発表:韓国木簡の現在
百済木簡 ─新出資料を中心に
李鎔賢[国立扶余博物館]
2008/8/10
 

 百済木簡が初めて出土したのは1982年から1983年にわたった扶余・官北里蓮池およびその周辺発掘からであったが、文字があまり読めなかったため、ほとんど注目されることがなかった。引き続き百済地域の益山・弥勒寺址でも1987年に木簡2点が出土したが、報告書が1996年に刊行されたこともあって、同様に関心を引くことはできなかった。百済木簡の本格的研究がなされ始めたのは、1997年10月-12月に扶余・宮南池木造貯水槽施設内で38字墨書木簡が出土してからである。百済都城の制度と関連してマスコミの大々的な注目をあび、これに関する1999年の報告書が刊行されるまで全3編の論考が発表されるなど、百済木簡研究の嚆矢となった。続いて扶余・陵山里寺址の発掘過程で、2000年に10点、2001年に19点が出土した。扶余・官北里からも2002年に12点、2003年に2点など、計14点の木簡が出土した。

 こうした木簡出土のラッシュに力づけられて、百済の文字や木簡に対する関心が一挙に高まった。2003年5月、国立扶余博物館が主催した特別展『百済の文字』が開催され、官北里2点、宮南池1点、陵山里寺址20点など、計23点の木簡、すなわち2002年以前の出土品のほとんどが展示された。2004年には国立昌原文化財研究所によって『韓国の古代木簡』が刊行された。ここには2004年まで発掘されたもののほとんどである、韓国の木簡319点の赤外線写真が載せられた。そのうち、32点が百済木簡であり、この本は研究の起爆剤になった。この本に載せられたもののなか、益山・弥勒寺址木簡2点は、百済木簡ではない可能性が高い。また既に2002年に報告されていた宮南池木簡2点は漏れており、さらに報告されていない官北里出土木簡1点がある。 2007年5月、扶余・双北里ヒョンネドゥルから12点が出土した[現場説明会資料]

 2007年12月に刊行された報告書には、陵山里寺址の7点4片がさらに公表された[陵寺2、国立扶余博物館、2007年]。2008年4月に扶余・双北里280-5番地で6点、7月に全南・羅州・伏岩里古墳群周辺製鉄遺跡で2点が発掘された。したがって現在百済木簡は計64点(片を含む)である。

 一方、2005年に発見された仁川・桂陽山城出土の論語木簡2点は、報告者とマスコミは百済時代のものと主張しているが、近日刊行される最終報告書を検討してから判断されるべきである。2008年7月現在、韓国でその出土が知られている古代韓国の木簡は約450-500点ほどである。他にも百済地域で出土した未公開のものが幾つかあるという噂があり、それが公開・確認されれば何点かは増えるだろう。にもかかわらず、新羅木簡の点数に比べると少ない方である。百済のものであることが確実な場合に限定し出土地別にすれば、大部分は扶余で出土したもので、2点が扶余でない羅州で出土したものである。扶余が百済の王京であることからすると、大多数が都城の木簡であり、地方の木簡は2点のみである。

 近頃、百済木簡の研究は、陵山里寺址出土品を中心に活気を帯びている[朴仲渙、近藤浩一、尹善泰、李炳浩、李鎔賢]。報告書の刊行によって追加情報が公開され、その全容が知られるようになり、最近、王京の扶余・双北里一帯と地方としては初めて羅州で各々文書木簡が出土したことで、今後新しい研究が促進されるであろうと思われる。本発表ではこれら百済木簡を出土地別に概観する。以下、木簡番号は『韓国の古代木簡』に従い、そこにないものは別称する。

1.陵山里寺址(「陵寺」)

 2000年から2002年にわたった発掘で、寺院南側にあるY字の初期自然排水路から計27点の木簡が出土した。木簡出土層の復元と解釈において発掘者の間に、567年の寺院建立以前という解釈と、その後という解釈に分かれている。これに基づいて扶余遷都前になされた羅城築造やあるいは寺院建立以前に築造された羅城城門の禁衛と関連づける解釈と、554-567年の間と見る解釈、そして寺院建立以後と見る解釈が並立している。木簡の内容が寺院と関係のあることからして、完全に寺院を取り外しては議論しがたいところがある。


[以下、図はすべてクリックすると別ウィンドウで大きく表示されます]

 男根形の木材品に刻書と墨書がある。勃起した男根がリアルに描写されている。亀頭部分は表現されたが、嚢心部分は省略された代わりに、尖頭形の貫通した穴がある。男根の幹根部分を非常に長く誇張して表現しており、これは文を書くための空間を確保するためのものと見られる。亀頭の姿を基準として上下左右を区分することができる。字の正置と倒置関係からして、右面と下面が一組になり、さらに左面と上面が一組になる。



 対応関係をなす右面と左面は、刻書のある点とその内容が互いに類似している。内容上、(A)=(a)、(B)=(b)、(C)=(c)と対応する。すなわち、正置された右面・下面組と倒置された左面・上面組は相互対蹠関係である。


 刻書したことには特別な意味があるように考えられる。「无」は仏経に見える書体である。「无」にはまた反語法的に「‐しないだろうか」という用法があり、仏経を暗誦する際に使われる発語辞でもある。「无奉義」は「義を奉ずる」という意で解釈しておく。「无奉」は「无奉義」の縮約形であろう。「道縁」は「道のはた」あるいは僧侶の名前と見られる。「立」は「立てる、立つ」という意味とともに男性性器の「勃起する」という意味もある。「立」字のある右面を含んだ正置組は、亀頭が空に向かっていて勃起した男根の姿に一致する。「立立立」と3回繰り返したことは強調と見られるが、念願を込めた呪文のように思われる。「天」は天神を意味するより、男根方向の上下を表示しているのではないか。

