播過程が想定される。

 以上のように、118号木簡は、年月日や時間帯(明け方)を明示し、差出人と授受者が明記された文書木簡であることを確認しておきたい。

 さらに、文書形式をもつ木簡には、月城垓字出土の149号木簡がある。 すでに述べた118号木簡と同様に、四面体の觚の形態をもつこの木簡には、文書形式を示す「牒」字がみられ、その内容についても、かつて下記のような釈文と解釈を示した上で、紙の購入請求のために官司の間で交わされた写経所関係文書との仮説を提示したことがある(5)。

〔釈文〕
 牒垂賜教在之後事者命盡
 経中入用思買白不雖紙一二斤
 大烏知郎足下万引白了
 使内

〔解釈〕
 牒す。垂され賜し教在り。後事は命ずる盡に。
 経に入用と思しめし、買たしと白す。不(しか)らずと雖も紙一二斤。
 大烏・知郎の足下万引白し了える。
 使内

 しかしながら、四面体の内容を反時計回り(拙稿)、時計回りのいずれに読むかをめぐって説が分かれ、さらに、どの面を起点にするかについても諸説に別れる。その中にあって、奈良文化財研究所の市大樹氏は、諸説を検討した上で、次のように釈文して、文書としての性格をいっそう明確に指摘している(6)。

〔釈文〕
 ①大烏知郎足下万拝白々
 ②経中入用思買白不雖紙一二斤
 ③牒垂賜教在之 後事者命盡
 ④使内

〔訓読〕
 大烏知郎の足下に万(よろず)拝(おが)みて白(もう)し白す。
 経に入用と思しめし、白にあらずと雖も紙一二斤を買えと。
 牒を垂(た)れ賜えと教在り。後事は命を盡(つく)して
 使内

 この149号木簡の内容を、上記のような文書形式として読みとる上で、核心をなすのは、下記のような飛鳥京跡苑池遺構(奈良県明日香村)出土木簡との冒頭部分における対応関係である。

〔釈文〕
 ・大夫前恐万段頓首白囗(僕?)真乎今日国
 ・下行故道間米无寵命坐整賜(7)

 市大樹氏に従えば、この明日香村出土木簡の冒頭部分と、149号木簡の1行目が対応関係にあるというのである。すなわち、「大烏知郎→大夫」、「足下→前」、「万→万段」、「拝→頓首」、「白々→白」とあるように、使用している語句に違いはあっても、同じ文章構造であると指摘し、両者を次のように解釈している。

「大夫様の前に進み出て、恐れながらも常に首を垂れて申し上げます」
「大烏知郎の足下に常に拝んで、次のようにお願い申し上げます」。

 このような市大樹氏の指摘に先立ち、すでに尹善泰氏によって月城垓字出土149号木簡の当該部分に、二聖山城木簡と同様の「某前申」形式の構文を読みとり、149号木簡の「某足下白」形式の文書が、古代日本の「某前白(申)」形式文書の直接的な淵源であったとの指摘がある(8)。市大樹氏は、より一層、具体的に対応する資料によって、構文の形式が同一であることが裏づけたことになる。

 いずれにしても重要なのは、市大樹氏に従えば、149号木簡は、「牒」木簡そのものではなく、二聖山城木簡と同様の「前白木簡」に相当する上申文書とみなしている点である。すなわち、「教」を取り次いだ木簡の作成者が「大烏知郎」に対して、写経用の紙を購買することにかかわる「牒」を発給するように上申したものと捉えるのである。「教」(王の命令のみならず、官司の命令)を受けて「牒」を発するという形式は唐や日本で見られることから、新羅でも一般化していた可能性を市大樹氏は推定している。

 以上のように、149号垓字木簡は、古代日本の木簡との対応関係から、文書木簡としての性格の解明が試みられた事例として軽視できない。
 ところで、垓字出土木簡には、釈文が定まらず、不明な点があるものの、文書木簡の可能性が高いものに、円柱状(棒状)をした148号木簡がある。

