2 新羅の文書木簡 (1)狭義の文書
これまで出土した新羅木簡のうちで、文書(A)のうち、狭義の文書(a)と規定できる代表的な木簡が2点ある。ひとつは、二聖山城出土木簡(118号木簡)であり、もう一つは、月城垓字出土木簡(149号)である。各々、狭義の文書に該当する新羅木簡の内容を見てみることにしたい。
まず、二聖山城出土木簡は、觚と呼ばれる四面体の形態をもつが、墨書は三面にわたって次のような墨書が見られる。
・戊申年正月十二日明南漢城道使
・須城道使村主前南漢城城城火囗囗
・囗囗漢黄去囗囗囗囗囗
すでに、拙稿において検討したように(3)、この118号木簡は下端を逸失しているが、その内容は、「戊申年正月十二日の明け方に、南漢城道使」が「(囗)須城道使村主」に発信した文書と推定できる。その根拠は、二行目「村主」の次に記された「前」字であって、高麗以降に明確に見られる用例に従っているとみられるからである。
また、古代日本の木簡には、「某の前に申す」(いわゆる「前白木簡」)という文書様式が7世紀後半から8世紀にかけての木簡に比較的多数、確認されており、その構文の由来は、中国六朝時代頃の文書形式であることがすでに考証されている(現在では、漢代に遡って用例が確認されている)。しかも、こうした隋唐以前の文書形式は、百済などを媒介にして、古代日本に受容された経緯が推測されている(4)。
それゆえ、二聖山城出土の118号木簡は、このような文書形式を有する新羅木簡と推定されるのであって、その使用年次は608年ないしは、668年と推定されるが、出土遺物や種々の状況から608年の可能性が高いとみられる。こうした事実を前提に、118号木簡は日本において多数の出土例のある「前白木簡」の先駆的な形式の木簡として、中国六朝時代の文書形式が木簡に用いられ、8世紀に日本で用いられることに至るような伝播過程が想定される。
以上のように、118号木簡は、年月日や時間帯(明け方)を明示し、差出人と授受者が明記された文書木簡であることを確認しておきたい。
さらに、文書形式をもつ木簡には、月城垓字出土の149号木簡がある。 すでに述べた118号木簡と同様に、四面体の觚の形態をもつこの木簡には、文書形式を示す「牒」字がみられ、その内容についても、かつて下記のような釈文と解釈を示した上で、紙の購入請求のために官司の間で交わされた写経所関係文書との仮説を提示したことがある(5)。
〔釈文〕
牒垂賜教在之後事者命盡
経中入用思買白不雖紙一二斤
大烏知郎足下万引白了
使内
〔解釈〕
牒す。垂され賜し教在り。後事は命ずる盡に。
経に入用と思しめし、買たしと白す。不(しか)らずと雖も紙一二斤。
大烏・知郎の足下万引白し了える。
使内
しかしながら、四面体の内容を反時計回り(拙稿)、時計回りのいずれに読むかをめぐって説が分かれ、さらに、どの面を起点にするかについても諸説に別れる。その中にあって、奈良文化財研究所の市大樹氏は、諸説を検討した上で、次のように釈文して、文書としての性格をいっそう明確に指摘している(6)。
〔釈文〕
①大烏知郎足下万拝白々
②経中入用思買白不雖紙一二斤
③牒垂賜教在之 後事者命盡
④使内
〔訓読〕
大烏知郎の足下に万(よろず)拝(おが)みて白(もう)し白す。
経に入用と思しめし、白にあらずと雖も紙一二斤を買えと。
牒を垂(た)れ賜えと教在り。後事は命を盡(つく)して
使内
この149号木簡の内容を、上記のような文書形式として読みとる上で、核心をなすのは、下記のような飛鳥京跡苑池遺構(奈良県明日香村)出土木簡との冒頭部分における対応関係である。
〔釈文〕
・大夫前恐万段頓首白囗(僕?)真乎今日国
・下行故道間米无寵命坐整賜(7)
