セミナー・東アジア古典学のために 第11回
東アジア古代文学の基盤に関する考察
金采洙[高麗大学]
2010/11/12
 

序論
 1.研究の目的と必要性
 2.研究方法
第1章 研究対象としての「東アジア地域の古代文学」
 1.「東アジア地域」「古代」「文学」の基本的概念
  1)「東アジア地域」の概念
  2)「古代」の概念
  3)「文学」の概念
 2.東アジア地域の古代
 3.古代東アジアの文学
第2章 古代東アジアの西部地域文学の基盤
 1.古代東アジアの西部地域の言語と漢字漢文
 2.東アジアの古代西部地域での自然の発見と神の出現
 3.古代東アジア人たちの王国の樹立と神話創造
第3章 古代東アジア古典の思想的基底と西域
 1.古代東アジア古典の成立時期
 2.漢の帝国主義思想と東アジア古典
 3.古代西域の帝国主義国家たちと古典の出現
結論

序論

 1.研究の目的と必要性

 どうしていま、古代東アジア文学の基盤を再考察しなければならないのか。

 近代以後、日中韓三国の諸国民の東アジアに対する関心は、近代西欧列強の東アジア進出とそれに対する東アジア各国の対応の過程で形成されてきた。それは言語が異なる異民族から成る独立した東アジアの諸国家が近代の西欧帝国主義諸国家の東アジア進出に直面して各自の生存戦略を模索してゆく過程で形成されてきたものである。

 この場合、東アジアのそれぞれの国民の東アジアに対する関心は、二つの特徴を持つものであった。まず一つは、彼らの関心対象である東アジアが1つの地域共同体的な性格を帯びたものだったにもかかわらず、各国の東アジアに対する関心が自国・自民族・自国文化を主軸にしたものだったということだ。もう一つは、彼らのそのような関心が東アジアを一つの同じ文化圏として認識することによって形作られてきたものだったということだ。東アジアのそれぞれの国民が近代化の過程で自国次元の民族主義を強調しつつも、他方では、とりわけ日本の場合のように東アジアが一つの同じ文化圏だという事実を強調していったということだ。日本の場合、そういう考え方が行動化されてくるようになるのは、一九〇〇年代初めの日露戦争などを画期にしたものであったと見られる。たとえば、東アジアの歴史における日露戦争は、近代西欧のナショナリズムの潮流に乗って、西方の汎スラブ主義(PanSlavism)・汎ゲルマン主義(PanGermanism)などに対抗して形成されてきた汎アジア主義(PanAsianism)を思想的基盤として起こってきた東西間の最初の衝突として記録されうるものだと言える。

 だが、東アジアの各国民の東アジアに対するこのような認識は、一九九〇年代にさしかかり、解消され始めた。一九八〇年代までの世界は、近代ナショナリズムを主軸として形作られた現代資本主義と共産主義の理念的対立にもとづいた世界だった。しかし、このような世界は、一九九〇年代初めの湾岸戦争のような事件などを契機としてグローバリズムという新しい時代的理念に依拠して、もう一つの新しい世界へと転換してきている。そうしたグローバルな世界は、一九九二年に結成されたヨーロッパ連合(EU)などのような地域連合体をはじめ、現在結成中の北米共同体(North American Union : 2012年に結成予定)、結成準備が高潮している東アジア共同体(East Asian Union)などを主軸にして構築されてきているのだ。

 だが、一九九〇年代以後に形成されてきたグローバリズム(Globalism)という新しい時代的理念は、リージョナリズム(Regionalism)を主軸にして形成されてきた。グローバリズムにしても、その基盤を成しているリージョナリズムとは、それまでの時代的な理念だった資本主義(Capitalism)とか共産主義(Communism)とか、あるいはそれらの主軸の役割を果たしたナショナリズムなどの場合とは違って、ある社会的観念や経済的観念が内包されていない、ある特定地域の純粋な地理的空間上の特徴的な意味だけを中核として形作られている観念である。

 かかる点を勘案するとき、現在われわれの論議の対象である「古代東アジア文学」における「東アジア」の意味は、一九九〇年代以後に形成されたグローバリズムやリージョナリズムの観点から再構成せざるを得ないという立場をとることになる。先に言及したとおり、近代以後、日中韓三国の諸国民の東アジアに対する関心は、西欧の帝国主義勢力の東侵によって惹起されてきた政治的次元のものであった。しかし、それは日露戦争(1904~1905)を画期として、政治的次元のものから、人種的・文化的次元のものへと転換されていき、またそれは一九九〇年代のグローバル時代にさしかかってからは、再び地理的次元のものへと転換してきたのだ。したがって、まずわれわれの論題「古代東アジア文学」における「東アジア」の意味は「東アジア地域」の意味と規定されねばならないという立場がとられうる。とすれば、「古代東アジア文学」とは、「古代東アジア地域の文学」の意味であると把握されうるはずだ。こうして、去る一世紀の間、一つの文化圏を基盤として形成されてきた「古代東アジア文学」に対する概念がグローバル時代の到来によって「古代東アジア地域の文学」という新しい意味へと転換してきたのだ。

 こうした点からすれば、いまわれわれはグローバリズムという新しい時代的理念に立脚して「古代東アジア文学」の基盤を再検討してみる必要性が提起されるのだ。私の「古代東アジア文学」の基盤に対する再検討は、まず第一に、「東アジア地域」・「古代」・「文学」などについての基本的な概念に対する一般的考察、その次に、古代東アジアの西方地域の文学的基盤に対する考察、最後に、古代東アジア西方地域の文学的基盤の成立背景などに対する考察、などから成る。

 2.研究方法

 では、文学研究という視角から、「古代東アジア地域の文学」を考えてみるとき、それは以前の「古代東アジア文学」とどう違うのか。われわれの「古代東アジア地域の文学」に対する研究の一次的作業は、まず、古代東アジア地域の地域的特性に対する把握だと言える。だが、ある地域の持つその地域的特性に対する把握は、まず一次的にその地域とその隣接諸地域との様々な差異の考察を通じて行わなければならず、その次に、その一次的考察を通じて把握された特性によってその地域内の地理的特性の考察が行われるのである。

 近代以降、各国における文学研究は次のような立場で行われてきた。近代化の初期段階における各国民のある地域に対する関心は、自国内の諸地域に対するものに留まっていた。その時期の文学研究は、自国の伝統文化を主軸にして行われたが、そのような視角から文学研究が行われる過程で、「国文学」という学術ジャンルが成立してきたのだ。たとえば、日本における日露戦争以前までの文学の研究は日本の伝統文化との関係の中で行われ、その過程で日本では、「国文学」という学問ジャンルが形成されてきたのだ。しかし、日露戦争以後、日本国民にとっての自分たちの生活の空間に対する関心は、韓半島(朝鮮半島)、中国大陸、満蒙地域、東南アジアなどへと広がっていった。その結果、日本人の意識の中に自分たちと同一な文化的体験を経てきた「文化共同体としての東アジア」という意識が形成されてきた。時期的に言えばそれは、日露戦争から湾岸戦争までの時期だと言える。その時期に、東アジアにおいて行われた文学研究は、国文学の確立という目標のもとで行われたと言えるが、その具体的な接近方法は、自国の伝統文化との関係考察を主軸にした自国文学の他国文学からの影響如何の考察、自国文学と他国文学との比較をつうじた自国文学の特質の把握などによるものであった。このような次元での「国文学」研究が行われる過程で、日本をはじめとした東アジア三国において「東アジア文学」という用語が出現した。その場合の「東アジア文学」とは、たとえば趙東一の『東アジア文学史比較論』(1993)などの場合のように、自国次元で整理された各々の国文学を一つにまとめた状態のものだった。

 しかし、一九九〇年代以後になってからは、東アジアの各国民たちにとって「東アジア」がヨーロッパ連合(EU)などに対応する一つの確実な地域的(regional)単位として認識されてくるにしたがって、彼らにとっての「東アジア文学」は、前述したような、以前とは画然と違う意味を帯びるようになった。すなわち、以前の「東アジア文学」は、「日中韓三国の文学の総合」の意味として把握された。しかし、一九九〇年代以後になって、国家や民族などのような意味が内包されていない、純粋な地理的ないし物理的空間の意味だけが含まれる「東アジア地域の文学」の意味として使われるようになっているのだ。言い換えると、一九九〇年代以前までのナショナリズム時代に使われた「東アジア文学」が「東アジア地域の様々な国文学」(national literatures in East Asia)の意味だったとするなら、それ以後のグローバル時代のそれは、「東アジア地域の文学」(East Asian literature)の意味として把握されているということだ。私がここで言いたい要旨は、私の論じようとする「古代東アジア文学」における「東アジア文学」の意味がまさしく後者に該当するということだ。また、本「科研」が扱っている「東アジア古典学」の場合もこの後者に該当するし、またそうあるべきものであると考えられる。

 このように、グローバル時代以後、「東アジア文学」の意味が純粋な地域学的意味を帯びたものなら、「古代東アジア文学の基盤の考察」の意味は、「古代東アジア地域において文学がどのように成立してきたかについての問題を中心とした考察」と解釈できる。だとすれば、その考察は、まず何よりも、古代東アジアがどのような地域であったかという問題に対する究明が先決されねばならず、またそうした課題は、古代東アジアの地域的特性に対する考察を前提とする。が、ある地域が持つその地域的特性に対する把握は、まず一次的にその地域とその隣接諸地域との関連性やそれらの間の差異に対する考察を通じて行うことができる。その次に、そうした一次的考察を通じて把握された特性に依拠して、その地域の内的構成ないし内的秩序の特性の考察を行うことができる。言い換えると、地域的特性に対する考察は、その地域がその隣接諸地域とどのように関連づけられており、その地域が隣接諸地域に比べどのような特性を帯びている所なのかなどに対する考察を前提とする。その次に、それは古代東アジア地域がどのような諸地域から成っているかに対する考察へと繋がっていかねばならないということだ。

