第2章 古代東アジアの西部地域文学の基盤
1.古代東アジアの西部地域の言語と漢字漢文
先史の場合には言葉が人間たちの意思表現の代表的手段だったし、言葉と韻律から成り立った歌がその時代の代表的文学ジャンルとして君臨していた。ところが、古代に入って文字が使われるようになることで、書いた文を通じた言語活動が主な文学的活動として認識されてくるようになった。したがって古代文学の成立基盤は、人間たちの文字使用活動と言える。人間たちはそういう文字使用活動を経てゆく過程で同一集団意識、同一民族意識などを自覚していった。彼らはそういう意識に対する自覚を通じて、現在われわれに意識される社会と歴史を見出だしていったし、またそれを足場にして哲学的空間と時間を見出していったのだ。
東アジアの古代史は各地域のお互いに違う絵文字が漢字という一つの文字形態へと統一されてきた歴史だったし、そういう文字統一を通じた華夏族中心の世界が構築されていく歴史だったとも言える。このような現象は、東アジアの西部地域よりももっと古くから文字を使った古代エジプトでもあった現象だ。例えばBC3400年頃までにすでにエジプトは、上エジプトと下エジプトに両分されていた。そういう状況でメソポタミア地域からシュメール文字の表記方法がエジプト地域に伝えられていった。エジプト人たちはその表記方法を受け入れて聖刻文字(神聖文字、hieroglyph)を作り出した。エジプトはその文字出現をきっかけとして、その間両分されていたその地域が統一されていった。それだけではなかった。メソポタミア地域でもその地域のシュメール人によって作られた絵文字がBC3500年頃を前後して楔形文字という完全な文字形態へと切り替えられ始め、それが使われていく過程で、そこの都市たちが統一されていき、またそこに侵入して来たセム族系のアッカド人たちによって、それが受け入れられることで、その地域の都市国家が力強い帝国へと成長していったのだ(注13)。その後にそういう現象は、各地の政治家たちによって積極的に利用されていった。アレクサンダー大王(356~323、BC)によってバルカン半島のマケドニアからインドのインダス川流域に至る巨大な地域にヘレニズム帝国(334~30、BC)が建設されて、それが3世紀の間持続していくことができたのは、彼の独特の占領政策のためだったと考察される。彼は自分が占領した各地域に30個以上のアレキサンドリアと言う都市を建て、すべての都市の役人たちにギリシャ語を使うようにしたと言う。すなわちヘレニズム帝国の慣用語はギリシャ語だったのだ。アレクサンダー大王より1世紀後に東アジアの西部地域で生まれた秦始皇帝(259~210、BC)が東アジアの西部地域を最初に統一させることができたのも、またその統一政局を維持させていくことができ、そういう秦の国を土台として漢帝国を樹立することができたのも、実は、漢字への文字統一によったものだと言える。
より具体的に言えば、東アジア西部地域での文字統一と世界統一との関係は次のごとくであった。古代東アジアの西部地域で出現した最古の文学作品たちは詩歌集の『詩経』と歴史散文作品『尚書』及び『春秋』などであると知られている。『詩経』の内容成立はBC11世紀~BC6世紀頃で、その編纂が成立したのはBC6~3世紀だとされる。孔子らによって編纂されたと言われる『詩経』は、秦の始皇帝の焚書によって消滅した。現在われわれの前に置かれた『詩経』は漢代(BC 202~AD 220)に入って学者たちの諷誦過程で、たぶん秦の始皇帝の焚書以前の形態に基づいて再編されていたものと知られている。
『尚書』と『春秋』の主な内容が成立したのは殷・周時代だった。東アジア西部地域の国は殷・周時代から王朝の歴史を記録する二人の史官を王室に置いた。王が挙動する時、左史官は王の言葉を記録し、右史官は彼の行動を記録したとされる。『尚書』は前者の系列の書物として殷・周時代の王や政治家たちの言葉を記録したもので、『春秋』は周代、特にBC722年~BC481年の間の魯国で起きた王と政治家たちの歴史的諸事実を記録したものだ。戦国時代(403~221、BC)に来て使われた歴史書では、『尚書』系列の『国語』(注14)、『春秋』系列の『左伝』(注15)などがある。
現在われわれの目の前にある『詩経』を含めた以上のような古典たちの主な内容が成立したのは、遠くは殷代からBC5世紀までの期間だ。しかし、その内容を表現する文字たちと文章たち、またすくなくともその内容の一部分は秦の中国統一の時点(BC 221)から漢代(BC 220滅亡)までの時点の間に成り立ったものだ。始皇帝はその西部地域を完全統一させる直前のBC 220年に周の人々と自分たちが使ってきた文字体、大篆(籒文とも言う)(注16)と、始皇帝が統一させた六国の文字たちを整理して小篆と言う文字体を作り出してそれで文字を統一させた。始皇帝はそれから7年後であるBC213年に思想統一の一方法として焚書を断行した。彼のそうした断行は当時の法家出身の丞相、李斯の建議によるものだったが、李斯は始皇帝の許しを得て、史官が所蔵している諸本と『秦紀』を除き、すべての本を焼却するようにし、また博士官以外に所蔵された全国の諸本を没収して30日以内にすべて焼却するようにした。その翌年は坑儒まで断行された。