市大樹氏に従えば、この明日香村出土木簡の冒頭部分と、149号木簡の1行目が対応関係にあるというのである。すなわち、「大烏知郎→大夫」、「足下→前」、「万→万段」、「拝→頓首」、「白々→白」とあるように、使用している語句に違いはあっても、同じ文章構造であると指摘し、両者を次のように解釈している。
「大夫様の前に進み出て、恐れながらも常に首を垂れて申し上げます」
「大烏知郎の足下に常に拝んで、次のようにお願い申し上げます」。
このような市大樹氏の指摘に先立ち、すでに尹善泰氏によって月城垓字出土149号木簡の当該部分に、二聖山城木簡と同様の「某前申」形式の構文を読みとり、149号木簡の「某足下白」形式の文書が、古代日本の「某前白(申)」形式文書の直接的な淵源であったとの指摘がある(8)。市大樹氏は、より一層、具体的に対応する資料によって、構文の形式が同一であることが裏づけたことになる。
いずれにしても重要なのは、市大樹氏に従えば、149号木簡は、「牒」木簡そのものではなく、二聖山城木簡と同様の「前白木簡」に相当する上申文書とみなしている点である。すなわち、「教」を取り次いだ木簡の作成者が「大烏知郎」に対して、写経用の紙を購買することにかかわる「牒」を発給するように上申したものと捉えるのである。「教」(王の命令のみならず、官司の命令)を受けて「牒」を発するという形式は唐や日本で見られることから、新羅でも一般化していた可能性を市大樹氏は推定している。
以上のように、149号垓字木簡は、古代日本の木簡との対応関係から、文書木簡としての性格の解明が試みられた事例として軽視できない。
ところで、垓字出土木簡には、釈文が定まらず、不明な点があるものの、文書木簡の可能性が高いものに、円柱状(棒状)をした148号木簡がある。
囗囗大宮士等敬白囗囗前先
囗囗等囗〔 〕賜
囗囗〔 〕時中
〔 〕
釈文中の「大宮」とは、『三国史記』巻39、職官中の内省の沿革記事に見える次の記事に間違いなかろう。
真平王七年、三宮各々置私臣、大宮和文大阿?(以下略)。
すなわち、真平王7年(585)に大宮、梁宮、沙梁宮が置かれ、各々の宮には、それを管掌する「私臣」が置かれたという。149号木簡に記す「士等」は、人名と見るのが穏当かも知れぬが、「私臣」(=私大等)の可能性も捨てきれない。いずれにしても、「士等」の下にある「敬白」は、「謹んで申し上げる」と解せるので、ここに文書の文体を読みとることは可能である。
149号木簡は、一見すると、円柱状の表面にやや乱雑に文字が書き連ねられているように感じられ、文書とは見なしがたいところもある。しかしながら、古代中国には、「檄」と称する文書があり、この檄とは元来、文書ではなく、書写材料であって、ある特定の大きさや形をもった円柱状の簡ではないかと推定されている(9)。149号木簡をひとまず檄とみなしておくことにする。
このように見てくれば、同じ形態をした垓字出土木簡には、次のような墨書が見られる153号木簡が注目される。
四月一日典太等教事
勺筈曰故為改教事
執事部の次官、「典太等」の「教事」(命令)を記すこの木簡の具体的な内容の把握は困難であり、その用途も合わせて今後明らかにしなければならないが、雁鴨池出土の149号、153号木簡が各々、大宮と執事部に関わる文書として用いられた可能性のみを指摘しておきたい。
(2)伝票と帳簿
すでに冒頭で指摘したように、狭義の文書(a)に対して、文書の授受関係が明記されていないものには、物資の出納などに関する記録(b)があり、それらをさらに、伝票(α)と帳簿(β)に分けようとする試みがある。寺崎保広氏に従えば、複数の案件を集計し、主として照合の際の台帳として機能する書面として「帳簿」を捉え、集計の材料となり、また帳簿と照合される単数の案件を記録したものを、「伝票」と見なそうとしている。