 このような側面で考えてみたとき、「古代東アジア文学の基盤の考察」はまず、古代東アジア地域の特性に対する考察が行われなければならず、次に、古代文学を成立させた文化的基盤に対する考察が行われなければならないという立場が取られうる。この場合、古代文学を成立させた文化的基盤というのは、一口で言って文学的表現の主体としての国家と民族、文学的表現の手段としての言葉と文字、表現の内容としての神と自然などのようなものを指す。かかる点を勘案してわれわれはそういったものらの次元で、古代東アジア文学の成立基盤を考察するという立場を取ることができるのだ。それでは、まず古代東アジア地域の文学はどんなものなのかという問題から考察してみることにする。

第1章 研究対象としての「東アジア地域の古代文学」

1.「東アジア地域」「古代」「文学」の基本的概念

1)「東アジア地域」の概念

 「東アジア地域」というのは、アジア大陸、あるいはユーラシア大陸の東地域を指す。現在この東アジア地域の西部は中国、北部はモンゴル、ロシア、中部は韓国、東部は日本、南部はベトナム、ラオス、タイ、カンボジア、マレーシア、フィリピンなどのような国々から成り立っている。

 現在ユーラシア大陸におけるアジア地域は、ウラル山脈、黒海、エーゲ海、地中海、紅海を境界にする以東の地域を指す。では、ここで暫く「アジア」(Asia)という言葉がどのように形成されてきたのかを検討してみることにする。もともと「アジア」(Asia)という言葉は、メソポタミア地域の東部を流れるティグリス川上流地域にアッシュール(Assur)という都市国家を立てたアッシリア人たちの「日の出」と言う言葉から出たものと言う。ところで、もともとアッシリア人は、メソポタミア地域の西部を流れるユーフラテス川の上流地域で外地出身の遊牧民セム族とその地域民との間に出現した混血民族だと知られている。こうして彼らはメソポタミア西部のユーフラテス川上流地域に出現し、そこから東部のティグリス川流域のアッシュール地域へと移動した。彼らはその地域でBC2500年頃以前に都市国家アッシュールを建設した。ところでメソポタミアは、BC2300年頃に至ってユーフラテス川中流のアッカド地域を基盤として出現したアッカド王国によって統一された。その過程でメソポタミアの北方地域に住んでいた彼らは南側の政治的諸勢力を避けて西の方のアナトリア地域へと進出して行った。その結果アッシュール王国のサルゴン一世(BC1770年頃)に至ると、エーゲ海の向こうのギリシア人たちとも貿易活動を行うようになった。

 ギリシア人たちはギリシア地域で見た時日が昇るエーゲ海の向う側の地域をアナトリア(Anatolia)(注1)と呼んでいた。しかし彼らはこのアナトリア地域まで進出したアッシリア人たちと貿易をするようになってからエーゲ海の向う側のアッシリア人が住む地域を、「アジア」とも呼ぶようになった。ところが、その後ギリシア人たちは自分たちが「アジア」とも呼んできた地域の向こうにアッシリア人の故郷アッシュールがあるメソポタミア地域などのような広い地域があることを知るようになった。それで彼らはその間自分たちが「アジア」と呼んだ地域を「小アジア」と、その以東のメソポタミア地域などのような地域を「アジア」と、それぞれ呼ぶようになったのだ。

 現在われわれが考えるアジア地域には「小アジア」と呼ばれるアナトリア地域が含まれる。その主な理由は、近代の市民革命と産業革命の恩恵を受けた人間たちが全世界を非キリスト教文化圏の東洋とキリスト教文化圏の西洋に両分させて把握してきたし、それにまた西洋を欧米地域として、東洋をアジア地域として、両分して把握してきたからだった。現在小アジア地域はイスラム教徒が暮す非キリスト教文化圏だ。

 以上のように考察してみたとき、アジア地域というのは、ウラル山脈、黒海、エーゲ海、地中海、紅海を境界とするそれ以東の地域だというふうに把握されうると言われる。ならば、東アジア地域はどの地域を指すのか。現在われわれはアジア地域を普通、東アジア、西南アジア、東南アジア、中央アジア、南アジア、北アジアと六等分して把握している。この場合、東アジアの範囲は事実上現在の中国・韓国・日本の地域に限定される。

2)「古代」の概念

 「古代」というのは、石器を使ってきた人間たちが青銅器とか鉄器を発明してそれらを道具として使っていった時代を指す。各地域の人間たちはまず青銅器を発明してそれを道具として使っていったし、それを使用してゆく過程で鉄器を開発し始めた。それでわれわれは青銅器が使われた時代を古代前期と呼び、鉄器が使われた時代を古代後期と呼ぶことができる。

 各地域で人類がその間使ってきた石や木で作られた武器を捨てて青銅製の金属武器を使うようになると、以前の石のような武器では彼らが退治することができずにいた虎や象などのような猛獣たちも退治することができるようになったし、また彼らの周囲の他の部族たちとの闘いを勝利に導き、武力による国家を建設することができるようになったのだ。この時、勝者は占領地の人間たちを自分の地域に引っぱって来て、彼らを奴隷にし、頑強な防衛網を構築して巨大な王宮を建立して王権を強化させていった。それだけでなく彼らは自分たちが占領した地域を效果的に治めるために文字を考案するとか文字表現体系を整備させて自分たちの意思を占領地の民たちに伝達させていったのだ。このようにして形成された社会はもはや氏族や部族などのような血続きで絡んだ社会ではなく、決まった地域を土台に形成された社会となった。

 以上のごとく、「古代」は、金属器が使われて王権国家が形成されて文字使用が行われ、奴隷制が行われ、血統中心の社会が地域中心の社会へと切り替えられていった時代だった。

3)「文学」の概念

 「東アジア文学」での「文学」の概念はまず、「学問としての文学」の意味から始まって、その次に、「芸術としての文学」の意味を経て、現在「文化としての文学」の意味で使われている。一番目の「学問としての文学」というのは、言語によって表現されたものなどの意味を把握し、また言語でもって人間たちの考えや感情を表現するという学問の一領域を意味したものだった。ところが、「学問としての文学」の意味は文字活動が行われ始めた古代から近世までの期間に通用した意味だ。二番目の「芸術としての文学」は、人間の美的意識を呼び起こし、またそれを表現する芸術の一領域を意味した。そういう意味は、浪漫主義とリアリズム思想が一般化されてきた18世紀後半から19世紀までの期間の近代に通用した概念だ。三番目の「文化としての文学」の意味は人間たちの生を実現してゆく文化の一領域を意味する。このような意味は、20世紀後半以後の現代に形成されてきた概念だ。

 「芸術としての文学」が「芸術の一領域としての文学」を意味するように、現在通用する「文化としての文学」とは、「文化の一領域としての文学」を意味する。この「文化の一領域としての文学」は、「文学」が芸術という領域にのみ限ったものではなく、「文化」という属性までの意味が込められているものであるという立場だ。「文学」のこのような意味は、文学の表現手段としての言語が、人間たちの文化的諸行為を表現する唯一の表現手段ではなくそれらを表現する多様な表現手段の中の一つとして編入されることで形成されてくるようになったのだ。一言で言って、20世紀初め、ソシュールなどによる記号学の登場をきっかけとして、言語が文化的現象たちを表現する「記号」(signs)の一つとして認識されてくることによるものだ。

 このように見たとき、「文化の一領域としての文学」の意味は、「文学」を成立させる「言語」を記号の一種として把握するというものだという認識にもとづいたものだ。「文学」を成立させる「言語」を記号の一種として把握する場合、文化的現象たちを表現する諸記号の1つから成り立っていると認識せざるを得ない「文学」というものは、確かに文化論的次元で接近されなければならない文化テクストの一種に違いない。このような側面から考察してみるとき、「文化としての文学」というのは、文化の基礎を成す神・自然・社会などのようなものに対する人間たちの考えや感じを記号の一種である言語で表現する活動であると定義される。「文学」というものがたとえ文化の一領域をなすものだといっても、あくまでも文字表現という領域を超えて存在することはできない。それは様々の文化の領域の中で文字を基礎にして成り立つようになった領域のものだからである。

2.東アジア地域の古代

 史学でいう「古代」の基点は、人類が金属器と文字を使い始め王国を建設し始めた時点であると把握されている。ならば、古代の東アジア地域において最初に青銅器と文字が使われ王国が樹立され始めた場所はどこか。たとえ最近東アジア地域という言葉がユーラシア大陸の西部地域であるヨーロッパに対応される、ユーラシア大陸の東部を指称する言葉だとしても、それの指称する地域は確かにアジア大陸の西部地域、すなわち西アジア地域に対応されるアジア大陸の東部地域を指称する言葉であるにも違いない。ところで現在この東アジア地域は国家的次元ではモンゴル、韓国、中国、日本の4か国を指すと見られるが、地理的次元で言うようなら確かにこの地域は中央ユーラシアあるいは中央アジア地域に位置している北のアルタイ山脈、中央の天山山脈、南側のチベット高原の東の地域を指す。

 東アジアがユーラシア大陸あるいはアジア大陸の東地域として、上記のように位置された地域だとするなら、この地域で最初に青銅器と文字が使われ王国が樹立された場所は、現在中国が位置している東アジアの西部地域に違いない。特にこの西部地域内でもアルタイ山脈と東北部の黒竜江と遼河が結ばれる地域、天山山脈と中部の黄河が結ばれる地域、チベット高原と南側の長江が結ばれる地域などから成り立った諸地域だと言える。それでその西部地域に形成されてきた文明と文化は、その西部地域から中部地域を経て東部地域へと伝えられてきたのだ。ここでわれわれが東アジアの西部地域をアルタイ山脈と西北部(アルタイ山脈と東北部の黒竜江・遼河の連結される地域)、中西部(天山山脈と中部の黄河が結ばれる地域)、西南部(チベット高原と南側の長江が繋がる地域)に三分してみた場合、どの地域で最も先にその東アジア文明が成立されたのかに関しては現在としては断定することができない。その理由は、例えば西北部の遼河流域の夏家店遺跡でBC2000~1500のものと推定される青銅器が発見され(注2)、西南部の四川盆地にある三星堆遺跡ではBC2000年前後のものと思われる青銅器が発見された。また中国黄河上流である甘肅省と青海省地域の梔子文化(斉家文化: BC2500年頃からBC1500年頃まで存在した新石器時代後期の文化)では青銅器・黄銅器・紅銅器・銅鏡・銅・製錬用るつぼなどの原型と破片及び製錬し終わって残った銅の残骸などが出土された。