焚書坑儒が行われる過程で春秋時代に孔子などによって編纂されたという『詩経』ももちろん消滅した。現在われわれの前に置かれている『詩経』は東漢代(BC 221~AD 8)の詩人たちの記憶をもとにして新たにはかって編纂されたものだ。この場合、焚書坑儒以前の『詩経』は、春秋時代の古文[先秦の文字体とその文字体でわれた文章]として使われたが、東漢代のそれは今文、すなわち漢代当時の文字と文章として使われたものだった。
この場合、漢代の今文というのは、隷書という文字体(注17)と漢文から成る文章を言う。まず文字体について論じてみよう。先に言及したように、始皇帝は、全国を統一させた後、文字統一政策を取った。その過程で形成された文字体が小篆だった。しかし、秦代末期に小篆よりももっと手短かな文字体が下級官僚出身階より提示され、始皇帝はそれを受け入れて、もう一度文字統一の政策を取っていったが、彼の二番目の文字統一政策の過程で採択されたのが外でもないまさに隷書だったのだ。隷書は、六朝の時に確立された楷書の基礎を成す文字体として現在われわれは隷書以後の文体を近代体と呼び、隷書以前のものを古文字体と呼んでいる。
ところで問題は、様々な古文字体だ。古文字体の最終段階の文字体は、始皇帝の六国統一をきっかけとして出現した小篆である。しかし、一時人々は小篆や隷書を今文と呼ぶ一方、小篆以前のものなど、例えば大篆のような文字体を古文字体だと呼んだことがあった。秦も、周の東遷がある以前の首都鎬京を占めるようになったせいで周とともに大篆を使っていた。しかし、彼ら以外の残りの魏、韓、趙、燕、斉、楚の六国と魯などのような国々の文字体は国によってよほど違っていたと把握される。具体的な一例として、漢代初めの景帝の時に魯国に任官された恭王・劉余が孔子の宗家の壁を崩している途中、尚書・礼記・論語・孝経など数十編の古文書を見つけた。それらは当時どこにおいても使われていない不思議な文字体で書かれているものだった(注18)。それで当時の人々は、その文字体を古文字体、または古文と呼んだ。その場合の古文字体は現在の蝌蚪文字と呼ばれる文字だった(注19)。この場合この古文体については三つの次元が考えられる。一つは文字そのものの模様についてのことであり、もう一つはそれが表音文字か表意文字かについてのことであり、残りはそれがどの言語を表現したのかについてのことである。古文字体と近代文字体の一番著しい差異は、前者の場合における文字たちの意味が文字自体が持った図像性に基礎していた反面、後者の場合はそれ自体たちが持った図像性から脱してそれらの記号性に基礎していると言う。つまり、前者は象形文字に近いものであり、後者は記号にちかいものだというのである。ところでこれら一つと二つの次元のことについては次のような話が言える。
意味伝達の基礎を成す古文字体の図像性はいかにして形成されてきたものなのか。漢字の古文字体が持っていた図像性は、古文字体が六書、すなわち、象形・象事・象意・象声・転注・仮借に基づいて形成される過程で取られたものと言える。ところが、この六書と称する漢字の形成原理は、西アジア古代メソポタミア地域でシュメール人が作り出した楔形文字(cuneiform)の形成原理の影響下で成立されたという立場がボール(Ball)によってかつて提起されている(注20)。彼のそういう立場は、文字一元論(Monogenesis)を主張してきたゲルブ(Gelb)によって継承され(注21)、またそれはパウエルによってメソポタミアと東アジア西部の両地域間の地理的接近性が考慮され受け入れられている(注22)。このようなことを考慮してみた場合、古文字は古代エジプト人の象形文字とかメソポタミアシュメール人の楔形文字などがそうであったように、表音文字と表意文字とが混合されたものであったのではないかとも思われる。
次に、古文字体で使われた言語について論じてみよう。漢代初め、劉余によって孔子の宗家の壁の中から見つけ出された、古文字体で使われた尚書・礼記・論語などはどの民族の言葉で書かれたものだったのか。
現在われわれはそれらがどの民族の言葉で書かれたものなのか決して知りえるあてがない。その理由は現在それらが消えてしまったからだ。現在われわれの目前のそれらは当時孔子の宗家の壁の中から出たものなどが当時の漢族の言葉に翻訳されて隷書の文字で記録されたものだと言える。
孔子が五経をすべて編纂したという話は誤りだったので、五経の中で『詩経』くらいが彼によるものではなかったろうかと思われる。仮にそうだとしても、われわれの前の『詩経』は彼によって編纂されたそのままの形態では決してない。前に言及したように、孔子によって編纂されたと言う『詩経』は始皇帝の焚書によって消滅したし、現在われわれの前に置かれた『詩経』は、漢代(BC 202~AD 220)に入って学者たちが孔子によって編纂された始皇帝の焚書以前の形態を憶い出して彼らの記憶に寄り掛かって300余首の詩を再編纂したものだと言われている。