 囗囗大宮士等敬白囗囗前先
 囗囗等囗〔        〕賜
 囗囗〔          〕時中
 〔               〕

 釈文中の「大宮」とは、『三国史記』巻39、職官中の内省の沿革記事に見える次の記事に間違いなかろう。

 真平王七年、三宮各々置私臣、大宮和文大阿?(以下略)。

 すなわち、真平王7年(585)に大宮、梁宮、沙梁宮が置かれ、各々の宮には、それを管掌する「私臣」が置かれたという。149号木簡に記す「士等」は、人名と見るのが穏当かも知れぬが、「私臣」(=私大等)の可能性も捨てきれない。いずれにしても、「士等」の下にある「敬白」は、「謹んで申し上げる」と解せるので、ここに文書の文体を読みとることは可能である。

 149号木簡は、一見すると、円柱状の表面にやや乱雑に文字が書き連ねられているように感じられ、文書とは見なしがたいところもある。しかしながら、古代中国には、「檄」と称する文書があり、この檄とは元来、文書ではなく、書写材料であって、ある特定の大きさや形をもった円柱状の簡ではないかと推定されている(9)。149号木簡をひとまず檄とみなしておくことにする。

 このように見てくれば、同じ形態をした垓字出土木簡には、次のような墨書が見られる153号木簡が注目される。

 四月一日典太等教事
 勺筈曰故為改教事

 執事部の次官、「典太等」の「教事」(命令)を記すこの木簡の具体的な内容の把握は困難であり、その用途も合わせて今後明らかにしなければならないが、雁鴨池出土の149号、153号木簡が各々、大宮と執事部に関わる文書として用いられた可能性のみを指摘しておきたい。

(2)伝票と帳簿

 すでに冒頭で指摘したように、狭義の文書(a)に対して、文書の授受関係が明記されていないものには、物資の出納などに関する記録(b)があり、それらをさらに、伝票(α)と帳簿(β)に分けようとする試みがある。寺崎保広氏に従えば、複数の案件を集計し、主として照合の際の台帳として機能する書面として「帳簿」を捉え、集計の材料となり、また帳簿と照合される単数の案件を記録したものを、「伝票」と見なそうとしている。

 このような伝票の範疇に属するとみられる新羅木簡に、月城垓字出土の151号木簡がある。

【資料】参照|PDF 4ページ

 新羅六部のうちの習比部、牟喙の部名と共に、里名が列挙され、右下に小さな文字で、「受」もしくは「不受」などと書かれている。おそらくは、まず四面体に里名を列挙しておき、小字で書かれた「受」「不受」などは、確認の後の追記であろう。

 確認の上で、追記された「受」字は、南山新城碑に、築城担当の城壁距離を「受十一歩三尺八寸」などと記しているごとく、負担が科せられていたことを示している。それゆえ、南山新城碑が王京六部人の場合、里を単位に築造を負担していたように、この木簡もまた、里ごとに賦課された税、あるいは力役の確認(勘検)がなされていたことを示していると見られる。垓字木簡が、600年前後の遺物と共に出土していることからすれば(10)、南山新城碑の如き力役動員の際に用いられた伝票の可能性もある。いずれにしても、觚の形態をした151号木簡は、単独で完結しているのではなく、里ごとに、「受」ないし「不受」の勘検をした後に、これらの結果を集計してさらに、上位の帳簿に記載される材料と考えられる。その意味では、集計の材料となり、また帳簿と照合される単数の案件を記録したものを「伝票」と称するとすれば、まさに151号木簡は、伝票と規定するに相応しい木簡と言える。

 さらに伝票の範疇に入る木簡として、雁鴨池出土186号木簡がある(11)。

【資料】参照|PDF 5ページ左

 すでに、拙稿で何度か指摘したように、これと酷似した日本出土の木簡には平城宮木簡の中にもある。

 それらは、兵衛が西宮と呼ばれた区画にある門に出勤した当日の食料請求のための木簡と推定されており、各門の名を挙げて、その下に人名が割書で記されている点に共通点が見られる(12)。

 尹善泰氏は、雁鴨池出土の186号木簡と、平城宮出土の100号以外にも、92号、99号等との比較検討を行い、それらの人名に合点に注目し、上記の雁鴨池186号木簡の釈文に「左」とした文字を「在」と見なし、これを合点と同様の新羅独自の符号との解釈を提示している(13)。ただ、次に論じる雁鴨池出土の198号木簡では、古代中国の文書や日本の木簡、古文書に広く見られる合点と同様の「了」字を崩した符号が記されており、「在」を合点と見なすには、文字の配分や画数から無理があるように思われる。