 こうして見たとき、東アジアの西部地域で建設された最初の王朝として知られている夏王朝の時代(2050頃~1766頃、BC)には基本的に青銅器の製錬と鋳造技術が熟練された時代だった(注3)。東アジアの西部地域が本格的な青銅器時代にさしかかったのは、BC21世紀からだ(注4)。とにかく東アジアで青銅器王国文化が発生したのは、BC21世紀に西部地域から出発して中部地域を経て東部地域へ伝わっていったと言えるが故に、その伝播期間は、例えば青銅器が東部の日本の九州地域で弥生時代(BC 200~AD 300)から使われたものとするなら、約2000年の間だと把握されうる。王国樹立の伝播は、西部地域における夏王朝建設の時点(BC 2050頃)から、東部の九州地域における3世紀初めの邪馬台国の成立時点まで1800余年間にわたって行われた。

 青銅器の使用と古代国家の成立伝播がこのようなものだったとしたら、文字の場合はどうか。文字の場合は、19世紀末に発見された最古の文字は西部地域に位置した河南省安陽の殷墟で発見された甲骨文字だ。それはBC14~11世紀頃に使われたと現在知られている中国最古の文字として把握されているもので、現在中国の漢字は正しくそれを基礎にして周代の金文、秦代の小篆、漢代の隷書、隋唐代の真書(楷書)などの形態を取って発展してきた。ところが、この甲骨文字は、殷代(1766~1122)に急に形成されたものではないと言うのだ。山東省莒県の大汶口文化の形成年代は、BC2500~2000年と推定されるが、遺跡から出土された陶器の文様は陜西省の仰韶文化の遺跡地から出土された陶器に記載された記号とは違い、漢字の体裁を取っており、甲骨文の先駆けとして把握されている(注5)。許進雄のような古代中国文化研究者たちによれば、そういう諸事実に即して西部地域にはもうBC2000年頃にある種の系統を持った文字があったというのだ(注6)。彼らの見解を受け入れて、われわれは西部における文字の出現をBC2000年頃と推定することができる。

 以上のように考察してみたとき、東アジアでの古代の成立時点はBC21世紀頃だったと考えられる。その時期からまず西部地域を中心にして青銅器のような金属器が使われ始め、それが当時の支配層に一般化されてきたし、またそれと同時に文字体系が定立され支配層で記録と読書活動が普遍化されてきたし、王権が樹立されて国家体制が確立されていった。そういう文化的現象は、約20世紀の間、西部地域を中心にして行われてきて後、AD 1世紀頃から中部の韓半島(朝鮮半島)と東部の日本列島へと伝わり始め、8世紀頃にきて中部と東部地域の文化が西部の場合と類似の形態を取ってくるようになったのだ。東アジアの古代文学というのは、そういう時代に東アジア地域で行われた文学的諸現象を指すものだと言える。

 3.古代東アジアの文学

 古代東アジアで起きたそういう文学的現象はまず一次的にその間に文字によって記録された様々な書物に対する考察を通じて把握することができる。当時文字に記録され、現在東アジアで現存する最古の書物では、まず西部地域の場合には次のようなものなどがある。詩歌集では『詩経』(内容成立 11~6世紀、BC : 編纂成立 BC 6~3世紀)、『楚辞』(内容成立 8~3世紀、BC : 編纂成立 BC 1世紀)などがある。歴史散文ではまず殷代の士官によって記録され始めたという『尚書』と、BC 722~BC 481年の間の魯国の歴史を記録した『春秋』がある。次に、戦国時代(403~221、BC)のもので『左伝』(春秋時代周王朝と各諸侯国の主な歴史的事実を記録した編年体)、『国語』(国別に言論を主とした歴史記録)、『戦国策』(戦国末から秦・漢にに至る時期の人々によって成立した歴史資料)などがある。さらに新興士人階層の諸子によって書かれた散文がある。春秋時代の『論語』、『墨子』、戦国時代中葉の『孟子』、『荘子』、歴史散文である司馬遷の『史記』(注7)(BC 100年頃)などがその代表的なものたちだ。

 東アジア中部地域の韓半島(朝鮮半島)で行われた文字記録活動の最古の痕跡は、詩歌から見出すことができる。まず、「公無渡河歌」(注8)、「黄鳥歌」(注9)、「亀旨歌」(注10)、「慧星歌」(注11)、『三代目』[勅纂郷歌集、888、遺失]、神話歴史散文では「百済三書」を作ったという百済の高興作と知られている『書記』(375、遺失)、「広開土大王碑文」(414)、『留記』(600、遺失)、『三国史記』(1145)と『三国遺事』(1285)に編まれている神話たちなどがある。このような作品の内容が形成されて、またそれらが文字に表現された期間は、BC 2世紀から、新羅が韓半島(朝鮮半島)を統一したAD 7世紀までだと言うことができる。

 東アジア東部地域の日本列島ではいつから漢字が使われ始めたのか。『古事記』の「応神天皇記」に、応神天皇が百済の国王第十三代近肖古王(346~375 : 『古事記』には「昭古王」と記録されている)に、「もし賢者があれば送ってください」(若有賢者貢上)という頼みによって近肖古王が王の孫の辰孫王(『古事記』には和邇吉師、『日本書紀』には王仁となっている)を送ったが、その時彼が『論語』10冊と『千字文』1冊を持って行ったと記録されている。このような記録を考慮してみれば、東アジアの東部地域では少なくとも4世紀後半からは文字による記録活動が始まっていたと推定される。その後日本でのそういう文字記録活動については『日本書紀』の「継体天皇紀」に、百済から日本に五経博士段陽爾(ダン・ヤンイ)を送ったという記録がある。そういう記録などから推して、継体天皇の代(450年頃~531年頃)である6世紀前半に入ってからは、文字使用がかなり進歩していたと判断される。6世紀中葉にさしかかると、朝廷で『帝紀』(大王の系譜)と『旧辞』(朝廷の実体、伝説)が整理されたものと判断される。では、東部地域で漢字が最初に使われた時点はいつごろからだったと考えることができるだろうか。われわれはその時点を邪馬台国の女王、卑弥呼が239年の魏の皇帝に使臣を送って「親魏倭王」という称号を受けた事があった時期からだと見られるという立場を取ってみることができる(注12)。

 われわれは、当時もう王国が樹立されており、また青銅器だけではなく鉄器も使われていたという点等を考慮してみるなら、漢字の使用が成り立っていたと判断することができる。現在日本で現存する最古の書物は、歴史散文集では『古事記』(712)と『日本書紀』(720)があって、詩歌集では『万葉集』(759年頃)がある。

 以上のごとく考察してみたとき、王国建設、金属器文字などの使用を主軸にして形成されてきた「古代」の文化はBC21世紀頃に東アジアの西部地域で始まって紀元1世紀頃にその中部地域に伝わっていき、またそれが紀元6世紀頃には東部地域へと伝わっていったという立場が取られうる。このような側面からみたとき、東アジア東部地域で形成された古代文学は中部と西部の文学的諸現象からの影響下で成り立ったもので、また中部のそれは西部のそれを基盤として成り立ったものだという立場が取られうるのだ。

 そうだとしたら、西部のそれは何を基盤として形成されてきたと見なすことができようか。われわれが東アジアの古代東部文学が中部と西部地域の文学を基礎にして成り立っており、またその中部地域の文学が西部地域のそれを基礎にして成り立ったとするなら、古代東アジアの西部文学が何を基盤として成立されてきたのかについて立場を取ることが可能となる。

 本研究はまさにこの古代東アジアの西部文学の成立基盤への考察を通じて、東アジアの古代文学の基本的特質に対する理解を深めることを目的にする。先に考察したように、古代東アジアの文学の基礎を成す王国体制、金属器使用、文字使用などがBC2000年頃に東アジア西部地域を中心に行われ始めたとしたら、古代東アジアの西部地域でそれらのものを可能としたのは果して何だったのか。本研究は、まずこの問題に対する集中的考察を通じて、王国体制、金属器使用、文字使用などを主軸にして形成されてきた古代東アジア文学の一般的特質を把握することにする。

第2章 古代東アジアの西部地域文学の基盤

1.古代東アジアの西部地域の言語と漢字漢文

 先史の場合には言葉が人間たちの意思表現の代表的手段だったし、言葉と韻律から成り立った歌がその時代の代表的文学ジャンルとして君臨していた。ところが、古代に入って文字が使われるようになることで、書いた文を通じた言語活動が主な文学的活動として認識されてくるようになった。したがって古代文学の成立基盤は、人間たちの文字使用活動と言える。人間たちはそういう文字使用活動を経てゆく過程で同一集団意識、同一民族意識などを自覚していった。彼らはそういう意識に対する自覚を通じて、現在われわれに意識される社会と歴史を見出だしていったし、またそれを足場にして哲学的空間と時間を見出していったのだ。

 東アジアの古代史は各地域のお互いに違う絵文字が漢字という一つの文字形態へと統一されてきた歴史だったし、そういう文字統一を通じた華夏族中心の世界が構築されていく歴史だったとも言える。このような現象は、東アジアの西部地域よりももっと古くから文字を使った古代エジプトでもあった現象だ。例えばBC3400年頃までにすでにエジプトは、上エジプトと下エジプトに両分されていた。そういう状況でメソポタミア地域からシュメール文字の表記方法がエジプト地域に伝えられていった。エジプト人たちはその表記方法を受け入れて聖刻文字(神聖文字、hieroglyph)を作り出した。エジプトはその文字出現をきっかけとして、その間両分されていたその地域が統一されていった。それだけではなかった。メソポタミア地域でもその地域のシュメール人によって作られた絵文字がBC3500年頃を前後して楔形文字という完全な文字形態へと切り替えられ始め、それが使われていく過程で、そこの都市たちが統一されていき、またそこに侵入して来たセム族系のアッカド人たちによって、それが受け入れられることで、その地域の都市国家が力強い帝国へと成長していったのだ(注13)。その後にそういう現象は、各地の政治家たちによって積極的に利用されていった。アレクサンダー大王(356~323、BC)によってバルカン半島のマケドニアからインドのインダス川流域に至る巨大な地域にヘレニズム帝国(334~30、BC)が建設されて、それが3世紀の間持続していくことができたのは、彼の独特の占領政策のためだったと考察される。彼は自分が占領した各地域に30個以上のアレキサンドリアと言う都市を建て、すべての都市の役人たちにギリシャ語を使うようにしたと言う。すなわちヘレニズム帝国の慣用語はギリシャ語だったのだ。アレクサンダー大王より1世紀後に東アジアの西部地域で生まれた秦始皇帝(259~210、BC)が東アジアの西部地域を最初に統一させることができたのも、またその統一政局を維持させていくことができ、そういう秦の国を土台として漢帝国を樹立することができたのも、実は、漢字への文字統一によったものだと言える。