 「道縁」を「道のはた」とするならば、道神との関連を重視することもできる。既に日本の道饗祭・道祖神と関連づける説がある。すなわち百済王が常住する都城の入口の施設で、門柱のようなところにぶら下げておくことによって(「道縁立」)、都城の外側から邪気が入るのを防ぐ、呪術的な役割を遂行したと見るのである。

 字の方向からして、木簡の4面のうち正置組を基準とすれば、亀頭を空へ向かって男根を勃起状態に立てるか、倒置組を基準として発起していない状態で下に落とす、二種類の局面が演出されたと推定される。

 従来、百済地域に知られている男根表象は、百済地域土着の祭事や呪術と関連が深い。扶余郡九龍面東方里論峙出土、馬韓時代の祭祀遺跡においても土器の取っ手の部分を男根で表し、百済時代の宮南池でも木製男根が出土した。江原道・三陟神南里海神堂の男根信仰をはじめとする東海岸の男根信仰は、女神に対して男根を削って捧げたり雄牛の嚢心を供え物として捧げたりしている。「奉義」「奉」という文句を見れば、奉献された対象は他ならぬ、この木製男根である。

 また、本木簡は寺院の中門址の南側水路で発見されたが、これは寺院との関連のなかで使用・廃棄されたことを意味する。忠北・報恩所在の俗離山法主寺に、仏教仮装劇の郡守吏房という遊びがあるが、ここでは木棒で陽茎を形容し、それを持ち上げて神を慰安したという。これは後代のことではあるものの、仏教寺院で木製男根が奉献された事例として陵山里の場合と同じである。すなわち男根は悪鬼を追い出したり神に捧げたりするものであり、旺盛な生殖力と活気ある生命観を依託する対象でもあった。

 この男根型木簡ないし木製男根は、寺院建立前後に陵寺に奉献されたものと見られる。これは男根の生殖力・生命力をもとに邪悪な鬼神と気勢を慰撫または威嚇し、邪気が聖域寺院に近づかないようにするためのものだったであろう。泗沘時代(538-660年)の百済には呪文・符呪などを使って邪気を払い病気を治す、一種の精神心理治療師である呪噤師が存在した。元来中国における呪噤は仏教で始まって道教でも盛んであり、百済の呪噤師は仏教を媒介として受容されたものと考えられる。男根型木簡は寺院で行われた呪噤行為の一環として理解される。

 陵寺建立の目的は新羅との戦いで戦死した聖王の冤魂を慰め追福するためであった。国王の聖王をはじめ、佐平4人、兵卒2万9千6百人が戦死し、百済の朝野に及ぼした衝撃は相当なものであった。太子の昌(後の威徳王)が直ちに即位できず猶予期間を置かねばならなかったことと、彼が即位した後にも父王聖王のための舎利供養の主体になれなかったことから当時の雰囲気が窺える。聖王をはじめとする戦死者の魂とその家族らと民心を安定させる、一大パフォーマンスの中心に陵寺があり、男根型木簡もまさに同じ脈絡で理解できる。戦死した霊に対する慰安と、生命力の再生、そして二度と百済に邪悪な気勢が宿らないようという念願を込めて男根型木簡が陵寺に奉献されたのではないか。このような土着信仰に基づき、あるいは道教思想との関連をも考えられる、男根信仰の呪術的行為が仏教寺院で行われたということは、当時の百済仏教の性格を察する上で重要であろう。


 1面、2面は「支薬児食米記」である。これは「薬児の食米を支給した記」、ないし「薬児を扶支する食米の記」と解くことができる。「食」は韓国古代の関連文字資料の用法からして「ご飯」「食べ物」と解される。一方、日本の古代木簡のなかにも食米関連木簡の例を見られるが、それらは「食料支給」を意味する。「記」は記録・帳簿を意味する。「薬児」は「薬の調剤と処方および薬剤などの薬関連業務従事実務者」と見える。「薬児」という表記と関連し、中国唐制の「薬童」が注目される。唐制の「薬童」とは主薬や典薬の補佐役で、尚薬局や奉医局などで医薬の調剤と処方、薬剤管理を担当した実務者であったとされる。韓国古代には「児」が選好・多用された痕跡があり、職制に見える「児」は「童」にも通じる。これは子供という意味よりは、キャリアの少ない末端実務者を象徴するのであろう。これを内容別・日付別に整理すれば、次の通りである。


 記録の題名の下に「日+食(米)+数量」との書式で列記されている。「食米」は「食」とも、また「大升」は「大」とも省略表記されている。日付は第1面に1、2、3日が見え、第2面に5、6、7、8日が見える。

 第1面と第2面の末尾は破損している。第2面の内容からして少なくとも1-2字はあったはずであり、換算すれば46.4cm、これが本木簡の最小値となる。26字が入っている第1面は、上から38.1cmの部分まで空格を含んで、29字分を想定できる。入り得る最大限の内容を前提にすれば55.2cmとなり、これが本木簡の最大値である。つまり、本木簡の本来の長さは46.4cm~55.2cm程度と推定される。この長さを勘案すると、あえて空白にした場合でない限り、「四日」と「九日」に対する記録があったことはほぼ確実であろう。木簡の記録単位からすれば、第8日または第9日が記録の一単位をなしている。