 いずれにしても、重要な点は、日本出土木簡の記載様式の場合、割書部分に列挙されている人物は出挙稲支給の対象者など、何らかの物品支給の対象者である場合が多く、一定の記載様式のもとでは、同一の性格の帳簿が作成されている可能性が高いことである。

 さらに、雁鴨池出土の198号木簡もまた、藤原宮出土の木簡(SD105・145出土木簡)と酷似する内容と形式をもっていることで注目されている。各々の釈文を示せば次のとおりである。

【198号木簡 資料】参照|PDF 6ページ

 ・「漏廬湯方漏廬二両 升麻二両黄岑二両 大黄二両 枳実二両
  白僉二両 白微二両 勺薬二両 甘草二両        」
 ・「麻黄二両 漏廬
  新家親王 湯方兎糸子□  本草」

 雁鴨池出土の198号木簡は、藤原宮出土の多数の薬物木簡と同様に、薬物のリストが記されるという記載様式になっており、しかも198号木簡は、薬物名の上に合点が付されていることから、この木簡は、薬物請求のリストであり、さらにそれが薬物の授受の際に合点が付されたと推定されている(14)。そうであるとすれば、198号木簡もまた伝票の類型に属するものと考えられるであろう。

3 新羅の付札木簡

(1)荷札

 上述した文書に対して、物資に付けられた木簡を付札と総称することは、すでに述べた。日本の付札木簡の多くは、紐を括り付けるための切り込みを上下両端にもつか、あるいは上端のみにもち、下端はそのまま尖らせている。尖らせるのは、それを荷の俵や、荷を縛った縄の間に差し込むためとみられている。また、長さ20~30センチ、幅2~4センチ程度のものが多い。

 税の荷に付けられた荷札(貢進物付札ともいう)は、宛先はなく、どこから進上したかを書くのが一般的である。荷札木簡には、その税物を出した人の本貫地(国郡里)名、人名、税目、税物、貢進糧、年月日などが記されるが、これらの要素の中には省略されるものがあり、全て書かれるのは、最も整っている場合である。

 上記のような特徴を有する新羅の荷札には、城山山城木簡がある。咸安城山山城からは、1992年より12次にわたり発掘調査が継続された結果、現在では162点の墨書のある新羅木簡が発見されている(15)。韓国内の遺跡から発見された全木簡の三分の二をしめることになる。

 現在まで出土している城山山城木簡のほとんどが同一の性格をもっており、木簡の典型的な書式は「郡名+村名+人名+官位+物品+数量」となっている。記載された地名は、慶尚北道の三国期における地名が記されており、それらは552年に新羅が施行した広域行政区画である「上州」管下の地域におさまる。

 木簡に記された官位には、新羅が在地首長たちに与えた外位11位のうち、上干支(6位)、一伐(8位)、一尺(9位)が検出されている。城山山城には干支など用いられた年次を示すものは一点もないが、外位「上干支」の表記法から、561年以前に用いられたと推定される。

 物品は、稗が最も多く、次いで麦、さらに1点ながら鉄があり、昨年度の発掘で米が新たに発見された。稗の表記は、「稗」「稗一」「稗石」など多様であるが、これらは「稗一石」の簡略な表記とみなしうる。その形態は、地域差も見られるものの、おおよそ長さ20センチメートル、幅2センチメートルで、下端に切り込み、あるいは穿孔があり、大半が松材が用いられている。多くは、松の細長い枝を用いて半截し、樹皮を削って木簡面を作り、裏面は截断したままに近い状態であり、両側面に樹皮を残したものが何点か存在する。

 以上のように城山山城出土木簡は、形態、記載内容を同じくしており、同一目的で使用された可能性が極めて高い。その用途は、稗、麦、米などの物品に付けられた荷札であり、遠隔地から城山山城まで、在地首長たちによって穀物などが輸送され、そこに荷札が付けられていたことになる。

 木簡に記されていた地名は、現在の慶尚北道域に集中しており、その地域的特性ゆえに、慶尚道の南北を縦貫する内陸交通路としての洛東江が注目されてきた。城山山城からは100㎞ほど隔てた北部の諸地域から、洛東江を利用して輸送されてきたと推定される。

 上記のような性格をもつ城山山城木簡は、日本古代木簡にみられる荷札木簡の同一の性格をもつと見てよく、7世紀以降に登場する日本の古代木簡のルーツを考える上で、きわめて大きな意味をもっている。