 より具体的に言えば、東アジア西部地域での文字統一と世界統一との関係は次のごとくであった。古代東アジアの西部地域で出現した最古の文学作品たちは詩歌集の『詩経』と歴史散文作品『尚書』及び『春秋』などであると知られている。『詩経』の内容成立はBC11世紀~BC6世紀頃で、その編纂が成立したのはBC6~3世紀だとされる。孔子らによって編纂されたと言われる『詩経』は、秦の始皇帝の焚書によって消滅した。現在われわれの前に置かれた『詩経』は漢代(BC 202~AD 220)に入って学者たちの諷誦過程で、たぶん秦の始皇帝の焚書以前の形態に基づいて再編されていたものと知られている。

 『尚書』と『春秋』の主な内容が成立したのは殷・周時代だった。東アジア西部地域の国は殷・周時代から王朝の歴史を記録する二人の史官を王室に置いた。王が挙動する時、左史官は王の言葉を記録し、右史官は彼の行動を記録したとされる。『尚書』は前者の系列の書物として殷・周時代の王や政治家たちの言葉を記録したもので、『春秋』は周代、特にBC722年~BC481年の間の魯国で起きた王と政治家たちの歴史的諸事実を記録したものだ。戦国時代(403~221、BC)に来て使われた歴史書では、『尚書』系列の『国語』(注14)、『春秋』系列の『左伝』(注15)などがある。

 現在われわれの目の前にある『詩経』を含めた以上のような古典たちの主な内容が成立したのは、遠くは殷代からBC5世紀までの期間だ。しかし、その内容を表現する文字たちと文章たち、またすくなくともその内容の一部分は秦の中国統一の時点(BC 221)から漢代(BC 220滅亡)までの時点の間に成り立ったものだ。始皇帝はその西部地域を完全統一させる直前のBC 220年に周の人々と自分たちが使ってきた文字体、大篆(籒文とも言う)(注16)と、始皇帝が統一させた六国の文字たちを整理して小篆と言う文字体を作り出してそれで文字を統一させた。始皇帝はそれから7年後であるBC213年に思想統一の一方法として焚書を断行した。彼のそうした断行は当時の法家出身の丞相、李斯の建議によるものだったが、李斯は始皇帝の許しを得て、史官が所蔵している諸本と『秦紀』を除き、すべての本を焼却するようにし、また博士官以外に所蔵された全国の諸本を没収して30日以内にすべて焼却するようにした。その翌年は坑儒まで断行された。

 焚書坑儒が行われる過程で春秋時代に孔子などによって編纂されたという『詩経』ももちろん消滅した。現在われわれの前に置かれている『詩経』は東漢代(BC 221~AD 8)の詩人たちの記憶をもとにして新たにはかって編纂されたものだ。この場合、焚書坑儒以前の『詩経』は、春秋時代の古文[先秦の文字体とその文字体でわれた文章]として使われたが、東漢代のそれは今文、すなわち漢代当時の文字と文章として使われたものだった。

 この場合、漢代の今文というのは、隷書という文字体(注17)と漢文から成る文章を言う。まず文字体について論じてみよう。先に言及したように、始皇帝は、全国を統一させた後、文字統一政策を取った。その過程で形成された文字体が小篆だった。しかし、秦代末期に小篆よりももっと手短かな文字体が下級官僚出身階より提示され、始皇帝はそれを受け入れて、もう一度文字統一の政策を取っていったが、彼の二番目の文字統一政策の過程で採択されたのが外でもないまさに隷書だったのだ。隷書は、六朝の時に確立された楷書の基礎を成す文字体として現在われわれは隷書以後の文体を近代体と呼び、隷書以前のものを古文字体と呼んでいる。

 ところで問題は、様々な古文字体だ。古文字体の最終段階の文字体は、始皇帝の六国統一をきっかけとして出現した小篆である。しかし、一時人々は小篆や隷書を今文と呼ぶ一方、小篆以前のものなど、例えば大篆のような文字体を古文字体だと呼んだことがあった。秦も、周の東遷がある以前の首都鎬京を占めるようになったせいで周とともに大篆を使っていた。しかし、彼ら以外の残りの魏、韓、趙、燕、斉、楚の六国と魯などのような国々の文字体は国によってよほど違っていたと把握される。具体的な一例として、漢代初めの景帝の時に魯国に任官された恭王・劉余が孔子の宗家の壁を崩している途中、尚書・礼記・論語・孝経など数十編の古文書を見つけた。それらは当時どこにおいても使われていない不思議な文字体で書かれているものだった(注18)。それで当時の人々は、その文字体を古文字体、または古文と呼んだ。その場合の古文字体は現在の蝌蚪文字と呼ばれる文字だった(注19)。この場合この古文体については三つの次元が考えられる。一つは文字そのものの模様についてのことであり、もう一つはそれが表音文字か表意文字かについてのことであり、残りはそれがどの言語を表現したのかについてのことである。古文字体と近代文字体の一番著しい差異は、前者の場合における文字たちの意味が文字自体が持った図像性に基礎していた反面、後者の場合はそれ自体たちが持った図像性から脱してそれらの記号性に基礎していると言う。つまり、前者は象形文字に近いものであり、後者は記号にちかいものだというのである。ところでこれら一つと二つの次元のことについては次のような話が言える。

 意味伝達の基礎を成す古文字体の図像性はいかにして形成されてきたものなのか。漢字の古文字体が持っていた図像性は、古文字体が六書、すなわち、象形・象事・象意・象声・転注・仮借に基づいて形成される過程で取られたものと言える。ところが、この六書と称する漢字の形成原理は、西アジア古代メソポタミア地域でシュメール人が作り出した楔形文字(cuneiform)の形成原理の影響下で成立されたという立場がボール(Ball)によってかつて提起されている(注20)。彼のそういう立場は、文字一元論(Monogenesis)を主張してきたゲルブ(Gelb)によって継承され(注21)、またそれはパウエルによってメソポタミアと東アジア西部の両地域間の地理的接近性が考慮され受け入れられている(注22)。このようなことを考慮してみた場合、古文字は古代エジプト人の象形文字とかメソポタミアシュメール人の楔形文字などがそうであったように、表音文字と表意文字とが混合されたものであったのではないかとも思われる。

 次に、古文字体で使われた言語について論じてみよう。漢代初め、劉余によって孔子の宗家の壁の中から見つけ出された、古文字体で使われた尚書・礼記・論語などはどの民族の言葉で書かれたものだったのか。

 現在われわれはそれらがどの民族の言葉で書かれたものなのか決して知りえるあてがない。その理由は現在それらが消えてしまったからだ。現在われわれの目前のそれらは当時孔子の宗家の壁の中から出たものなどが当時の漢族の言葉に翻訳されて隷書の文字で記録されたものだと言える。

 孔子が五経をすべて編纂したという話は誤りだったので、五経の中で『詩経』くらいが彼によるものではなかったろうかと思われる。仮にそうだとしても、われわれの前の『詩経』は彼によって編纂されたそのままの形態では決してない。前に言及したように、孔子によって編纂されたと言う『詩経』は始皇帝の焚書によって消滅したし、現在われわれの前に置かれた『詩経』は、漢代(BC 202~AD 220)に入って学者たちが孔子によって編纂された始皇帝の焚書以前の形態を憶い出して彼らの記憶に寄り掛かって300余首の詩を再編纂したものだと言われている。

 この場合も同じだ。われわれは孔子が古文字体でそれらを整理したであろうとは言えるが、彼がそれらをどの民族の言葉で記録しておいたかは決して分かるあてがない。まず孔子の父親は周王室と異姓系列の諸侯国だった宋国の出身だった。ところが彼はそこで周王室と同姓系列の諸侯国だった魯国へと引っ越した者であったし、また魯国はたとえ周王室と同姓系列の諸侯国ではあったとはいえ、宋の国とともに東夷族の根拠地だった黄河下流地域の国だった。しかのみならず、また彼は東夷族を背景にして出現したという商王家の子孫(『孟子』)と記述されている。次に、孔子(551~479、BC)時代の魯国という諸侯国としては独立された形態を取ってゆきはしたが、斉の桓公に引き続き覇業を成した晋の文公(在位636~629、BC)以後ずっと北進政策を推進した楚国によってBC597年頃から中原地域の魯・宋などとともに服属させられていた。魯国は孔子が生まれる半世紀前から楚国に服属させられていたのだ。ところで当時、楚国が使用していた古文字体は、周王室でも秦国で使った大篆とは相当違っていたはずだという立場たちが提示されているし、また楚国の民族も中原地域の国々の民族たちと違う民族たちだったから、楚国の人々の言葉と中原地域の魯国の人々の言葉が違っていたと言うのだ。

 黄河下流の東夷族は、北方のアルタイ語の語順と等しいSOV型の言語を取っているし、南蛮族の楚国の民族も西方のチベット語の語順と等しいSOV型の言語を取っていた。東アジアの西部地域から使われてきた言語は、基本的にSVO型の統辞構造を取る華夏族の言語と、SOV型の統辞構造を取る夷族の言語に両分されていた。よって私がここで強調して言いたいのは、当時孔子によって整理された『詩経』などのような文献たちが後者の夷族たちの言語で整理された可能性があったはずだという点だ。