 そして、穀物すなわち米の単位、石・斗・大升・小升が見える。1石=10斗=100升とは通時代的な認識であったが、大升・小升は時代によって少し違いがあり、中国では漢代には少升は1/3升、大升は2/3升であり、唐代には大升は3升であった。ところで、食米の支給量は概して日付ごとに4斗が上がり下がりしており、漢代の小升や大升の基準では説明がつかない。まずは「10升=1斗」が大前提になり、「1小升≦1升<1大升<2大升<10升(=1斗)」 の前提が成立する。よって「大升<5升」となり、「1大升≦1/3斗=3.33升」を想定することができる。つまり、1大升は3.33升以下となる。連動する小升は升と違い、想定しがたい。資料の増加を待つべきだが、小升1は1升と同じものと想定せざるを得ない。要するに、本木簡で穀物「10升=1斗、大升1≦3.33升、小升1=1升」という式が想定される。これは唐代の大升と同じである。

 第3面は、その内容上の構成が複雑である。



 右辺に「吏」をもちながら、左辺が「彳」(第3字)「忄」(第8字)「イ」(第18字)である字が見られる。第18字は疑いなく「使」である。第3字は「彳吏」だが、「使」と見て良いだろう。第8字は「忄吏」と見て、「使」の異体字の範疇に入れておくことができる。この場合、「使」に対して二つほどの異体字が想定される。これらは「吏」、すなわち「官吏」の範疇であり、「道使」とともに羅列されている点から、地方官である道使系列の官吏と推定することもできる。「豸者」は字典には見られないものの、「豬」「猪」の異体字であろう。「弾耶方」は「方」という語彙からして、恐らく百済の地方行政単位である。「道使」の次には、古代金石文一般の傾向から人名がくるだろうと推定される。以上を前提とすれば、次のように区切って読むことができる。


 下線部は様々な解釈が可能だが、概して「職責+名前」の構造と見ることができる。「弾耶方」は、百済の地方制度の最も上位に位置する「五方」のそれとは違う。割註の用法からして「弾耶方」があり、「牟氏、牟祋」はそこに所属しているものであろう。同用法は同じ陵寺で出土した木簡304の「宝憙寺[智真、慧×]」においても確かめられる。郡県の長である「道使」が羅列され、次に地方行政区域と見られる「方」が羅列されているのは、まず地方の長の道使級の人名が羅列された後、続いて道使と関連した地方名が羅列されたことと判断される。

 第1面と第2面は連続する一つの文書であることに間違いない。第3面の第1字「食」が確実であり、第1面と第2面が連動するものであれば、第3面は、食料の支給対象者である食口の名簿となるわけである。「豸者耳」は人名でなく、「豚」の表記という説もある。その場合、以後の叙述は黒豚を指すこととなる。地方の特産物ないし薬剤としての黒豚を想定することもできる。第3面をこのように錯綜した文章と捉えるのであれば、習書と見る余地もある。第4面は「又十二石」の反復であり、第1面・第2面・第3面と天地が逆になっている。これにより第4面を習書と判断することもできる。ただしそれなりの意味のある記録ならば、「又」が集計上では足すことを意味するという面で、統計にかかわる記録や計算とも考えられる。

 いずれにせよ、この記録は薬部・薬児の薬材収集・受納と想定される。よって、ここで行われた会計支出および集計も、やはりそれにかかわった業務から派生したのであろう。百済の医薬の高い水準は中国史書にも伝わっており、独自の医薬書もあったとされるほどである。



 これは名簿と見られる独特の木簡である。「攵」は珍しいが、「久」「父」「文」と読むこともできる。他の部分は完全な形だが、縦面の左側は破損している。本来左側に2行があったろうと推測される。上部は三角形に近い梯形である。「‐貴」「‐文」「‐牟」は『日本書紀』などの百済関連人物の人名にしばしば見られる用字であるため、全体的に人名の羅列と考えられる。現在残っているのは10個の名前だが、本来は18個だったと見られる。裏面は「巛」のような記号を7行ほど羅列している。表面は墨でマス目を作り、裏面は枠の線を引いている。陵寺出土の他の木簡とは異なり、厚さが非常に薄い。紙の代用であって、まるで紙のように使われた文書であった可能性がある。因みに薄さで言えば、日本や中国の祭事に使われる人形模様の木製品のそれとも類似しており、裏面の記号は呪術的な感じもする。正確な用途は断定しがたく、この木簡は人名簿の記録簡として行政に使われたものか、呪術的な呪符木簡だったろうと想定しておき、今後資料の増加を待つこととする。



 307の「‐徳」は、百済の官等16等のうち、第7位から第11位までにつく接尾辞である。実際に297木簡にも「対徳」が見られる。「干尓」(ないし干尓…)は名前だろう。「資丁」という用語が注目される。日本古代の「資人」は、国家が貴族の家に支給し、そこで奉仕させた従者で官僚制の末端に位置する。50戸ごとに2人ずつ3年交代で派遣し、その生活費は故郷に負担させた制度があったが、「仕丁」とはこれらの地方から派遣され都城の官司で雑役に従事していた者である。「資丁」とはこうした地域で役の一つとして派遣され、宮内・官司や貴族のもとで雑役に従事した役職を指すと推定される。