この場合も同じだ。われわれは孔子が古文字体でそれらを整理したであろうとは言えるが、彼がそれらをどの民族の言葉で記録しておいたかは決して分かるあてがない。まず孔子の父親は周王室と異姓系列の諸侯国だった宋国の出身だった。ところが彼はそこで周王室と同姓系列の諸侯国だった魯国へと引っ越した者であったし、また魯国はたとえ周王室と同姓系列の諸侯国ではあったとはいえ、宋の国とともに東夷族の根拠地だった黄河下流地域の国だった。しかのみならず、また彼は東夷族を背景にして出現したという商王家の子孫(『孟子』)と記述されている。次に、孔子(551~479、BC)時代の魯国という諸侯国としては独立された形態を取ってゆきはしたが、斉の桓公に引き続き覇業を成した晋の文公(在位636~629、BC)以後ずっと北進政策を推進した楚国によってBC597年頃から中原地域の魯・宋などとともに服属させられていた。魯国は孔子が生まれる半世紀前から楚国に服属させられていたのだ。ところで当時、楚国が使用していた古文字体は、周王室でも秦国で使った大篆とは相当違っていたはずだという立場たちが提示されているし、また楚国の民族も中原地域の国々の民族たちと違う民族たちだったから、楚国の人々の言葉と中原地域の魯国の人々の言葉が違っていたと言うのだ。
黄河下流の東夷族は、北方のアルタイ語の語順と等しいSOV型の言語を取っているし、南蛮族の楚国の民族も西方のチベット語の語順と等しいSOV型の言語を取っていた。東アジアの西部地域から使われてきた言語は、基本的にSVO型の統辞構造を取る華夏族の言語と、SOV型の統辞構造を取る夷族の言語に両分されていた。よって私がここで強調して言いたいのは、当時孔子によって整理された『詩経』などのような文献たちが後者の夷族たちの言語で整理された可能性があったはずだという点だ。
フランス生まれのイギリス東洋学者ド・ラクペリ(Albert Terrien de Lacouperie 1845~1894)のような学者らによれば、西アジアから中央アジアを通じて黄河上流地域に移動して入って行き、さらにまたそこから黄河中流地域へとこぞって移動して出て行った部族集団があったが、その部族集団が黄帝族だったというので、華夏族はまさにその集団を中核にして形成された民族だと言うのだ(注23)。西部地域の歴史研究者たちは華夏族が中央アジア地域と接する東アジアの西部地域の西端に位している黄河上流地域を中心にして形成されて出た羌戎族を含めて、黄河中流地域の多くの部族たちを引き入れて形成されてきた民族集団として把握している。そのように黄河の上中流地域を地域的基盤として力強い民族集団へと形成されていった華夏族は、黄河の中流地域で成立して出てきた商・周・秦などのような政治的集団たちを吸収し、漢代に来ては全西部地域を代表する民族集団へと切り替わっていったのだ。
一方、黄帝族が黄河上中流地域に入る以前に、東アジア西部地域の西端のチベット高原(青蔵高原)と黄河上流には、BC3000年頃から西戎族の先祖に当たる羌人が暮していた。また黄河中流地域には、その地域の北方出身のアルタイ族などが暮していた。しかし、これらの夷族たちは黄帝族ないし華夏族が黄河の上中流地域に到着すると、その地域を出発して、長江上中流地域に移動し、そこの原住民たちと混合し、長江文明を興していくことになり、その文明を背景にして楚などのような国々が成立して現れたのだ。現在、南方の長江流域や雲南地域には漢族の言語を使わずに自分たちの言語を使っている彛族・白族・納西族などのような少数民族たちが存在している。彼らがまさしく、北方から南下して長江流域地域で定着して暮すようになった西戎族と東夷族のような夷族たちの後裔たちであるのだ。ところが、彼らは現在もSOV型の統辞構造を取る自分たちの固有の言葉を使用していっており、また彛族の場合は、AD 10世紀頃に以前の象形文字を母体にして爨文を創製して使って来たし、納西族は現在までも象形文字の一種である東巴文というものを使って自分たちの意思を表現してきている。
このようないくつかの点を考慮してみたとき、われわれはすぐ、現在われわれの前にある『詩経』を構成している詩の目次のようなものなどの考察を通じて次のような立場を建ててみることができる。先だってわれわれは焚書以前にあったこと、すなわち孔子によって編纂されたという『詩経』に対する当時の学者たちの記憶に根拠して始皇帝の焚書以後の漢代初めに現在われわれの前に置かれた『詩経』が成り立ったのだという立場を提示した。ところが、われわれは彼らの記憶を頼りに再編纂された『詩経』の目次を考察してみると、次のような疑問が提起されうるのだ。『詩経』の書き起こしに出てくる詩たちが周南と召南の国風の詩たちということだ。すなわち、それらが中原にある孔子の国である魯国や、あるいは魯の宗主国である周国の歌ではなくて南方の陽子江の流域にある苗族の楚国の歌たちだという点だ(注24)。ならば、『詩経』の書き起こしに楚国の詩たちの出てくる理由は何だろうか、という疑問が提起されるのだ。楚国の諸民族は西戎と東夷の後裔たちと言える苗族ないし南蛮族で、現在の彛族・白族・納西族などのような少数民族たちの先祖たちだったと言える。彼らは中原地域の華夏族の文字や言葉とは違う言語を使っていた民族だった。このようないくつかの点を考慮してみる時、『詩経』の書き起こしに出てくる楚国の詩たちというのは、元々は、楚国の言語で朗詠され、書かれたことが孔子自身やあるいは誰かによって魯国かあるいは周国の文字と言葉に翻訳されて整理され編纂されたし、またそれらが漢代初めにまた漢代の今文と漢文に翻訳されて出たものだという立場が取られうる。屈原の『楚辞』も初めには楚国の民族の言語で記述されてから、漢代に来て今文と漢文に記述されて作られたものなのだ。