 フランス生まれのイギリス東洋学者ド・ラクペリ(Albert Terrien de Lacouperie 1845~1894)のような学者らによれば、西アジアから中央アジアを通じて黄河上流地域に移動して入って行き、さらにまたそこから黄河中流地域へとこぞって移動して出て行った部族集団があったが、その部族集団が黄帝族だったというので、華夏族はまさにその集団を中核にして形成された民族だと言うのだ(注23)。西部地域の歴史研究者たちは華夏族が中央アジア地域と接する東アジアの西部地域の西端に位している黄河上流地域を中心にして形成されて出た羌戎族を含めて、黄河中流地域の多くの部族たちを引き入れて形成されてきた民族集団として把握している。そのように黄河の上中流地域を地域的基盤として力強い民族集団へと形成されていった華夏族は、黄河の中流地域で成立して出てきた商・周・秦などのような政治的集団たちを吸収し、漢代に来ては全西部地域を代表する民族集団へと切り替わっていったのだ。

 一方、黄帝族が黄河上中流地域に入る以前に、東アジア西部地域の西端のチベット高原(青蔵高原)と黄河上流には、BC3000年頃から西戎族の先祖に当たる羌人が暮していた。また黄河中流地域には、その地域の北方出身のアルタイ族などが暮していた。しかし、これらの夷族たちは黄帝族ないし華夏族が黄河の上中流地域に到着すると、その地域を出発して、長江上中流地域に移動し、そこの原住民たちと混合し、長江文明を興していくことになり、その文明を背景にして楚などのような国々が成立して現れたのだ。現在、南方の長江流域や雲南地域には漢族の言語を使わずに自分たちの言語を使っている彛族・白族・納西族などのような少数民族たちが存在している。彼らがまさしく、北方から南下して長江流域地域で定着して暮すようになった西戎族と東夷族のような夷族たちの後裔たちであるのだ。ところが、彼らは現在もSOV型の統辞構造を取る自分たちの固有の言葉を使用していっており、また彛族の場合は、AD 10世紀頃に以前の象形文字を母体にして爨文を創製して使って来たし、納西族は現在までも象形文字の一種である東巴文というものを使って自分たちの意思を表現してきている。

 このようないくつかの点を考慮してみたとき、われわれはすぐ、現在われわれの前にある『詩経』を構成している詩の目次のようなものなどの考察を通じて次のような立場を建ててみることができる。先だってわれわれは焚書以前にあったこと、すなわち孔子によって編纂されたという『詩経』に対する当時の学者たちの記憶に根拠して始皇帝の焚書以後の漢代初めに現在われわれの前に置かれた『詩経』が成り立ったのだという立場を提示した。ところが、われわれは彼らの記憶を頼りに再編纂された『詩経』の目次を考察してみると、次のような疑問が提起されうるのだ。『詩経』の書き起こしに出てくる詩たちが周南と召南の国風の詩たちということだ。すなわち、それらが中原にある孔子の国である魯国や、あるいは魯の宗主国である周国の歌ではなくて南方の陽子江の流域にある苗族の楚国の歌たちだという点だ(注24)。ならば、『詩経』の書き起こしに楚国の詩たちの出てくる理由は何だろうか、という疑問が提起されるのだ。楚国の諸民族は西戎と東夷の後裔たちと言える苗族ないし南蛮族で、現在の彛族・白族・納西族などのような少数民族たちの先祖たちだったと言える。彼らは中原地域の華夏族の文字や言葉とは違う言語を使っていた民族だった。このようないくつかの点を考慮してみる時、『詩経』の書き起こしに出てくる楚国の詩たちというのは、元々は、楚国の言語で朗詠され、書かれたことが孔子自身やあるいは誰かによって魯国かあるいは周国の文字と言葉に翻訳されて整理され編纂されたし、またそれらが漢代初めにまた漢代の今文と漢文に翻訳されて出たものだという立場が取られうる。屈原の『楚辞』も初めには楚国の民族の言語で記述されてから、漢代に来て今文と漢文に記述されて作られたものなのだ。

 このようにみたとき、現在われわれが接している中国の古典たちが始皇帝の焚書以後の漢代初めに来て漢字とSVO型の統辞構造を取る漢文へと翻訳されて生み出されたものだということなのであって、それらの原型たちは主にアルタイ語系の言語などを含めたSOV型の構文を取る言語たちによって記述されていたものなどだったと言うのだ(注25)。

 だとすれば、東アジアの西部地域でのSVO型の統辞構造を取る中国語はどのようにして形成されてきたことか。現在中国人たちはSVO型の中国語を駆使する中国民族の先祖を華夏族のとして知られている黄帝だと見ている。ところが、前でも言及したように、ド・ラクペリなどのような学者はメソポタミア地域で住んでいたバーク族(the Bak tribles)の首領であった黄帝がBC2300年頃にメソポタミア地域から中央アジアを経て東アジアの西部地域に至り、古代中国文明の基礎を立てたものだと把握している(注26)。彼はその根拠として、まずバーク族がメソポタミア地域で学んだシュメール、アッカド人たちから学んだ楔形文字の六書が古代中国語の漢字のそれと等しいということを提示した。またもう一つの根拠として彼が提示するのは、BC2000年代後半期にメソポタミアのバビロニア地域で使われていた多くの文物たち、例えば1年を12か月と四つの季節に分けるとか、7日を一つの時間単位にするということなどのものだ。陰陽の二元論、音楽の12律呂、行星たちの名前、様々な色の象徴などのようなものが古代東アジアのものなどと等しいというのだ。また、われわれは彼の提示する論拠たちが黄帝がバーク族の首領だったという彼の主張に対する確かな論拠でありえないという立場が取られはするが、それでもその時代古代の青銅器文化が西アジアから東アジアへと伝播していったという事実を考慮してみた場合彼のそういう主張を完全に無視してしまうことができないという立場もありうるであろう。またわれわれは、北部のアッカド人と南部のシュメール人とが10世紀間争ってきたがBC 2350頃サラゴン王によってメソポタミア地域が統一されることになったという歴史的な事実を思い出してみる必要がある。その地域が統一される過程でその地域で住んでいた一部族が中央アジア地域へと移った可能性があるといえるのだ。

2.東アジアの古代西部地域での自然の発見と神の出現

 先史時代の人たちの最大の関心は、自分たちの生存を脅威している存在たちに対するものだ。彼らの生存を脅威しているものというのは、まず一次的には猛獣と他の人間集団たちだった。その次には、洪水や日照りなどのような自然災害だった。先史時代の人たちが長い移動生活を終わらせて1か所に定着して農耕と牧畜生活をしていった新石器時代までみても彼らへの猛獣たちの攻撃と自然災害を防いでいった方法というのは、自然の中に散らばっている石をきれいに磨いてそれを武器や道具として使うことだった。その場合、新石器人は自分たちを攻めてくる獅子、虎、熊、コブラ、イーグル、象などのような猛獣たちを石を武器にしては決して受け止めることができなかった。それで新石器人にとって、そういう猛獣たちはまさに神と同じ存在たちだった。青銅器時代以前にトーテミズムが出現したことは正しくそのような理由からだった。そうするうちに青銅器時代に入って人類が青銅で武器を作り、猛獣たちの攻撃を防げるようになると、古代人たちにとっての猛獣たちはそれ以上彼らの生死の運命を牛耳る神のような存在たちとしては認識されなくなったのだ。すでに青銅や鉄製武器を持つようになった彼らにとっての神的な存在というのは、空や山、あるいは海などのような巨大な自然物の中に隠れて洪水や日照りなどのような災難を起こす存在に限定されるようになった。言い替えれば、金属武器を持つようになった人間たちが敬畏していくようになった対象たちは、人間と人間のものなどを無にしてしまったり、あるいは人間たちに、ある希望をもたらしてくれたりする、超越的存在たちが内在していると考えられる自然物たちだったということだ。

 それで人類は、青銅器時代に入って、神的存在が内在していると考えられる自然そのものを自分たちの生死を支配してゆく神的存在として認識するようになった。こうして人間が自然を神的存在として認識してゆくようになると、人間たちには自然を構成する自然物一つ一つがすべて神的存在たちとして認識されてくるようになり、結局、「木の神」、「水の神」、「天の神」などのような神々が誕生するようになった。このように自然から多くの自然物たちの神々が誕生すると、その次には人間の心からも心を構成する観念上の神々、例えば愛の神、嫉妬の神、などのような神々まで誕生するようになったのだ。

 東アジア西部地域で青銅器が使われ始めたのは、前に考察されたように、夏王朝(2205~1766、BC)の成立時点だと把握されている。当時、金属武器を持つようになった夏国の人々にとって神的存在の対象として認識されてきた最も代表的な自然物は外でもない、まさしく空、すなわち天という存在だった。このような事実は始皇帝の焚書坑儒から自由だった『易経』[夏王朝時代の『連山』、商王朝時代の『帰蔵』、われわれが現在まで持っている『周易』](注27)、最も古い経典として知られる『書経』(注28)などを通じて把握することができる。

 現在われわれが持っている『易経』である『周易』は、夏王朝代に形成された『連山』、それが基礎になって商王朝代に成り立った『帰蔵』などに基づいて周王朝代に成り立ったものだ。ところが、『易経』は青銅器が使われる以前、より具体的に言わば、夏王朝以前の三皇五帝時代の三皇中の一人である伏羲氏(注29)によって成り立ったと言われている。『易経』は、陰陽の原理で天地万物の変化する現象を説明し解釈した儒教経典である。それは陰陽の原理で天地万物の変化する現象を把握し、その原理をもって人間たちに迫り来る吉凶を占うのに使われる本だと言える。こうしてみたとき、『易経』は絶えず変わっていく自然現象に対する古代人たちの諸体験から得られた情報を資料にして形成されてきた本であることが分かる。『易経』によって古代人たちはまず自然体験の結果を陰と陽に両分させて把握し、また彼らは漢字の一文字のようにすっと引いた線(-)で陽を表示し、中が切れた線(--)で陰を表示し、その線を爻した。そこで彼らは自然の変化法則を説明するにおいてまず陰爻と陽爻を3個ずつ組み合わせてそれらを三爻卦、あるいは卦と呼び、8種類から成る三爻卦をもって自然を構成する諸要素に対応させ、それらを基本にして自然の変化原理を説明しようと考えた。そして古代人たちは、8種類の三爻卦、すなわち八卦の一番目をまず空(乾)に対応させた。その次に、彼らは残りのものを、地(坤)、淵(兌)、火(離)、雷(震)、風(巽)、水(坎)、山(艮)に対応させた。こうしてみたとき、古代人たちにとっての『易経』は、八卦の自然物たちが人間たちに吉凶をもたらす神的存在たちだと認識してきた古代人たちの考え方を土台にして成立されたものだと言える。