 297、298は、「(出身地または居住行政区域名+)官等+人名」という書式をもつ木簡である。「対徳」は官等第11位であり、「奈率」は第6位である。「疏加鹵」「加姐」「白刕…」「慧明」は人名と考えられる。とくに「慧明」は僧侶の名前のようであるが、これは「師」にも相応しい。中級貴族に伴い、雑役従事者、そして僧侶が陵寺にかかわる工事・事業・行事に関与していたことを示唆する。



 313は上段に切り込みが彫られている典型的な付札・荷札である。304は4月8日の釈迦誕辰日行事にかかわって、宝憙寺から陵寺の現場に運ばれてきた物品の荷札である。「智真」などは宝憙寺所属の僧侶と見られる。裏面は異筆である。木簡とともに陵寺に送付されてきたのは塩1石だった。上記宝憙寺や子基寺は陵山里にあった寺の名前だったとは考えがたく、周辺の寺であったろう。陵寺の行事や事業に関連し、これらの寺から塩のような物資の授受・収斂が行われている。宝憙寺の場合は表面と裏面との間に書記の時差が見える。この時差をいかに見るかにより、いくつかの想定が可能だが、概ね宝憙寺から陵寺へ塩を送付したと見て無難であろう。寺院間のネットワークが機能しており、王室寺院としての位相を示している。ここに22部官舎のうち、寺院と仏法を担当したとされる功徳部の関与をも推定できる。


 296は「梨田」の次の部分を削って、もう少し大きい字で異筆追記したものである。「月」偏の字らを羅列していることから、その系列の字の習書と考えられる。裏面も同様である。本来、3月12日の梨田などにかかわった生産品・麦などに関連のある記録であったものが、記録としての用途が完了し、習書として再利用されたのである。「月」偏の字である「脳」「脛」など、身体関連用字がほとんどである。これを習書した主体は医薬関連者であった可能性がある。梨田から出る梨は薬材として活用されたのである。本草綱目や類聚によると、梨は中風で喉がかれた時、熱を下げたり胸が苦しい時に使ったりした薬剤であった。なお、升麻の場合も、その根幹は解熱、腫毒、痔疾、害毒、小児尿血、偏頭厭などの薬剤として使われた。



  竹山から出る竹も薬として使われていた。竹実は精神を良くし、胸苦しさに利き、体を軽く感じるようにするなど、気勢を助ける。また、竹根は煮詰めて食べれば、虚を補い、気を下げ、風病を治すという。竹茹の薄い内皮である青皮は、吐き気やしゃっくりを止め、肺病で血を吐く病気を治す。竹黄、すなわち竹の節のなかにある黄色がかった白い物質は、鉱物性薬剤を解毒し熱を下げる。

 つまり、この一連の木簡を通じて、竹山・梨田のような農園が存在しており、その供給する用途は様々であったにせよ、とりわけ薬材との関連の深かったことが分かる。3月なら梨田に種まきして栽培する時期である。「竹山六」という語からして、竹を植え栽培する山が6個という意味であろう。したがって、これらは何月26日に竹栽培山の農園の数を記録したものと捉えられる。それを管掌する機関が薬部だったとすれば、農園は薬園でもあったはずである。百済の医薬分野は倭においても評価されており、こうして栽培・採取された薬物は医薬関連専門家とともに倭に輸出されたりもした。前掲薬児木簡と関連づけてみると、薬園に対しては関係機関、すなわち薬部により定期的に一定期間点検が行われていた。具体的に、薬児ら約20人余りが動員され、約10日にわたって作業が行われていたと見られる。


 305木簡は4-4句の形式であるが、百済で4句は珍しくない。沙宅智積碑は4-6駢儷体であり、日本にも伝えられた千字文は4-4句である。このように本木簡は詩経・書経などの経書体・千字文体と言える。解釈は次のようにできる。

宿世(=前世)に業を結んだから、[現世に]共に同じところに生まれた。
これは互いに尋ねた(計算した)ことではありません。謹んで申し上げます。

 「宿世」「結業」「同生一処」は仏経的用語である。仏経に対する知識を熟知していた人の書いた文章である。「慧暈」は僧侶であろう。仏教と木簡とのつながりは、出土地が陵寺という点を考えれば当然である。陵寺木簡の成立時期である6世紀は、中国南朝の五経博士が百済にもたされ、中国に留学していた僧侶が帰国した時期でもある。漢文の受容と活用において、仏教と僧侶、経典などが重要な媒介体であったことを示唆する。

2.宮南池

1995年に1点、2001年に2点が発掘された。



 本来、百済時代の苑池で知られたところだが、発掘された地点は農耕地で、道路および木製水槽施設が確認された。表面と裏面とは内容的に対応しており、表面の(1)(2)(3)は各々裏面の(1)(2)(3)に対応する。つまり裏面は表面の縮約形である。「西部」「後巷」は行政区域名。百済の都城は5部からなり、その下に各々5巷が置かれていた。中国の唐律令の戸令によれば、男の場合、年齢によって「黄‐小‐中‐丁‐老」に区分された。この木簡の「小口」「中口」「丁」は、それぞれ唐制の「小」「中」「丁」に照応する。「帰人」は「百済王の王化に帰附した人」と解釈される。これと関連して注目されるのが、百済の22部官府のうち、人口編成と戸籍作成などの主務部署とされる点口部である。個人が所持したのなら耕作にかかわる通行証であった可能性もあり、官に保管されていたものならば記録物、なかでも戸籍類の記録、すなわち伝票を想定することができる。上段の穴は同類の木簡と編綴したことを示す。「邁羅城」は三韓時代の万盧国で、由緒のある在地社会であった。いくつかの説はあるが、扶余近隣の保寧が有力であろう。「邁羅城の畓(水田)」は王京でない地方に設置しておいた耕作地や所有地と推定する。