 城山山城木簡を広く古代東アジア地域に位置づけようとするとき、まず、その形態においても、材の下端部に切り込みをもつタイプの木簡は、尼雅出土漢文簡牘(尼雅晋簡)にも見ることができ、両者の関係は、今後の検討課題である。また、日本古代の荷札木簡に確認されており、城山山城木簡の形態的な特徴は、日本の荷札木簡に影響を与えたものと推定される。

(2)付札

 城山山城木簡が典型的な税物につけられた荷札であるとすれば、雁鴨池出土木簡には、諸官司が物品の保管・整理のために付けた一群の付札が認められる。それらは、次に掲げるように、おおよそ「年月日+作+動物名+加工品名+容器その他」という記載形式によって書かれており、動物を加工した食品を入れた容器に付けられたと考えられる。「容器その他」の部分は省略されることが多いが、基本的には記載内容が一定しており、同一と見てよい。

【資料 雁鴨池出土付札木簡一覧】参照|PDF 8,9ページ

 冒頭に年月日を記したのは、これらの木簡が醢や鮓などの発酵食品に付されたものであったために、年月日を記載して、食品の加工日を記しておくことで、十分に発酵したか否かなどを知るためであったと推定される(16)。

 加工品名としてみられるもので確実なのは、醢と「鮓」であり、醢は、「しおから」「ひしお」「ししびしお」などと読まれ、魚や動物の肉を塩漬けにしたものとみられる。

 動物名の下に「助史」がみられるが、これらの一群の木簡には、醢と助史がひとつの木簡に同時に現れることはなく、また助史は、木簡の記載形式上、醢と同じ位置に来ている。したがって、「助史」は官職名ではなく「醢」と同様になんらかの食品加工法を意味すると考えられ、漢字の音を借りて新羅固有語を記したと推定される。助史は現代韓国音で読むと「josa」であり醢・鮓・塩辛を意味する「jos」とは音が類似しており、助史は、二字でその音を標記したものと推測される(17)。

 こうした雁鴨池出土の付札と同様の食品の出納・管理に関わる木簡として、日本でも、大安寺出土木簡の事例が知られている(18)。また、これらの他にも、雁鴨池木簡の213号には、表裏に、

 策事門思易門金

とあって、門名を二つ列挙して、そのあとに「金」と記している。「金」は鍵を意味すると考えられ、この木簡は、策事門と思易門の鍵に付けられた札とみられる。日本でも鍵の札として使用された木簡が平城京などから出土しており(19)、同様の用途をもっていたとみられる。

(3)その他─習書と識字教本

 新羅木簡の中で、習書木簡は、雁鴨池出土の次のようなものがある。まず、199号木簡は、「太邑」何度も書き、一方、184号木簡には、新羅第12等の官位「韓舎」を記すが、「韓」「舎」の二字を併せて一字のごとく記す書体である。木簡に記された韓舎の文字は、正倉院所蔵氈貼布記の韓舎に酷似しており、木簡に記された「天寶十一載壬辰十一月」は、 正倉院所蔵氈貼布記が日本にもたらされたと推定される752年にあたる。両者は同一人の筆跡である可能性もある。

    太邑  太邑 太邑
 太邑太邑太邑[    ]太邑
 □乙酉十月廿三日□□子□□  199号木簡|PDF 10ページ


 □□舎 舎 舎    天寶十一載壬辰十一月
・「韓舎        韓舎
韓舎 韓舎 韓舎 天寶 寶 □ 寶
・「韓舎韓舎韓舎文□(絵)  184号木簡|PDF 10ページ

 このほかに多面体の木簡に『論語』を記すものがある。金海鳳凰洞から出土した木簡は、上下端を欠損しているが、『論語』公冶長篇の一部であることが判明している(20)。木簡が出土した同一層位から出土した土器のなどから見て、6世紀後葉から、7世紀初の年代と推定されている(21)。

 このほかに、京畿道高陽郡の桂陽山城からも五角柱の木簡に、『論語』公冶長篇が記されていた。発掘担当者によれば、4世紀頃の百済土器が共に出土していることから、古くに遡る可能性が示唆されている(22)。