 青銅器文化が一般化されてきた商王朝(1766~1122、BC)に至っては、人間が金属武器を持ってからも決して対敵していくことができない対象たち、例えば空、山、海などのような巨大な自然物たちが神々として認識されてきたし、その中でも空(天)が最高の神として崇拝されるようになった。そういう諸事実は、BC 20~8世紀に虞・夏・商・周の王室の史官たちによって記録されたという『書経』によく表れている。『書経』の「商書」編の「高宗肜日」に、「空は上から民を見下ろし、彼らの正義のあることを試す。それは彼らに長くて短い生を付与する。」(注30)という文章がある。これもそういう事実をよく表してくれている。

 BC 10~7世紀の間に成立された歌たちの歌詞から成り立っている『詩経』は、すべての自然物たちを神的存在たちの一種である霊物たちとして表現している。『詩経』の詩はほとんど全部がその最初の行や最初の連で自然物や自然現象を叙述し、その二番目の行や二番目の連で人間や人間の行為を叙述していて、例えば、第1編国風に収録された「つばめ」(燕燕)の最初の連は、「つばめたちは先に進んだり後に従ったりして飛ぶ。妹さんがお嫁に行くのを、遠くの野から彼女を送る。眺めても見えなくなると涙を雨降るように流す。」(注31)となっていて、このような叙述形態の連が4回繰り返される。同じく国風に収録された「日と月」の最初の連は、「日と月は下の地を照らしている。しかし、わたしの恋人は以前のように私を慈しんでくれない。どのようにすると心を捕らえることができるだろうか。私に目もくれない。」(注32)となっていて、このような叙述形態の連がやはり4回繰り返される。前の二つの詩たちの場合のように、『詩経』の大多数の詩たちは詩たちの冒頭が自然物たちの叙述から成り立っている。ここで私が言いたいことは、詩の冒頭に叙述されたまさにこの自然物たちが作品世界での神的存在の役目をしてゆくということだ。石川忠久もその著書『詩経』(新釈漢文大系15、明治書院、2002)の「『詩経』の概略と解説」において、「国風の‘風’は降神、招神するという意味で、国風の多くの詩たちは基本的には多くの降神儀礼に使われた楽歌だった」と言っている。また、『詩経』の詩は風・雅・頌に基づいた分類以外に、修辞学的分類として賦・比・興などによっても分類される。ところで石川忠久は、神聖な宗教的儀礼が形骸化されて、『詩経』の詩たちの中に定着したのが「興」だという立場を提示している。したがって、『詩経』における「興」は、詩の持つ「呪的意義」を示すことで、それは作品世界を構成した自然物たちによって触発されて出てくる感情の一種だと言える。

 漢代(BC 206~AD 221)に入って東アジア西部地域での漢詩は、『詩経』のそういう詩たちとその流れに乗った漢代の楽府詩を基礎にして確立されてきた。一方、東アジアの西部地域は、1世紀に入って、インドから東アジアの西域を通じて仏教を受け入れ、それを西部の全地域で伝播させていった。その結果、4世紀末までには東アジア西北地域の住民たちの10分の9が仏教信者になった(注33)。東晋の法顕(337~422)のような僧侶は、399年に中央アジアを経てインドに行き、414年に海路を通じて南京に到着して、インドから持って来た仏経を翻訳することになる。

 このように中央アジアを通じて西部地域に入って来た仏教は、西漢時代に一般化されてきた儒教思想に押さえ付けられていた無為自然思想などのような道教思想を触発させて、それを媒介にして伝わっていった。そういう状況の中で、魏(220~422)と西晋(265~317)の政権交代期には竹林七賢を含めた清談派知識人たちが出現した。仏教思想の本質は、自分の欲望を捨てれば自我が世界になり世界がすなわち自我になると言うものだ。当時の西部地域の人たちは仏教との接触をきっかけとして自然の世界を内面化させることができるようになった。その結果、田園詩人として知られている陶淵明(365~427)、謝霊運(385~433)などのような人々は、自分たちの社会的欲望を捨てて自然の中に入り、その世界を自分たちの一部として受け入れ、自分たちの生を実現させていった。自然に対する彼らのそういう立場がその後、唐代(618~907)にまでつながったし、その頃それが東部地域へと伝わり、東部地域の古典の土台を成すようになった。

3.古代東アジア人たちの王国の樹立と神話創造

 文字と青銅器は血縁で結ばれた部族たちを統合させ、またその連合体を一つの王国で転換させていった。そういう過程を通して出現した王国は、王という名の強者によって統治されていった。この場合、その王国は、以前の多くの部族長たちが所有していた地たちとその土地の人力を基盤として建設された国だった。したがって、その王国の最高治者である王が持続的にその国を治めていこうとすれば、まず何よりも自分が他の族長たちや土着豪族たちを支配していくに値するという政治的論理を立てなければならなかった。その論理がまさに自分の統治権を神聖化させるものだった。王が自分の統治権を神聖化させようとすれば、まず何よりも自分の家系を起こした存在を神格化させることだ。私がここで言いたいのは、王が自分の先祖を神格化させていく過程で開国神話が誕生するようになったということだ。

 東アジアの西部地域に樹立された最初の王国は、夏王国(2205~1766、BC)だと考えられている。前述したように、夏王国の樹立時点は、東アジアの西部地域で青銅器が使われ始めた時期だったと考察されている。黄河中流の夏王国は、440年間続いた後、黄河下流の山東半島の東夷族を支持基盤にして出現した商族に滅亡させられた。また、夏王国を基盤として建設された商王国(1766~1122、BC)は、644年間続く間、黄河上流から黄河中流地域に下ってゆき、そこで勢力を育てた周族によって滅亡された。周王国(1122~256、BC)も866年間持続した。その王朝は黄河の上流地域からその中流に移動し、そこで勢力を育てた秦によって亡ぼされる。秦王国はBC221年に東アジアの西部地域を統一し、15年間続いてから、結局BC206年に漢族(BC 206~AD 222)によって滅亡させられる。

 以上のように、古代東アジアの西部地域では、20世紀の間にかけて五つの王国が既存の王国を崩して新しい王国を建設していった。この場合、各王国は既存の王国を崩して新しい王国を開き、それを何百年かの間維持させていき、さらにそれを繁栄させていく過程で、自分たちの王朝を起こした王を神格化させていった。各王国はそれだけだけではなく、自分たちの先祖たちと言って夏王朝以前の部族長たちまでをも神格化させていったのだ。その過程で形成されてきたのが外でもない、まさに三皇五帝伝説だった。

 三皇五帝伝説はその断片たちが『書経』、『易経』などに表れており、秦国末期の呂不韋(BC235年死亡)によって編纂された『呂氏春秋』にも表れている。しかし、それが現在の形態を取るようになったのは、司馬遷(BC 145頃~BC 86頃)の『史記』の「三皇本紀」と「五帝本紀」などを通じてからだった。ところで、私がここで言いたいのは、東アジアの西部地域ではどうしてBC250~BC100頃の間に西部地域民の開国神話が確立されてきたのか、という問題についてだ。それは次のように説明されうる。前にも言及したように、アレクサンダー大王(356~323、BC)がバルカン半島のマケドニアからインドのインダス川流域に至る地域にヘレニズム帝国(334~30、BC)を建設した。それでそれが3世紀の間持続していったが、その過程で東アジアの西部地域の諸民族はアレクサンダー大王がインドを征服した後、東アジアの西部地域まで攻め込んで行くという話が出たので、西の方から東進して来る異民族たちの諸勢力から民族的脅威を感じざるを得なかった。その結果、彼らは自分たちを脅かす諸勢力の場合のように、東アジア西部地域内の民族的統一を通じて東アジアの西部地域を脅かして来る勢力に対抗してゆくという立場を取っていった。彼らがそういう立場を堅持していった結果、アレクサンダー大王から1世紀後に東アジアの西部地域で生まれた秦の始皇帝(259~210、BC)に至って東アジアの西部地域が最初に統一された。その次に、漢帝国に至ると、そういう統一政局が一層強化されてきた。そういう歴史的状況の中で出現したのが、まさしく三皇五帝神話伝説だったのだ。

 より具体的に言うと、東アジアの西部地域の諸民族が西域の異民族の諸勢力の東進の可能性を意識し始めたのは、戦国時代(403~221、BC)以後だったと把握される。彼らがそういう可能性を意識するようになったのは、西アジアでのペルシア帝国(550~330、BC)の出現とその中央アジアとインダス川流域までの進出があってのことだった。特にペルシア帝国のダリウス大帝(521~486、BC)はペルシア戦争(第1次 BC 499、第2次 BC 490、第3次 BC 480)を通じてボスポロス海峡の向こう側のヨーロッパで、インダス川流域及び中央アジアのタリム盆地に至る大帝国を建設した。彼はその過程でボスポロス海峡の西側のギリシア人たちとの民族的衝突を惹起させた。

 古代ギリシア人たちはペルシア戦争が発生する2世紀半前であるBC776年から4年ごとにペロポネソス半島のオリンピアのゼウス神殿に集まって、彼らが建設したポリスの国々を単位にして体育の祭典を開催していった。このように彼らは自分たちの主神として奉じたゼウス神をほめたたえる、そうした行事を通じて同族意識を啓発していった。彼らは自分たち自身をヘレネス(Hellenes)と呼び、自分たちと違う異民族をバルバロイ(Barbaroi)と呼んだ。古代ギリシア人たちにとってのヘレネスというのは、ヘラス(Hellas)すなわちギリシアの言語と文化を使用している文化人を意味し、バルバロイというのは、自分たちの言語と文化を使わない野蛮人を意味した。古代ギリシア人たちのそういう同族意識は結局、ペルシア戦争を西方の文化民族と東方の野蛮民族との対決へと追い込んだ。