このようにみたとき、現在われわれが接している中国の古典たちが始皇帝の焚書以後の漢代初めに来て漢字とSVO型の統辞構造を取る漢文へと翻訳されて生み出されたものだということなのであって、それらの原型たちは主にアルタイ語系の言語などを含めたSOV型の構文を取る言語たちによって記述されていたものなどだったと言うのだ(注25)。
だとすれば、東アジアの西部地域でのSVO型の統辞構造を取る中国語はどのようにして形成されてきたことか。現在中国人たちはSVO型の中国語を駆使する中国民族の先祖を華夏族のとして知られている黄帝だと見ている。ところが、前でも言及したように、ド・ラクペリなどのような学者はメソポタミア地域で住んでいたバーク族(the Bak tribles)の首領であった黄帝がBC2300年頃にメソポタミア地域から中央アジアを経て東アジアの西部地域に至り、古代中国文明の基礎を立てたものだと把握している(注26)。彼はその根拠として、まずバーク族がメソポタミア地域で学んだシュメール、アッカド人たちから学んだ楔形文字の六書が古代中国語の漢字のそれと等しいということを提示した。またもう一つの根拠として彼が提示するのは、BC2000年代後半期にメソポタミアのバビロニア地域で使われていた多くの文物たち、例えば1年を12か月と四つの季節に分けるとか、7日を一つの時間単位にするということなどのものだ。陰陽の二元論、音楽の12律呂、行星たちの名前、様々な色の象徴などのようなものが古代東アジアのものなどと等しいというのだ。また、われわれは彼の提示する論拠たちが黄帝がバーク族の首領だったという彼の主張に対する確かな論拠でありえないという立場が取られはするが、それでもその時代古代の青銅器文化が西アジアから東アジアへと伝播していったという事実を考慮してみた場合彼のそういう主張を完全に無視してしまうことができないという立場もありうるであろう。またわれわれは、北部のアッカド人と南部のシュメール人とが10世紀間争ってきたがBC 2350頃サラゴン王によってメソポタミア地域が統一されることになったという歴史的な事実を思い出してみる必要がある。その地域が統一される過程でその地域で住んでいた一部族が中央アジア地域へと移った可能性があるといえるのだ。
2.東アジアの古代西部地域での自然の発見と神の出現
先史時代の人たちの最大の関心は、自分たちの生存を脅威している存在たちに対するものだ。彼らの生存を脅威しているものというのは、まず一次的には猛獣と他の人間集団たちだった。その次には、洪水や日照りなどのような自然災害だった。先史時代の人たちが長い移動生活を終わらせて1か所に定着して農耕と牧畜生活をしていった新石器時代までみても彼らへの猛獣たちの攻撃と自然災害を防いでいった方法というのは、自然の中に散らばっている石をきれいに磨いてそれを武器や道具として使うことだった。その場合、新石器人は自分たちを攻めてくる獅子、虎、熊、コブラ、イーグル、象などのような猛獣たちを石を武器にしては決して受け止めることができなかった。それで新石器人にとって、そういう猛獣たちはまさに神と同じ存在たちだった。青銅器時代以前にトーテミズムが出現したことは正しくそのような理由からだった。そうするうちに青銅器時代に入って人類が青銅で武器を作り、猛獣たちの攻撃を防げるようになると、古代人たちにとっての猛獣たちはそれ以上彼らの生死の運命を牛耳る神のような存在たちとしては認識されなくなったのだ。すでに青銅や鉄製武器を持つようになった彼らにとっての神的な存在というのは、空や山、あるいは海などのような巨大な自然物の中に隠れて洪水や日照りなどのような災難を起こす存在に限定されるようになった。言い替えれば、金属武器を持つようになった人間たちが敬畏していくようになった対象たちは、人間と人間のものなどを無にしてしまったり、あるいは人間たちに、ある希望をもたらしてくれたりする、超越的存在たちが内在していると考えられる自然物たちだったということだ。
それで人類は、青銅器時代に入って、神的存在が内在していると考えられる自然そのものを自分たちの生死を支配してゆく神的存在として認識するようになった。こうして人間が自然を神的存在として認識してゆくようになると、人間たちには自然を構成する自然物一つ一つがすべて神的存在たちとして認識されてくるようになり、結局、「木の神」、「水の神」、「天の神」などのような神々が誕生するようになった。このように自然から多くの自然物たちの神々が誕生すると、その次には人間の心からも心を構成する観念上の神々、例えば愛の神、嫉妬の神、などのような神々まで誕生するようになったのだ。