 これらは2001年度の発掘調査過程で南北水路の北側から出土したものである。近くには建物地が2ヶ所あり、木株を活用した高床家屋と推定されている。水路上では「後ア甲瓦」の印刻瓦をはじめとする瓦、木製男根、わらじなどの多様な遺物が発見された。南北方向の道路のような遺構が確認されており、これは官北里の道路と幅や施設方向が同じことから同一体系のなかで作られたものと考えられる。宮南池造成に際した時期のものである開元通宝の出土もあって、これらの木簡は宮南池が造成される600年以前の泗沘時代のものと推定される。

 1は、4面体の棒型、習書した木簡。刃物で面を平坦に調整し、文を書きやすく工夫している。正確な典拠は未だ見つからないが、「‐也」という文末述語は何か経伝のようなテキストを習書したものと思われる。2は、内容からして「蘇君」が表面であり、そこから「宛」で始まる面へ文章が続くと見られる。全体的な判読は困難だが、「敬白」という文句からすると、書信類の文章であろう。宮南池造成に際して、これにかかわった役人らが生成した木簡と考えられる。

3.双北里 280-5番地

 2008年4月、双北里の農耕地で発見されたもの。現場説明会が開かれ、判読と書体に関する論告が発表され、発掘者側から近いうちに簡略報告がなされる予定である。還穀関連文書である。



 「戊寅年六月中の佐官の貸食記」である。「戊寅年」は558年と618年のいずれも可能だが、ともに発掘された土器の編年を鑑みれば、618年の方がやや有力である。「貸食」は食を貸したという意で受け取られる。よって「佐官の貸食記」と解することができる。「記」は陵寺木簡の「食米記」同様、記録・帳簿の意味で使われた用語と思われる。



 文書の内容は「人名+(a)数量+(b)上数量+(c)未数量」との書式で列記されており、最後は「并何石」「得何石」とまとめられる。佐官で一般百姓を相手に行った貸食記録帳簿である。(a)は官から個人に貸した金額、(b)上は個人から返してもらった金額、(c)未はまだ返してもらえなかった金額、返してもらわなければならない金額、すなわち未収額と判断される。数量は「石」「斗」「半」が見られるが、「三斗半」「七斗半」の用例から、「半」は「半斗」、すなわち一斗の半(1/2)を意味するようである。記載要素が完全に残っている「素麻」の場合、「一石五斗/上一石五斗/未七斗半」である。換算すると、貸した1石5斗に対し、総償還額は2石2斗半、つまり元金に対する利子は5割になるわけである。

 これに基づき、次の復元が可能である。「止夫」の「上四石[ ]」は「上四石五斗」か「上四石未五斗」、「佃目之」の「上□□」は「上一石」、「習利」の「未[ ]×」は「未一石二斗半」となる。書式上特異な末尾の「刀々邑佐」の「与」は、元金・利子を受けず、無償で与えるという意と捉えられる。「今沽」には「一石三斗半/上一石/未一石甲」とあり、換算すれば、元金と利子との合計は2石1/4斗となる。故に「甲」は正確には1/4斗、半(斗)の半になるわけである。

 「甲」は、百済では武寧王陵出土の王の木枕のなかに、記号で「甲」「乙」と書かれた例と、扶余・益山出土印刻瓦に「甲瓦」の例が見られるだけである。基本的に「斗」の下に「升」という単位があるにもかかわらず、「5升」と表記せず「半」と表記しているが、これは貸食から貸与の基本単位が「石」‐「斗」‐「半」だったことに起因しているのではないか。償還時に生じる計算上の「半」より、より小さい数値を簡略化して「甲」と表記したのであろうと思われる。

 一方、「佃首行」を見れば、「上一石」「未一石」は「上石」「未石」のように略記されたりもした。「固淳夢」や「佃麻那」の場合、(a)貸付額みが記載され、(b)償還額と(c)未遂額とが記載されていないのは、全く償還がなされなかったためであろう。これによると、「止夫」の場合、見えない部分は「未五斗」であるという公算が大きい。

 人名の記載順は、貸借の高額順に整理されており、文書整理の際の主眼点の優先順位を窺うことができる。現在得られた数値で総計を出してみると、貸借総額は20石7斗、回収総額は11石5斗、未収総額は15石7斗である。未収額のなかで記載されたものだけを足すと、8石2斗である。文書末尾の数字「得十一石×」は、回収総額11石5斗とは合うが、「并十九石×」は数字が合わない。これは一見、計算錯誤もしくは記載の誤りのようにも見えるが、良く見てみると、「并十九石×」は貸借総額20石7斗(19石+17斗)であり、石単位の合算は一致することに留意すべきである。よって「并」は借貸合計額を、「得」は回収合計額を指す。

 折れた下段部に未収総額があったとも考えられるが、表面の記載状況と、裏面に「并」と「得」の余り数字が書かれていたことを勘案すれば、未収総額が記載される空間は本来なかったように思われる。こうした貸食は、稲のような穀物を貸して返してもらうことで、穀物が保存されている倉庫の存在を前提にする。文書の記載において初めから未償還額は無視されており、貸した金額と回収した金額のチェックだけが重視された。穀物、恐らく稲倉庫運営会計においては、貸した金額(倉庫から出された金額)と、回収した金額(倉庫に戻ってきた金額)が最も重要だったからであろう。