 これらは、いずれも『論語』公冶長篇を省略せず、1メートル以上の木材にテクストが忠実に書写されていたと推定されている(23)。

 二つの論語木簡から想起されるのは、徳島県観音寺遺跡から出土した木簡であり、7世紀第2四半期と推定される角柱状の四面に『論語』学而篇の冒頭が記されていた。ただ、『論語』のテクストを正確に記したものではなく、習書とみる見解もある。

 このような多面体にテクストを書写した木簡は、古代中国にも、識字教本の例がある。識字教本は、書物であっても、その目的は、字を覚えることであって内容理解ではない。そうした点で、宮都や地方の遺跡から出土する日本の『論語』木簡が、習書の要素を色濃く持っていることと、韓国出土の識字教本としての『論語』木簡との関係は、それほど遠いものではないと考えられる。

小結

 韓国出土木簡は、いまだ出土点数こそ少ないが、韓国出土木簡には日本で出土した木簡と類似するものが多数確認されており、本報告で見てきたように、それらを、あえて日本の木簡の分類に従って比較を試みることで、日本古代の木簡が韓国出土の新羅木簡と緊密な関係にあったことをみてきた。従来、日本列島出土の木簡は、中国出土の木簡との関連性が見出しがたく、日本列島で独自に形成されたものと考えられてきたが、韓国出土の木簡、とりわけ新羅木簡に特定しても、その類似性はまことに顕著である。

 新羅木簡と日本木簡との比較を通して見えてくるのは、東アジアにおける韓国出土木簡の位相である。かつて、韓国出土の木簡を巨視的に捉えるモデルとして、次のように図式化したことがある(24)。本報告で見たように、韓国出土木簡には、檄(円柱)や觚(四角柱)のような中国的な要素を色濃く持つものが含まれている。しかし、それと同時に日本木簡との共通性、類似性の明らかなものが少なくない。そのような関係は、

 中国大陸(A)→朝鮮半島(A’→B)→日本列島(B’→C)

となるのではないかと考えている。つまり朝鮮半島における部分(A’→B)を消去させては、中国大陸(A)と日本列島(B’→C)は、結びつけようがない。中国木簡(A)を受容した朝鮮半島では、それらを受容し変容させていった(A’→B)のであり、そのような変容過程を経た木簡が日本列島で受容された(B’)という経路が浮かび上がってくる。本報告でとりあげた、木簡の形状や書式、また、木簡の分類に共通性が見られるのは、それらを裏づけているように思われる。

 韓日両国で出土した木簡の類似性については、今後さらに時間軸を設定し、歴史的な段階を重視しながら追究したり、また百済木簡と新羅木簡の差異など、その地域的な偏差にも留意しながら、朝鮮半島と日本列島の間で木簡の類似性を生みだしていく方法が求められる。

 さらに、日本列島の出土木簡といっても、その地域性に留意する必要がある。というのも、いわゆる宮都木簡よりは、むしろ日本の地方木簡に、韓国木簡の影響が見られる点が注目されているからである(25)。比較的早い段階で形態や書式が整えられていく宮都木簡とは対照的に、地方木簡は、形態や書式が宮都ほど整えられることのなかった状況の中で、韓国木簡の多様な要素の影響が、ある段階まで残存したのではないかと推定されている。こうした点は、今後も引き続き検証してゆく必要があるだろう。本報告は、そのような検討のための前提的な作業でもある。

[注]

(1)朝鮮文化研究所編『韓国出土木簡の世界』(雄山閣、2007年)所収の諸論文を参照。

(2)寺崎保広「帳簿」(平川南他編『文字と古代日本』1,支配と文字、吉川弘文館、2004年)。

(3)李成市「韓国出土の木簡について」(『木簡研究』19、1997年)。1行目の「明」は、かつて「朋」と釈文したが、「明」の異体字であることを明らかにしたので、釈文を「明」と改めた。

(4)東野治之「木簡に現れた『某の前に申す』という形式の文書について」(『日本古代木簡の研究』塙書房、1983年)。

(5)李成市「朝鮮の文書行政─六世紀の新羅」(平川南他編『文字と古代日本』2,文字による交流、吉川弘文館、2005年)。また、118号木簡を古文書との対比によって牒とみなす見解については、三上善孝「文書様式「牒」の授受をめぐる一考察」(『山形大学歴史・地理・人類学論集』7,2006年3月)を参照。