東アジア西部地域で青銅器が使われ始めたのは、前に考察されたように、夏王朝(2205~1766、BC)の成立時点だと把握されている。当時、金属武器を持つようになった夏国の人々にとって神的存在の対象として認識されてきた最も代表的な自然物は外でもない、まさしく空、すなわち天という存在だった。このような事実は始皇帝の焚書坑儒から自由だった『易経』[夏王朝時代の『連山』、商王朝時代の『帰蔵』、われわれが現在まで持っている『周易』](注27)、最も古い経典として知られる『書経』(注28)などを通じて把握することができる。
現在われわれが持っている『易経』である『周易』は、夏王朝代に形成された『連山』、それが基礎になって商王朝代に成り立った『帰蔵』などに基づいて周王朝代に成り立ったものだ。ところが、『易経』は青銅器が使われる以前、より具体的に言わば、夏王朝以前の三皇五帝時代の三皇中の一人である伏羲氏(注29)によって成り立ったと言われている。『易経』は、陰陽の原理で天地万物の変化する現象を説明し解釈した儒教経典である。それは陰陽の原理で天地万物の変化する現象を把握し、その原理をもって人間たちに迫り来る吉凶を占うのに使われる本だと言える。こうしてみたとき、『易経』は絶えず変わっていく自然現象に対する古代人たちの諸体験から得られた情報を資料にして形成されてきた本であることが分かる。『易経』によって古代人たちはまず自然体験の結果を陰と陽に両分させて把握し、また彼らは漢字の一文字のようにすっと引いた線(-)で陽を表示し、中が切れた線(--)で陰を表示し、その線を爻した。そこで彼らは自然の変化法則を説明するにおいてまず陰爻と陽爻を3個ずつ組み合わせてそれらを三爻卦、あるいは卦と呼び、8種類から成る三爻卦をもって自然を構成する諸要素に対応させ、それらを基本にして自然の変化原理を説明しようと考えた。そして古代人たちは、8種類の三爻卦、すなわち八卦の一番目をまず空(乾)に対応させた。その次に、彼らは残りのものを、地(坤)、淵(兌)、火(離)、雷(震)、風(巽)、水(坎)、山(艮)に対応させた。こうしてみたとき、古代人たちにとっての『易経』は、八卦の自然物たちが人間たちに吉凶をもたらす神的存在たちだと認識してきた古代人たちの考え方を土台にして成立されたものだと言える。
青銅器文化が一般化されてきた商王朝(1766~1122、BC)に至っては、人間が金属武器を持ってからも決して対敵していくことができない対象たち、例えば空、山、海などのような巨大な自然物たちが神々として認識されてきたし、その中でも空(天)が最高の神として崇拝されるようになった。そういう諸事実は、BC 20~8世紀に虞・夏・商・周の王室の史官たちによって記録されたという『書経』によく表れている。『書経』の「商書」編の「高宗肜日」に、「空は上から民を見下ろし、彼らの正義のあることを試す。それは彼らに長くて短い生を付与する。」(注30)という文章がある。これもそういう事実をよく表してくれている。
BC 10~7世紀の間に成立された歌たちの歌詞から成り立っている『詩経』は、すべての自然物たちを神的存在たちの一種である霊物たちとして表現している。『詩経』の詩はほとんど全部がその最初の行や最初の連で自然物や自然現象を叙述し、その二番目の行や二番目の連で人間や人間の行為を叙述していて、例えば、第1編国風に収録された「つばめ」(燕燕)の最初の連は、「つばめたちは先に進んだり後に従ったりして飛ぶ。妹さんがお嫁に行くのを、遠くの野から彼女を送る。眺めても見えなくなると涙を雨降るように流す。」(注31)となっていて、このような叙述形態の連が4回繰り返される。同じく国風に収録された「日と月」の最初の連は、「日と月は下の地を照らしている。しかし、わたしの恋人は以前のように私を慈しんでくれない。どのようにすると心を捕らえることができるだろうか。私に目もくれない。」(注32)となっていて、このような叙述形態の連がやはり4回繰り返される。前の二つの詩たちの場合のように、『詩経』の大多数の詩たちは詩たちの冒頭が自然物たちの叙述から成り立っている。ここで私が言いたいことは、詩の冒頭に叙述されたまさにこの自然物たちが作品世界での神的存在の役目をしてゆくということだ。石川忠久もその著書『詩経』(新釈漢文大系15、明治書院、2002)の「『詩経』の概略と解説」において、「国風の‘風’は降神、招神するという意味で、国風の多くの詩たちは基本的には多くの降神儀礼に使われた楽歌だった」と言っている。また、『詩経』の詩は風・雅・頌に基づいた分類以外に、修辞学的分類として賦・比・興などによっても分類される。ところで石川忠久は、神聖な宗教的儀礼が形骸化されて、『詩経』の詩たちの中に定着したのが「興」だという立場を提示している。したがって、『詩経』における「興」は、詩の持つ「呪的意義」を示すことで、それは作品世界を構成した自然物たちによって触発されて出てくる感情の一種だと言える。
漢代(BC 206~AD 221)に入って東アジア西部地域での漢詩は、『詩経』のそういう詩たちとその流れに乗った漢代の楽府詩を基礎にして確立されてきた。一方、東アジアの西部地域は、1世紀に入って、インドから東アジアの西域を通じて仏教を受け入れ、それを西部の全地域で伝播させていった。その結果、4世紀末までには東アジア西北地域の住民たちの10分の9が仏教信者になった(注33)。東晋の法顕(337~422)のような僧侶は、399年に中央アジアを経てインドに行き、414年に海路を通じて南京に到着して、インドから持って来た仏経を翻訳することになる。