 全体的には、官から個人に還穀してその償還時に作成した記録と見られる。計算数値が整っていない点は、これが臨時文書、いわゆる伝票であった可能性を示唆する。

 具体的に言えば、還穀の施行所は「佐官」と考えられる。「佐官」の実体は分からないが、「佐」に関連して百済第1官等の「佐平」の例があり、本木簡では「刀々邑佐」の例が見える。「刀々」は人名か地名、「邑」は都城内所在の行政単位と推定される。「邑佐」は邑の行政補佐、すなわち長である可能性がある。「佐官」とは、このような「邑佐」「佐平」に関連した官庁であろうか。

 6月に貸したのを秋に回収した時点で作成した記録である。債務を負っている9人のうち、利子まで完済した人が1人もいない点、全く返すことのできなかった人が2人もいる点は印象的である。「佃目之」「佃麻那」「佃首行」の如く、頭に「佃」を冠した人々がいるが、これは姓氏というより、「佃戸」とともに耕作者を表わす職役・職分を表わしていると解しておく。債務者がみな姓氏をもっていない点は、彼らが平民であったことを意味する。

 末尾に「上石」のような縮約形を用いていることは、狭い空間で列を合わせるための工夫だったと見られる。横に列を合わせ、人名別に記載すること、最後に合計を出すことは、当時関連文書の書式が決まっていたことを暗示し、同種の木簡が時期別・官庁別にいくつか存在し、これらが編綴され、かつ類型別に計算されていたことを示唆する。ある種の簿記帳なのである。

 かつて農耕社会には春窮期・播種期に穀物を貸与し、秋収期に元金と利子を回収する制度が存在した。中国では古くから利子の付いた貸借の慣習があり、韓国の場合、朝鮮時代に「還穀」と呼ばれた制度である。そうした制度が、高句麗では「賑貸」と伝わり、百済では「貸食」と呼ばれたことが確認されたのである。

 日本書紀孝徳2年(646年)3月19日条に、「貸稲」という用語が見える。これに対してその信憑性に懐疑的な見解もあるが、日本の出挙制度の前身とされている。「貸食」「貸稲」という用語の類似性から、同時代の両国間の制度や用語の相互交流を考え得る個所である。ひいては日本の出挙を通じて、百済のそれを推察することもできる。日本の律令によると、稲粟の場合は1年が満期であり、年利が私出挙は10割、公出挙は5割であったとされる。これは本木簡に見える「貸食」の利率とも一致する。百済の「貸食」における「食」の実体が稲であったことの傍証となるだろう。

4.双北里 ヒョンネドゥル

 2007年5月、道路建設のため耕作地を調査したところ、計12点が出土した。道路遺構ともいわれたが、不透明な部分があり、最終報告を待つ必要がある。



 67木簡の「牟氏」は陵山里の食米記木簡にも見える百済人名である。「酒丁」は醸造専門職役人ではないかと思われる。----印の縦線はチェック用で、これがある種の文書であることを暗示する。

 91木簡の「首比」は人名や地名、ないしは物名であろうか。「首」「比」は日本書紀百済関係史料に見える用字である。91はサイズが小さいため、小物に対する付札と考えられる。ヒョンネドゥルと280-5番地は隣接していて、広い意味で官衙区域であり、収納倉庫の存在が想定される場所である。「ア」は都城の行政区域であると同時に、22部官舎などの官衙を意味する。故に91は該当部局の鍵の付札である可能性もある。

 96木簡は、木の皮を剥がしたまま加工していない状態の棒形である。同じ面に天地の倒置されている文がある。官衙駐在の官吏の習書と思われ、水準の高い内容と書体をもつ。双北里ヒョンネドゥルおよび280-5番地一帯は、一括して官衙・倉庫所在地と見られ、木簡はその副産物と解釈される。

5.官北里

 1983年に2点が出土・報告され、2002年から2003年にわたった調査で15点が追加発掘された。官北里の蓮池周辺と底で出土。ここはかつて王宮の跡地ないし官衙の跡地として注目されていた場所である。



 表面2行の字が、表面や裏面の他行の字より若干大きい。全体的に細筆。表面は欠如した部分が少なくなく、全容を把握することは難しい。形からして下段に刃物で線を引き、それに沿って折ることで人為的に廃棄した跡が見られる点、そして上段が完全な形で保存されている点から推測すれば、文書類の記録木簡ではないかと思われる。

 裏面には「攻舟嶋城□□攻負□□禾□」が見え、内容のなかには「舟嶋城」(位置未詳)をはじめ、ある地域を攻撃したという内容が含まれていたように見える。上段の縁に偏って穴がある。「城」地域に対する攻撃など、軍事行動に関する記録木簡と推定される。

 284木簡は120.4×4.5×0.9の完全な形である。墨痕は確認されていないものの、上段に「> <」の形の切り込みがあることから、荷札の木簡であろう。かなり厚くて、木質の耐久性が強い。これが付けられていた荷物は重量級だったのではないか。他の場所から官北里へ荷物とともに運ばれてきたか、官北里に保管された荷物の札だったと思われる。



 上段に小さい穴があったものと見られる。そこに紐が付けられていたが、その紐が引っ張られた際に、0.2cmの薄い木が引き摺られた痕跡がある。この木簡自体が文書であった可能性もあると同時に、これと一緒に運ばれてきた紙文書が「詔」であった可能性もある。後者の場合だと、この木簡は紙文書に付いたインデックスの性格をもつ。