(6)市大樹「慶州月城垓字出土の四面墨書木簡」(奈良文化財研究所・大韓民国国立文化財研究所編『日韓文化財論集Ⅰ』学報77冊、2008年、奈良文化財研究所)。なお市大樹氏の149号木簡の訓読と解釈は次の通りである。
〔訓読〕
 大烏知郎の足下に万(よろず)拝(おが)みて白(もう)し白す。
 経に入用と思しめし、白にあらずと雖も紙一二斤を買えと。
 牒を垂(た)れ賜えと教在り。後事は命を盡(つく)して
 使内
〔解釈〕 
 大烏知郎の足下で常に拝んで、次のようにお願い申し上げます。
 経で必要となる紙を、たとえ白紙でなくてもよいので、一二斤買いなさい、という?を
 垂れ賜いなさいという命令がありました(したがって、この命令の旨を取り次ぎ、?を 発給していただくよう、お願い申し上げる次第です)。
 後の事は命令の意を十分に察した上で処理して下さい。

(7)市大樹氏の訓読と解釈は次の通りである。
〔訓読〕
 大夫の前に恐(かしこ)みて万段(よろずたび)頓首して白す。僕(やっこ)真乎、今 日、国に下り行く故に、道の間の米无し。寵命(おおみこと)に坐(ま)せ、整え賜え。
〔解釈〕 
 大夫様の前に進み出て、恐れながらも常に首を垂れて申し上げます。奴である私真乎は、 本日、地方に下向いたしますが、道中の米がございません。上司の命令でありますので、 道中の米を整えて下さいますよう(お願い申し上げます)。

(8)尹善泰「月城垓字出土新羅木簡に対する基礎的検討」(朝鮮文化研究所編『韓国出土木簡の世界』雄山閣、2006年)。

(9)角谷常子「簡牘の形状における意味」(冨谷至『辺境出土木簡の研究』朋友書店、2003年)111-112頁。

(10)趙由典・南時鎮『月城垓字調査報告書Ⅰ』(慶州古蹟発掘調査団、1990年)。

(11)釈文は、橋本繁「雁鴨池木簡判読文の再検討」(『新羅文物研究』創刊号、慶州博物館、2007年)に従う。

(12)李成市「韓国出土の木簡について」(前掲誌)234頁。

(13)尹善泰「雁鴨池出土『門号木簡』と新羅東宮の警備─国立慶州博物館撮影赤外線善本写真を中心に」(『新羅文物研究』前掲誌)。

(14)三上善孝「慶州・雁鴨池出土の薬物名木簡」(朝鮮文化研究所編『韓国出土木簡の世界』前掲))。

(15)朴鍾益「咸安城山山城発掘調査と出土木簡の性格」(国立加耶文化財研究所『咸安城山山城出土木簡』韓日共同研究資料集,2007年)161頁。

(16)橋本繁「雁鴨池木簡判読文の再検討」(前掲誌)。

(17)橋本繁「雁鴨池木簡判読文の再検討」(前掲誌)。

(18)鈴木景二「寺院遺跡出土の木簡」(大庭脩編『木簡─古代からのメッセージ』大修館書店、1998年)289頁)

(19)李成市「古代朝鮮も文字文化」(平川南編『古代日本 文字の来た道』大修館書店、2005年)52頁、

(20)橋本繁「金海出土『論語』木簡と新羅社会」(『朝鮮学報』193,2004年)。

(21)釜山大学校博物館『金海鳳凰洞低湿地遺跡』(釜山大学校博物館研究叢書33輯、2007年)54頁。

(22)鮮文大学校考古学研究所「仁川桂陽山城東門址集水井出土木簡保存処理結果報告」2005年6月27日。

(23)韓国出土の論語木簡については、橋本繁「金海出土『論語』木簡と新羅社会」(前掲誌)、同「古代朝鮮における『論語』受容再論」(朝鮮文化研究所編『韓国出土木簡の世界』前掲書)参照。

(24)李成市「古代朝鮮の文字文化と日本」(『国文学』7-4,2002年3月)

(25)三上善孝「韓国出土木簡と日本古代木簡─比較研究の可能性をめぐって」(朝鮮文化研究所編『韓国出土木簡の世界』前掲書)参照。

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   セミナー第4回[身﨑 壽]
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 [金采洙]
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