このように中央アジアを通じて西部地域に入って来た仏教は、西漢時代に一般化されてきた儒教思想に押さえ付けられていた無為自然思想などのような道教思想を触発させて、それを媒介にして伝わっていった。そういう状況の中で、魏(220~422)と西晋(265~317)の政権交代期には竹林七賢を含めた清談派知識人たちが出現した。仏教思想の本質は、自分の欲望を捨てれば自我が世界になり世界がすなわち自我になると言うものだ。当時の西部地域の人たちは仏教との接触をきっかけとして自然の世界を内面化させることができるようになった。その結果、田園詩人として知られている陶淵明(365~427)、謝霊運(385~433)などのような人々は、自分たちの社会的欲望を捨てて自然の中に入り、その世界を自分たちの一部として受け入れ、自分たちの生を実現させていった。自然に対する彼らのそういう立場がその後、唐代(618~907)にまでつながったし、その頃それが東部地域へと伝わり、東部地域の古典の土台を成すようになった。
3.古代東アジア人たちの王国の樹立と神話創造
文字と青銅器は血縁で結ばれた部族たちを統合させ、またその連合体を一つの王国で転換させていった。そういう過程を通して出現した王国は、王という名の強者によって統治されていった。この場合、その王国は、以前の多くの部族長たちが所有していた地たちとその土地の人力を基盤として建設された国だった。したがって、その王国の最高治者である王が持続的にその国を治めていこうとすれば、まず何よりも自分が他の族長たちや土着豪族たちを支配していくに値するという政治的論理を立てなければならなかった。その論理がまさに自分の統治権を神聖化させるものだった。王が自分の統治権を神聖化させようとすれば、まず何よりも自分の家系を起こした存在を神格化させることだ。私がここで言いたいのは、王が自分の先祖を神格化させていく過程で開国神話が誕生するようになったということだ。
東アジアの西部地域に樹立された最初の王国は、夏王国(2205~1766、BC)だと考えられている。前述したように、夏王国の樹立時点は、東アジアの西部地域で青銅器が使われ始めた時期だったと考察されている。黄河中流の夏王国は、440年間続いた後、黄河下流の山東半島の東夷族を支持基盤にして出現した商族に滅亡させられた。また、夏王国を基盤として建設された商王国(1766~1122、BC)は、644年間続く間、黄河上流から黄河中流地域に下ってゆき、そこで勢力を育てた周族によって滅亡された。周王国(1122~256、BC)も866年間持続した。その王朝は黄河の上流地域からその中流に移動し、そこで勢力を育てた秦によって亡ぼされる。秦王国はBC221年に東アジアの西部地域を統一し、15年間続いてから、結局BC206年に漢族(BC 206~AD 222)によって滅亡させられる。
以上のように、古代東アジアの西部地域では、20世紀の間にかけて五つの王国が既存の王国を崩して新しい王国を建設していった。この場合、各王国は既存の王国を崩して新しい王国を開き、それを何百年かの間維持させていき、さらにそれを繁栄させていく過程で、自分たちの王朝を起こした王を神格化させていった。各王国はそれだけだけではなく、自分たちの先祖たちと言って夏王朝以前の部族長たちまでをも神格化させていったのだ。その過程で形成されてきたのが外でもない、まさに三皇五帝伝説だった。
三皇五帝伝説はその断片たちが『書経』、『易経』などに表れており、秦国末期の呂不韋(BC235年死亡)によって編纂された『呂氏春秋』にも表れている。しかし、それが現在の形態を取るようになったのは、司馬遷(BC 145頃~BC 86頃)の『史記』の「三皇本紀」と「五帝本紀」などを通じてからだった。ところで、私がここで言いたいのは、東アジアの西部地域ではどうしてBC250~BC100頃の間に西部地域民の開国神話が確立されてきたのか、という問題についてだ。それは次のように説明されうる。前にも言及したように、アレクサンダー大王(356~323、BC)がバルカン半島のマケドニアからインドのインダス川流域に至る地域にヘレニズム帝国(334~30、BC)を建設した。それでそれが3世紀の間持続していったが、その過程で東アジアの西部地域の諸民族はアレクサンダー大王がインドを征服した後、東アジアの西部地域まで攻め込んで行くという話が出たので、西の方から東進して来る異民族たちの諸勢力から民族的脅威を感じざるを得なかった。その結果、彼らは自分たちを脅かす諸勢力の場合のように、東アジア西部地域内の民族的統一を通じて東アジアの西部地域を脅かして来る勢力に対抗してゆくという立場を取っていった。彼らがそういう立場を堅持していった結果、アレクサンダー大王から1世紀後に東アジアの西部地域で生まれた秦の始皇帝(259~210、BC)に至って東アジアの西部地域が最初に統一された。その次に、漢帝国に至ると、そういう統一政局が一層強化されてきた。そういう歴史的状況の中で出現したのが、まさしく三皇五帝神話伝説だったのだ。