 「中方」とは、周書百済伝によると、百済地方に設置されていた「五方」の一つである。「古沙城」はその「中方」の方城であり、現在の全北・井邑高阜面高阜里にあたる。百済は660年7月に唐と新羅との連合勢力により滅ぼされた。滅亡直後、唐は百済地域を五都督府に再編した。「詔」は本来天帝の命令を指すもので、「詔」の主体が唐であるならば、滅亡以後に地域編成が都督府体制に再編される前のものと推定されるし、他方、百済が主体であるならば、百済国王の命令にも「詔」という用語を用いたこととなる。現時点では後者の推測を優先する。

 「兵与詔」は「兵器を分与する詔勅」「兵士を分与する詔勅」と解釈でき、兵士出動や兵器支給のような軍事活動に関する国王の命令と読み取れる。「五方」ないし「中方」に対して軍事出動を命じた「詔」文書と見られる。



  286木簡は、字の下に烙印が押されている。厚さと幅においては宮南池木簡に似ている。印章の模様は、横2.95、縦3.05cm。大きさと外形からすると、中国木簡のいわゆる「曷」に似ている。

 「嵎夷」は日が昇るところで、東の端を指す語である。旧唐書新羅関係記事に、百済滅亡の際、唐が百済を攻撃する大将らに下賜した官職名のなかに、「熊津道大総管」「神丘道行軍大総管」「神丘道総管」とともに「嵎夷道行軍総管」「嵎夷道総管」が見える。「熊津」は百済の旧都として本来の地名であったが、「神丘」や「嵎夷」は本来の百済の地名ではなく、「東夷」を指す一般名称であった。木簡に見える「嵎夷」は、まさに「夷道行軍総管」「嵎夷道総管」に関係していると思われる。つまり、この木簡は百済滅亡直後のものと推定できる。

 官北里は王京内の宮城があった場所であり、百済政事の象徴的な場所と言える。扶余には百済滅亡直後の姿を窺わせる遺物が数多く、劉仁願紀功碑は扶蘇山城の南側で発見され、定林寺五重石塔と国立扶余博物館所蔵の石槽には百済が「大唐」に滅ぼされたという内容が刻まれている。「大唐」と記された瓦も発見されている。

 287木簡の場合は、字が判読できない。ただ墨痕があり、10×5.4×0.8と、形的に286木簡に酷似している。



 288木簡は非常に薄い。「下賎」は「上貴」に反対する概念と思われる。「相」には色々な意があるが、ここでは「姿」が適切であろう。「下賎相」は賤しい姿、賤しい者の姿としておく。「下賎」の「下」字の上部に穴がある。官北里遺跡は泗沘時代の王宮および官庁と見られ、現在にまで池、道路、下水道、築台、建物、工房、竪穴遺構、倉庫などの、様々な遺構が確認されている。王宮造営が完了し泗沘に遷都する6世紀前半が上限となり、下限は池が廃棄された7世紀中葉と見てほぼ間違いないだろう。官北里木簡はすべて百済王京の核心部の行政と密接な関連をもっていたと思われる。内容面では泗沘時代と滅亡直後の統治や軍事活動などに関連している。

 以上の遺構出土木簡2点は、ともに発掘された遺物および出土地層から見て確かに百済木簡であるといえる。流麗な書体と、この地域の歴史的展開からすれば、百済の泗沘時代のものと推定される。発掘された土器が7世紀のものと認められている点を勘案すれば、泗沘時代の後半、すなわち武王代か義慈王代のものと見ることができる。

6.伏岩里

 羅州・多恃面伏岩里875-6番地、伏岩里古墳群周辺の製鉄遺跡の竪穴遺構から、2008年7月に2点の木簡が出土した。炉と円形・不定形の竪穴、屈立柱建物址遺構と製鉄スラグ、鍛造薄片などが確認された。土層と発掘物が百済時代のものであって、木簡は百済木簡に間違いない。



 上段は破損しているが、下段は完全な形である。表面にだけ字が見え、裏面はきれいな状態である。2行が残っているとはいえ、余った空間からして第3行の存在も考えられる。 百済において、年は干支か「某王某年」と表記したため、上段の破損部は△△年と同じく、少なくとも2字があったと推定される。したがって、長さは9.5cm以上、字は20字以上を想定することができる。

 明確な解釈は難しいが、「…年三月中、監数長人…出省者得捉、得□奴(…)」と区切り、「△△年3月に何人かの長人を監督して、…進んで捉えることができて、□奴を得た。(…)」と解釈しておく。「監数長人」は「長人を監督して数え」「監と何人かの長人」「監督する数人の長人」のような解釈も可能であろう。「三月中」の如く、「中」すなわち「‐に」にあたる表記は、百済資料としては双北里の貸食記木簡にも見られる。「省者」は「注視する者は」「注視する場合は」の意であろうか。百済資料でも「中」「者」の用例が確認できたことは注目すべきである。「監(監数)」[監督する]、「省」[注視する]は、関連人員の監督・統制にかかわる。「奴」が固有名詞でなければ、身分と関わる語である。「長人」は単位集団のリーダーを指すだろう。このような「某+人」という用字は、宮南池木簡の「帰人」にその例がある。人員の統制・監督にかかわるメモ、いわば記録木簡として月ごとに作成された伝票である。木簡によってこうした記録が集計され、正式文書作成の土台となったのだろう。