このような伝票の範疇に属するとみられる新羅木簡に、月城垓字出土の151号木簡がある。
【資料】参照|PDF 4ページ
新羅六部のうちの習比部、牟喙の部名と共に、里名が列挙され、右下に小さな文字で、「受」もしくは「不受」などと書かれている。おそらくは、まず四面体に里名を列挙しておき、小字で書かれた「受」「不受」などは、確認の後の追記であろう。
確認の上で、追記された「受」字は、南山新城碑に、築城担当の城壁距離を「受十一歩三尺八寸」などと記しているごとく、負担が科せられていたことを示している。それゆえ、南山新城碑が王京六部人の場合、里を単位に築造を負担していたように、この木簡もまた、里ごとに賦課された税、あるいは力役の確認(勘検)がなされていたことを示していると見られる。垓字木簡が、600年前後の遺物と共に出土していることからすれば(10)、南山新城碑の如き力役動員の際に用いられた伝票の可能性もある。いずれにしても、觚の形態をした151号木簡は、単独で完結しているのではなく、里ごとに、「受」ないし「不受」の勘検をした後に、これらの結果を集計してさらに、上位の帳簿に記載される材料と考えられる。その意味では、集計の材料となり、また帳簿と照合される単数の案件を記録したものを「伝票」と称するとすれば、まさに151号木簡は、伝票と規定するに相応しい木簡と言える。
さらに伝票の範疇に入る木簡として、雁鴨池出土186号木簡がある(11)。
【資料】参照|PDF 5ページ左
すでに、拙稿で何度か指摘したように、これと酷似した日本出土の木簡には平城宮木簡の中にもある。
それらは、兵衛が西宮と呼ばれた区画にある門に出勤した当日の食料請求のための木簡と推定されており、各門の名を挙げて、その下に人名が割書で記されている点に共通点が見られる(12)。
尹善泰氏は、雁鴨池出土の186号木簡と、平城宮出土の100号以外にも、92号、99号等との比較検討を行い、それらの人名に合点に注目し、上記の雁鴨池186号木簡の釈文に「左」とした文字を「在」と見なし、これを合点と同様の新羅独自の符号との解釈を提示している(13)。ただ、次に論じる雁鴨池出土の198号木簡では、古代中国の文書や日本の木簡、古文書に広く見られる合点と同様の「了」字を崩した符号が記されており、「在」を合点と見なすには、文字の配分や画数から無理があるように思われる。
いずれにしても、重要な点は、日本出土木簡の記載様式の場合、割書部分に列挙されている人物は出挙稲支給の対象者など、何らかの物品支給の対象者である場合が多く、一定の記載様式のもとでは、同一の性格の帳簿が作成されている可能性が高いことである。
さらに、雁鴨池出土の198号木簡もまた、藤原宮出土の木簡(SD105・145出土木簡)と酷似する内容と形式をもっていることで注目されている。各々の釈文を示せば次のとおりである。
【198号木簡 資料】参照|PDF 6ページ
・「漏廬湯方漏廬二両 升麻二両黄岑二両 大黄二両 枳実二両
白僉二両 白微二両 勺薬二両 甘草二両 」
・「麻黄二両 漏廬
新家親王 湯方兎糸子□ 本草」
雁鴨池出土の198号木簡は、藤原宮出土の多数の薬物木簡と同様に、薬物のリストが記されるという記載様式になっており、しかも198号木簡は、薬物名の上に合点が付されていることから、この木簡は、薬物請求のリストであり、さらにそれが薬物の授受の際に合点が付されたと推定されている(14)。そうであるとすれば、198号木簡もまた伝票の類型に属するものと考えられるであろう。
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