 一方、ペルシア帝国のダリウス大帝はペルシア戦争などを通じて自分が拡張させた帝国を治めてゆく上において帝国の首都スサ(Susa)(後にペルセポリスを建設してそこへ首都を遷す)から小アジアのサドリス(Sadris)に至る「王の道」(Royal Road)を建設し、交通施設と行政組職を整備させた(注34)。彼は、東はインドのインダス川流域、その上流のガンダーラ地域、中央アジアのカラコル山脈、パミール高原、天山山脈地域までを占領し、西の方では小アジア地域西方の向う側のトラキア地域までをも占領したのである。

 それから1世紀半後に出現したアレクサンダー大王も、自分が建設したヘレニズム帝国の世界を支配してゆくことにおいて、先に考察したように、以前のペルシアのダリウス大帝の統治方法をそのまま受け入れた。特にアレクサンダー大王は、ダリウス大帝がペルセ・ポリスを建設し、そこを首都に定めたように、自分が占領したエジプトにアレキサンドリアという都市を建設し、そこをヘレニズム帝国の首都に定めて、そこでギリシア文化を研究するようにした。アレクサンダーの東方征伐の一次的な目的は、彼が高く評価したギリシア人たちの文化を広く拡散させるためだった。彼のそういう目的の実現方法は、彼が征服した各地域に自分の名を付けた都市たちを建て、その諸地域を拠点にしてギリシア文化とギリシャ語を伝播させていくことだった(注35)。特に彼の後継者たちの中の一人であるプトレマイオス一世(Ptolemaeos、在位 305~282、BC)はエジプトにプトレマイオス王国を建設して、エジプトのアレキサンドリアに「ムセイオン」(Mouseion、王室部属研究所)(注36)と公共図書館を開いて、アテネから幾多の学者たちをそこに招聘して、ギリシア文化と学問を研究させ、またヘレニズム世界の統治方案とその思想的基盤を研究させていった。国家的次元での学問の大切さが認識され、学問育成政策が取られるようになったことは、まさにこのヘレニズム帝国時代(305~30、BC)からだったと言える。私がここで言いたいことは、戦国時代末、東アジアの西部地域でもアレキサンドリアで行われた事がそのまま起こったということだ。アレクサンダー大王のそういう帝国建設と彼の後継者たちのそういう帝国経営政策が東アジアの西部地域に知られたことは、アレクサンダーの後継者の一人がシリアを中心にした西アジア一帯と中央アジア地域を基盤として建設したセレウコス帝国(Seleukos Empire、323~60、BC)とそれから独立して現われ出たイラン地域中心のパルティア帝国(Parthian Empire、BC 247~AD 226)を通じてからだった。

 古代東アジア西部地域での学問は、西域のヘレニズム帝国で行われたそういう学風が東アジアの西部地域へと伝えられることによって一層活発になった。たとえば、斉の威~襄王代(357~265、BC)に、斉国の首都、臨淄(現在の山東省臨淄市)に設立された当時の国立大学の性格を帯びた稷下学宮の場合がその一例であると言える。当時の斉国は、エジプトのアレキサンドリアでプトレマイオス一世がそうだったように、その教育機関に満天下から優秀な学者たちを呼び寄せて学問を育成していったのだった。稷下学宮は国立大学の性格を帯びた大学ではあったが、私家たちが主管していた機関だった。当時、東アジア中部地域の諸子百家の大部分は、孟子(372~289、BC)の場合のように、まさにその機関を通じて出現したし、古代東アジア中部地域の学問は、彼らを通じて確立されて現れ出たと言える。また戦国時代(403~221、BC)の末期には魏の信陵君をはじめとした四君子と呼ばれる名声高い者たちがいた。彼らは天下の有能な人士を招致し、それぞれ数百から数千に達する多くの賓客らを従えていた。秦の宰相である呂不韋も力強い国力を背景として、多くのお金を使って天下の有能な人材たちを秦国へと引き入れた。その結果、賓客が3千にのぼるようになった。すると、呂不韋は、彼らの中で学問と才能がすぐれた者等を選り分け、彼らにとってその間聞いてみたものなどの中で重要だと考えられるものなどを記録してみることにした。彼は始皇帝即位初年のBC240年にそれらを集めて、『呂氏春秋』という本を編纂して出版した。それは百科全書のようなもので、それが編纂されてから20年後であるBC221年に始皇帝は天下を統一することになった。

 彼は統一された天下を支配するための方法として、ペルシアのダリウス大帝とアレクサンダー大王が行ったように、まず首都の咸陽を基点にした馳道の建設を行った。始皇帝は首都から東と南へと伸びたこの道路を利用して全国巡回を行った。それで司馬遷は『史記』にこの道のことを、「天子之道」と表現している。それだけでなく彼は、彼らの場合のように、首都咸陽近くに巨大な宮殿である阿房宮を作り、王朝の威力を誇示した。彼は天下統一後8年目に至り、焚書坑儒を断行した。学問に対する彼のそういう立場は、10年を過ぎることができずに秦の滅亡に帰結され、そうして滅亡した秦国を基礎にして劉邦は漢(BC 206~AD 220)を樹立した。

 漢国は、漢武帝(在位141~97、BC)に至り、董仲舒の建議を容れて、孔子が打ち建てた儒学を国学として受け入れ、漢帝国の政治的・社会的な基礎を確立させていった。そうして漢は、儒教の天帝思想を基礎として中華思想を発展させ、それに基づいて西部地域中心の東アジア世界を構築したのだ。ところで私がここで言いたいことは正しく次のことだ。三皇五帝神話伝説が西欧でのペルシア帝国とヘレニズム帝国の中央アジアの占領によって西勢東漸の可能性が予測されて民族的危機意識が形成されてきた雰囲気の中で書かれた諸本を通じて確立されてきたということだ。

 以上のように、東アジアでの三皇五帝のような開国神話が西勢の東進というそういう国際的雰囲気の中でその西部地域諸民族の民族的危機意識の克服方案の一つとして確立されてきたとしたら、東アジアの西部地域での天地開闢神話は前漢代(BC 206~AD 8)の劉安(179頃~122頃、BC)が編纂した『淮南子』、三国時代(222~280)の呉国の徐整が編纂したという『三五歴記』などを通じて確立されてきた(注37)。ところが、前漢代の東アジアの中部地域はパルティア帝国(BC 247~AD 226)と接していた時期だった。パルティア帝国は中央アジアのイラン地域を政治的基盤としてアレキサンドリアの後継者の一人によってシリア地域に建設されたセルレウコス王朝から独立して現れ勢いを増してきていた国だった。当時、漢にはその王国が安息という名前で知られていたが、その王国の浮上とともに漢国からローマに至るシルクロードによる東西文化の交流が活発化するようになった。

 このような状況で西アジア地域でペルシア帝国時代に確立されて現れ出たイラン民族の唯一神宗教拝火教(Zoroastrianism)とかユダヤ教(Judaism)などのような唯一神思想がシルクロードを通じて東アジアの西部地域に流入された(注38)。三国時代は紀元1世紀前後頃から西域からシルクロードを通じて東アジアの中部地域に伝来された仏教が一般化されていった時期だ。それと同時に外来宗教だった仏教が一般化されていった時期は、その間儒教に埋もれていた道家思想が覚醒させられていった時期だったし、また西域からシルクロードを通じてペルシアの拝火教、西アジアのユダヤ教などのような宗教が流入され、結局、唯一神思想に即した世界観が形成されてくるようになった時期でもあった。道家思想というのは、中央アジアの高原地域で出現したイラン民族や西アジアの砂漠地域で出現したセム族が形成させた光明と暗黒という二元論的世界観との接触を通じて確立されてきたと考察される陰陽思想を核心にして形成されてきた思想だ。東アジア西部地域での天地開闢神話は正しくそういう道家思想がシルクロードを通じて東アジア西部地域に流入された西域のそういう諸宗教との接触を通じて確立されてきたのだ(注39)。

 道教思想に関する最古の文献と知られているものは、『道徳経』だ。ところで、それは「黄帝と老子の言葉」と称されている文献だ。また、乾隆帝(1711~1799)の四庫全書総目録に道家の一番目の著書リストに『道徳経』よりももっと先に『陰符経』(目に見えない調和を扱った本として8世紀に再発見されたことになっている)が扱われているのに、それも黄帝の著作として知られている。が、古代東アジアの西部文化がハビロンで由来したというド・ラクペリ(De Lacouperie)は、BC2282年頃に黄帝がそれを西アジアから持って行ったと言っている(注40)。

第3章 古代東アジア古典の思想的基底と西域

1.古代東アジア古典の成立時期

 東アジア東部地域や中部地域で形成されてきた古典たち、例えば『古事記』(712)、『日本書紀』(720)、『万葉集』(759頃)などや、『三国史記』(注41)(1145)、『三国遺事』(注42)(1285)などのような作品は、東アジア西部地域で形成されてきた古典たちをモデルにして成立されてきた。したがって、われわれの東部・中部地域のそれらに対する研究は、西部地域の古典たちに対する研究を必須とする。

 現在われわれに知られている西部地域の古典たちとしては、まず儒教経典として知られている『十三経』を挙げることができるし(注43)、道家思想を扱った書籍では『道徳経』、『荘子』、『列子』が挙げられる。また儒教思想と道教思想の折衷的立場を取って編纂された『呂氏春秋』もある。歴史散文作品として『国語』、『戦国策』(注44)、『竹書紀年』があり、詩文学作品集として『詩経』のほかに、『楚辞』があって、神話作品では『山海経』、『淮南子』などがある。そのほかに諸子百家たちの哲学書として『管子』、『墨子』、『荀子』、『韓非子』などがある。歴史書では司馬遷(145~86、BC)の『史記』がある。