 上段は、意図的に刃物で傷をつけて折って尖らせており、なおかつ縦を軸に半分に折っている。これは文書の再使用を禁じるため、意図的に廃棄したことを物語る。ともに発掘された遺物のなかには「官内用」と刻まれた百済の甕片があって、この周辺が百済の官署であったことが知られる。監督の主体は官であり、文書もやはり作成・廃棄のすべてが官で行われていたと考えられる。強いて推定すれば、「(監督)→長人→(平人→)奴」とのように、いくつかの段階をもつ階層構造と見ることもできる。



 木簡2は、表面にだけ字が見え、裏面には見えない。上段は破損したが、下段は完全な形である。2行の木簡であるようだが、少なくとも48字を確認することができる。

 「兄」の字は陵寺出土の昌王銘石造舎利龕のものと同じ書体であり、宮南池出土木簡と同様に「中口何」の表記が見られる。「丁」は21才から59才の間の成人を指す。「兄定文丁」は宮南池木簡同様の「人名+丁」であろう。また、「酒丁」(ヒョンネドゥル)や「資丁」(陵寺)等の用例が見えるため、「文丁」「云丁」は職役であると考えられる。この場合「文丁」は文翰担当、「云丁」は口頭伝達担当であっただろう。文字の習得と使用面において地域社会の伝達体系、そしてその口頭伝達専門の担当職域者の存在を確認した意義は大きい。

 木簡表面の傷と摩滅により判読されない字が多いとはいえ、「兄」「妹」などの家族関係を表わす用語が見える点、年齢区分を表わす「丁」、あるいは職域を表わす「文丁」などが見える点、用語と用語の間に意味のある間隔を置いていることから見て、少なくとも職役者を中心にした家族単位の名簿的要素を備えている。

 下段には大きな字で異筆された「定」が見られる。これは文書内容に対する勘合・勘定の表示であろう。紙文書が皆無であった百済においては非常に貴重な資料である。

 上記の二つの木簡は人材管理に関連した文書と推定される。両文書の幅はいずれも4.2cm。類似の文書と見える宮南池木簡は4.5cmであり、282官北里の場合もやはり4.2cmである。資料の増加を待つべきではあるが、誤差の範囲内で同一範疇の規格であったと判断したい。つまり、官衙と官文書の存在を通じて、高度な技術と多人数の持続的投入を要する製鉄作業が、国家をあげて重視されたことが分かる。因みに、栄山江支流に位置した伏岩里製鉄遺構は、水路交通を利用し重い鉄を運送しやすい好条件に恵まれていた。百済時代の製鉄産業とその運営、地域支配の様相が分かる格好の資料である。

7.結び

 数的には少ないが、最新資料までを含め百済木簡の様相を探ってきた。時期的には泗沘時代、すなわち538年から660年前後の約100年間という時期にわたっている。年代が特定可能なのは、554~567年間のものとされる陵寺木簡と、618年と比定される双北里木簡、そして、660年滅亡直後のものと見られる286(官北里)である。一見して、295(宮南池)と伏岩里2とは類似性を帯びている。

 たとえ少ない点数とはいえ、王京でのみならず、地方でも木簡の出土を見た。また伝票や帳簿などの文書、呪術的なもの、付札と荷札、習書木簡、消屑と題籤軸に至るまで、すべての種類が網羅されている。最近、双北里280-5では下段が切れてはいるものの、ほぼ完璧な題籤軸まで出土したのである。既に木簡の内容で予断されたことではあるが、木が書写資料として紙とともに機能した事実を改めて確認した点で有意義である。

 幅4.2-4.5cmの2-3行を基準とする文書木簡の規格を想定することもできる。文書として使われた木簡は、細筆を使い、その字が非常に小さい点も目立つ。なお、紙のように薄く加工して使った木簡も見られる。
新羅木簡の特徴といわれてきた「觚」と呼ばれる、棒形木簡の多彩な姿も興味深い。男根に由来する4面体(陵寺295)、帳簿として使った後には再利用された4面体(陵寺食米記)、当初練習用で作成された円形棒形(ヒョンネドゥル96)など多様である。

 一次資料として人名など固有名詞の表記は、さらに貴重である。「麻那」が代表例であるが、これから日本書紀百済関係史料の固有名詞の価値を高く評価する必要がある。「某丁」「某人」「某児」、「賑貸/貸食/貸稲」というような用法で見るように、東アジア木簡の全容のなかでも百済木簡は注目されねばならない。今後資料の増加が期待される次第である。

翻訳:裴寛紋

李鎔賢氏のご発表は、多くの新出資料を含むものでした。それらの中には前月に発掘されたばかりのものもあり、今回いち早くそれらが紹介されたことは、シンポジウムの大きな成果でありました。限られた時間の中で、新出木簡に関する詳細なデータ・釈文を惜しみなく提供してくださった李先生に心より感謝いたします。また、A4サイズで21枚にも及ぶその資料原稿の韓日翻訳を一手に引き受けてくださったのが、東京大学大学院の裴寛紋さんでした。翻訳作業は文字通り寝食を惜しんで行われ、できあがった資料はシンポジウム参加者に賞賛をもって迎え入れられました。今回ホームページ上にシンポジウムの成果として掲載されることで、この資料がより多くの方々の目に触れ、研究の助けとなることを期待するとともに、裴さんの多大なるご尽力にこの場を借りて改めて厚く御礼申し上げます。【事務室】

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