より具体的に言うと、東アジアの西部地域の諸民族が西域の異民族の諸勢力の東進の可能性を意識し始めたのは、戦国時代(403~221、BC)以後だったと把握される。彼らがそういう可能性を意識するようになったのは、西アジアでのペルシア帝国(550~330、BC)の出現とその中央アジアとインダス川流域までの進出があってのことだった。特にペルシア帝国のダリウス大帝(521~486、BC)はペルシア戦争(第1次 BC 499、第2次 BC 490、第3次 BC 480)を通じてボスポロス海峡の向こう側のヨーロッパで、インダス川流域及び中央アジアのタリム盆地に至る大帝国を建設した。彼はその過程でボスポロス海峡の西側のギリシア人たちとの民族的衝突を惹起させた。
古代ギリシア人たちはペルシア戦争が発生する2世紀半前であるBC776年から4年ごとにペロポネソス半島のオリンピアのゼウス神殿に集まって、彼らが建設したポリスの国々を単位にして体育の祭典を開催していった。このように彼らは自分たちの主神として奉じたゼウス神をほめたたえる、そうした行事を通じて同族意識を啓発していった。彼らは自分たち自身をヘレネス(Hellenes)と呼び、自分たちと違う異民族をバルバロイ(Barbaroi)と呼んだ。古代ギリシア人たちにとってのヘレネスというのは、ヘラス(Hellas)すなわちギリシアの言語と文化を使用している文化人を意味し、バルバロイというのは、自分たちの言語と文化を使わない野蛮人を意味した。古代ギリシア人たちのそういう同族意識は結局、ペルシア戦争を西方の文化民族と東方の野蛮民族との対決へと追い込んだ。
一方、ペルシア帝国のダリウス大帝はペルシア戦争などを通じて自分が拡張させた帝国を治めてゆく上において帝国の首都スサ(Susa)(後にペルセポリスを建設してそこへ首都を遷す)から小アジアのサドリス(Sadris)に至る「王の道」(Royal Road)を建設し、交通施設と行政組職を整備させた(注34)。彼は、東はインドのインダス川流域、その上流のガンダーラ地域、中央アジアのカラコル山脈、パミール高原、天山山脈地域までを占領し、西の方では小アジア地域西方の向う側のトラキア地域までをも占領したのである。
それから1世紀半後に出現したアレクサンダー大王も、自分が建設したヘレニズム帝国の世界を支配してゆくことにおいて、先に考察したように、以前のペルシアのダリウス大帝の統治方法をそのまま受け入れた。特にアレクサンダー大王は、ダリウス大帝がペルセ・ポリスを建設し、そこを首都に定めたように、自分が占領したエジプトにアレキサンドリアという都市を建設し、そこをヘレニズム帝国の首都に定めて、そこでギリシア文化を研究するようにした。アレクサンダーの東方征伐の一次的な目的は、彼が高く評価したギリシア人たちの文化を広く拡散させるためだった。彼のそういう目的の実現方法は、彼が征服した各地域に自分の名を付けた都市たちを建て、その諸地域を拠点にしてギリシア文化とギリシャ語を伝播させていくことだった(注35)。特に彼の後継者たちの中の一人であるプトレマイオス一世(Ptolemaeos、在位 305~282、BC)はエジプトにプトレマイオス王国を建設して、エジプトのアレキサンドリアに「ムセイオン」(Mouseion、王室部属研究所)(注36)と公共図書館を開いて、アテネから幾多の学者たちをそこに招聘して、ギリシア文化と学問を研究させ、またヘレニズム世界の統治方案とその思想的基盤を研究させていった。国家的次元での学問の大切さが認識され、学問育成政策が取られるようになったことは、まさにこのヘレニズム帝国時代(305~30、BC)からだったと言える。私がここで言いたいことは、戦国時代末、東アジアの西部地域でもアレキサンドリアで行われた事がそのまま起こったということだ。アレクサンダー大王のそういう帝国建設と彼の後継者たちのそういう帝国経営政策が東アジアの西部地域に知られたことは、アレクサンダーの後継者の一人がシリアを中心にした西アジア一帯と中央アジア地域を基盤として建設したセレウコス帝国(Seleukos Empire、323~60、BC)とそれから独立して現われ出たイラン地域中心のパルティア帝国(Parthian Empire、BC 247~AD 226)を通じてからだった。
古代東アジア西部地域での学問は、西域のヘレニズム帝国で行われたそういう学風が東アジアの西部地域へと伝えられることによって一層活発になった。たとえば、斉の威~襄王代(357~265、BC)に、斉国の首都、臨淄(現在の山東省臨淄市)に設立された当時の国立大学の性格を帯びた稷下学宮の場合がその一例であると言える。当時の斉国は、エジプトのアレキサンドリアでプトレマイオス一世がそうだったように、その教育機関に満天下から優秀な学者たちを呼び寄せて学問を育成していったのだった。稷下学宮は国立大学の性格を帯びた大学ではあったが、私家たちが主管していた機関だった。当時、東アジア中部地域の諸子百家の大部分は、孟子(372~289、BC)の場合のように、まさにその機関を通じて出現したし、古代東アジア中部地域の学問は、彼らを通じて確立されて現れ出たと言える。また戦国時代(403~221、BC)の末期には魏の信陵君をはじめとした四君子と呼ばれる名声高い者たちがいた。彼らは天下の有能な人士を招致し、それぞれ数百から数千に達する多くの賓客らを従えていた。秦の宰相である呂不韋も力強い国力を背景として、多くのお金を使って天下の有能な人材たちを秦国へと引き入れた。その結果、賓客が3千にのぼるようになった。すると、呂不韋は、彼らの中で学問と才能がすぐれた者等を選り分け、彼らにとってその間聞いてみたものなどの中で重要だと考えられるものなどを記録してみることにした。彼は始皇帝即位初年のBC240年にそれらを集めて、『呂氏春秋』という本を編纂して出版した。それは百科全書のようなもので、それが編纂されてから20年後であるBC221年に始皇帝は天下を統一することになった。
彼は統一された天下を支配するための方法として、ペルシアのダリウス大帝とアレクサンダー大王が行ったように、まず首都の咸陽を基点にした馳道の建設を行った。始皇帝は首都から東と南へと伸びたこの道路を利用して全国巡回を行った。それで司馬遷は『史記』にこの道のことを、「天子之道」と表現している。それだけでなく彼は、彼らの場合のように、首都咸陽近くに巨大な宮殿である阿房宮を作り、王朝の威力を誇示した。彼は天下統一後8年目に至り、焚書坑儒を断行した。学問に対する彼のそういう立場は、10年を過ぎることができずに秦の滅亡に帰結され、そうして滅亡した秦国を基礎にして劉邦は漢(BC 206~AD 220)を樹立した。
漢国は、漢武帝(在位141~97、BC)に至り、董仲舒の建議を容れて、孔子が打ち建てた儒学を国学として受け入れ、漢帝国の政治的・社会的な基礎を確立させていった。そうして漢は、儒教の天帝思想を基礎として中華思想を発展させ、それに基づいて西部地域中心の東アジア世界を構築したのだ。ところで私がここで言いたいことは正しく次のことだ。三皇五帝神話伝説が西欧でのペルシア帝国とヘレニズム帝国の中央アジアの占領によって西勢東漸の可能性が予測されて民族的危機意識が形成されてきた雰囲気の中で書かれた諸本を通じて確立されてきたということだ。
以上のように、東アジアでの三皇五帝のような開国神話が西勢の東進というそういう国際的雰囲気の中でその西部地域諸民族の民族的危機意識の克服方案の一つとして確立されてきたとしたら、東アジアの西部地域での天地開闢神話は前漢代(BC 206~AD 8)の劉安(179頃~122頃、BC)が編纂した『淮南子』、三国時代(222~280)の呉国の徐整が編纂したという『三五歴記』などを通じて確立されてきた(注37)。ところが、前漢代の東アジアの中部地域はパルティア帝国(BC 247~AD 226)と接していた時期だった。パルティア帝国は中央アジアのイラン地域を政治的基盤としてアレキサンドリアの後継者の一人によってシリア地域に建設されたセルレウコス王朝から独立して現れ勢いを増してきていた国だった。当時、漢にはその王国が安息という名前で知られていたが、その王国の浮上とともに漢国からローマに至るシルクロードによる東西文化の交流が活発化するようになった。
このような状況で西アジア地域でペルシア帝国時代に確立されて現れ出たイラン民族の唯一神宗教拝火教(Zoroastrianism)とかユダヤ教(Judaism)などのような唯一神思想がシルクロードを通じて東アジアの西部地域に流入された(注38)。三国時代は紀元1世紀前後頃から西域からシルクロードを通じて東アジアの中部地域に伝来された仏教が一般化されていった時期だ。それと同時に外来宗教だった仏教が一般化されていった時期は、その間儒教に埋もれていた道家思想が覚醒させられていった時期だったし、また西域からシルクロードを通じてペルシアの拝火教、西アジアのユダヤ教などのような宗教が流入され、結局、唯一神思想に即した世界観が形成されてくるようになった時期でもあった。道家思想というのは、中央アジアの高原地域で出現したイラン民族や西アジアの砂漠地域で出現したセム族が形成させた光明と暗黒という二元論的世界観との接触を通じて確立されてきたと考察される陰陽思想を核心にして形成されてきた思想だ。東アジア西部地域での天地開闢神話は正しくそういう道家思想がシルクロードを通じて東アジア西部地域に流入された西域のそういう諸宗教との接触を通じて確立されてきたのだ(注39)。
道教思想に関する最古の文献と知られているものは、『道徳経』だ。ところで、それは「黄帝と老子の言葉」と称されている文献だ。また、乾隆帝(1711~1799)の四庫全書総目録に道家の一番目の著書リストに『道徳経』よりももっと先に『陰符経』(目に見えない調和を扱った本として8世紀に再発見されたことになっている)が扱われているのに、それも黄帝の著作として知られている。が、古代東アジアの西部文化がハビロンで由来したというド・ラクペリ(De Lacouperie)は、BC2282年頃に黄帝がそれを西アジアから持って行ったと言っている(注40)。
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