 ところで問題は、このような古典たちがいつ形成されて現れたのか、ということだ。この問題と係わって、まずわれわれが引っ張り出さなければならない問題は、始皇帝の焚書(BC213)だ。この事件が起こったのは、天下統一から8年後の事だった。始皇帝がその事件を起こしたのは、戦国時代(403~221、BC)の後半のBC3世紀以後、東アジア中部地域が秦を中心に統一されていく状況の中で、諸子百家たちが文献を通じて提示する多様な政治的見解たちや諸思想を全部現実政治に反映させてゆくしかなかったからだった。

 焚書事件が起こってから7年後に秦が滅亡し、それを足場にして漢(前漢 BC 206~AD 8 : 後漢 25~222)が興った。漢の高祖(在位206~195、BC)は、自分が自らの手中におさめた天下を治めていくためには、教育を受けた者が必要だということを痛感したすえに、BC201年、朝廷に相応しい儀式節次を案出することにし、それから5年後には有能な人才を抜擢して自分の政務を補助するようにした。漢の第2代皇帝、恵帝(195~188、BC)は、秦の禁令が下されてから22年ぶりであるBC191年に公的にそれを解除させた。すると、一部の学者たちは自分たちが青年期に暗記した経典を修復していった。そういう復元過程で再編纂されたものが現在われわれの目の前にある『詩経』だ。第5代の文帝(180~157、BC)の時には、国家的次元で学問を起こそうと、始皇帝の焚書の時隠しておいた文献たちを献納する制度を作ったし、彼といっしょに全国の年老いた学者たちを集めて、彼らが暗記している経典たちを口述するようにし、それらを筆写させた。

 第7代の武帝(141~87、BC)に至っては、ふたりの有能な儒者を起用したが、公孫弘(BC121死亡)と董仲舒(170頃~120頃、BC)だ。武帝は、彼らの建議を容れて、儒家の思想を国学として採択し、五経博士を置いて儒学以外のすべての学派を朝廷から放逐した。BC124年には、官吏養成のための官立教育機関である太学を設立し、貴族の子どもたちを教育していったし、地方でも儒学を教育させていくことを勧奨していった。そういう雰囲気の中で、朝廷の五経博士を中心に儒教経典を含めた古典整理が活発に行われていった。公安国が孔子の昔の家をこわした時出て来た蝌蚪文字で書かれた『古文尚書』、『礼記』、『論語』、『孝経』を見つけた時点もまさにその頃だった。また、武帝より1年遅く死亡した司馬遷も彼らと同時代の人だった。

 私がここで言いたいことは外でもなく、まさしく次のことだ。東アジア西部地域に古典たちが出現するようになったのは、東アジア西部地域が一つに統一されてきたBC3~2世紀の間の2世紀の間だったということだ。より正確に言えば、それらが整理されて現在の形が取られることになったのは、始皇帝の禁令が公式解除されたBC191年から司馬遷が『史記』執筆を完成したBC91年までの100年間だったということだ。特にBC 140年儒学が国学として採択されて以来それが今文学の次元で研究されはじめることになって、経学が発達することになった。それで司馬遷の『史記』執筆完成以後約1世紀間は別の次元で経学の発達がなされた。とくに宣帝代(74~49、BC)にきては儒学古典の校訂作業を始め本格的な経書整理作業が王室図書館で行われた。その作業を専担した者が、当時の大学者だった劉向だ。彼は全国に人々を送って隠匿された経典を捜し求めた。その過程で六経が整理されまた古文学派が成立したのだ。劉向は新を建設した王莽の国師だった。それで新は今文学という学問よりも古文学を基盤として成立したのだ。こうしてみた場合、東アジアの古典は前漢期の2世紀間に当たって成立したといえる。

2.漢の帝国主義思想と東アジア古典

 100年間の期間は東アジア西部地域で全国を統一した秦を基礎にして出発した漢が漢帝国へと改編されてきた期間だった。この点を勘案してみたとき、果たして何が当時人々をしてそれらを現在の形態へと整理するようにしたものなのか、ということが問題だ。この問いは、BC3~2世紀の間、東アジアの西部地域を統一空間へと形作り秦をして全国を統一せしめるようにし、さらに一歩進んで秦を受け継いだ漢をして帝国へと改編せしめるようにしてゆくようにした、まさにそのエネルギーの源と深く関わっているものであると考察される。

 漢の高祖の建国時点であるBC206年から、武帝の即位時点であるBC141年までの65年間は漢の高祖が秦から受け継いだ全国の領土が維持されていっただけで、領土の拡張のようなことは成り立たなかった。しかし武帝(141~87、BC)に来て初めて漢は帝国としての面貌を取り揃えるようになる。武帝は、西域のパルティア帝国の中央アジア方面への進出によって西北の地域へと侵入して入って来る匈奴を征伐する目的で、BC126年、張騫を西域へと遠征させ、李広利を派遣して大宛国などを征伐するようにした。BC112年に入ると、路搏徳などをして、広東・広西・北ベトナムなどが含まれた南越国を征伐するようにし、その地域に9郡を設置して直接その地域を治めていった。BC108年に入っては、東北方面の衛満朝鮮を滅亡させて、その地に楽浪郡などいわゆる漢四郡を設置し、そこを治めていった。武帝が司馬遷を王室図書を管掌する太史令に任命したのは、彼が衛満朝鮮を滅亡させたまさにその年のBC108年だった。司馬遷はそれから4年の間資料を整理して104年頃から父親の後を引き継いで『史記』を執筆し始めたのだった。

 ところで私がここで言いたいことは、司馬遷の『史記』は東西南北の多くの弱小国たちを征伐し、それらを属国にした武帝の漢帝国の帝国主義思想に即して書いた漢族中心の東アジア史だという点だ。では、武帝をして、そういう帝国主義思想に武装せしめたものは果して何だったのか。西域でパルティア王国はミトリダテス一世の代(171~138、BC)に入って、イランの全地域を支配するようになり、大帝国へと改編されていった。ミトリダテス二世(123~88、BC)に至っては、父王より東西で勢力を拡張させて「大王」の称号を得るようになる。武帝はパルティア帝国のそういう東方進出に対抗して正にそうした帝国主義的立場を取ったのだ。

 武帝のそういう帝国主義政策はその一代で形成されたものでは決してなかった。彼のそういう政策は始皇帝の全国統一政策の拡張を意味するものだったし、彼のそういう思想は始皇帝が全国を統一させた政治的理念とも適合するものだった。前に言及したように、始皇帝は全国統一を果たした後、ヘレニズム帝国のアレクサンダー大王とペルシア帝国のダリウス一世大王の帝国統治方法を取り入れて、統一された全国を治めていった。それらを根拠にして考えてみると、彼にとっての全国統一というのは、まさに東アジアの外部から東アジアへと侵入して来るかもしれない西域の帝国主義諸勢力に対する対抗政策の一種だったということが分かる。始皇帝が富国強兵政策を取り、全国統一の作業を始めたのは、BC238年だった。当時東アジアの西部地域の小国たちは、西北の方面では中央アジアのイラン地域を政治的基盤として成り立ったパルティア帝国(BC 247~AD 226)と接していたし、また西南の方面ではBC327年アレクサンダー大王の侵攻に対抗してインドで最初に古代統一帝国を立てたマウリア王朝(Maurya dynasty、317~180、BC)と対峙状態にあった。特に当時のマウリア王朝の王は第3代アショーカ王(273~232、BC)だった。彼はインドの全地域を統一させた者で、インドの歴史で最も偉大な王として記録されている者だ。このような点を勘案してみたとき、始皇帝の全国統一作業は、東アジア西部地域を取り巻いていた両大帝国の領土拡張政策に対応してゆくための一環策だったと把握される。

 始皇帝のそういう対応政策は、始皇帝代に来て初めて取られたものでは決してなかったと言える。それはすでに春秋戦国時代から始まっていたと言える。春秋時代(770~453、BC)、戎狄の侵入で西周の首都鎬京が陥落させられると、周王室が東方の洛陽から東遷するようになることによって始まった。春秋時代初期、東アジアの西部地域には、100余国が存在した。しかし、春秋時代の末に至ると、12か国に減った。この時代、中部地域の小国たちは、周王室に代わって、尊王攘夷の政治的理念を実現していこうとしたいわゆる春秋五覇によって支配されていった。その最初の覇者が斉の桓公(在位685~643、BC)だった。彼は、管仲を登用して自分の覇業を実現させていったが、管仲はまず中央集権化政策を推進するために富国強兵策を取り、弱小諸国を併合していき、強大国とは会盟を推進していった。それだけでなく、彼らは会盟を通じて、親不孝者を処罰して老人・賢人を尊敬する問題などのような倫理道徳の問題までも扱った。桓公と管仲のそういう政治的目的は、まず夷狄の諸夏世界の侵入を阻むためのものだったのだ(注45)。ところで私がここで言っておきたいのは、春秋時代の覇者たちが取ったそうした政治的理念が当時西域の政治的状況との関連の中で形成されて出てきたものだということだ。

 当時西域は鉄器文明を普遍化させてきたアッシリア帝国の支配の下にあった。アッシリア帝国はアッシュール・ナシルパル二世(在位883~859、BC)に至り、帝国としての形態を取るようになり、それから一世紀後、ティグラト・ピレセル三世(在位745~726、BC)からアッシュール・バニパル(在位669~630、BC)に至る六代の王たちによってエジプト、小アジア、メソポタミア、エラム、アラビアなどが含まれる大帝国を建設した。西域にそういう政治的状況が展開されると、その帝国に接していた東方地域の諸民族は、その帝国からの脅威から免れんがために東進しなければならなかった。東アジアの西部地域での鉄器文明はまさにその過程で形成されて出てきたものだ。

 次に、東アジアでの戦国時代(453~221、BC)の到来は、西域のイラン地域でのペルシア帝国(550~330、BC)の出現と深く関わっていたと考察される。ペルシア帝国はキルス(550~529、BC)、カムビセス(529~522、BC)、ダリウス一世(521~486、BC)の三人の王たちが昔のアッシリア帝国の領土を基礎にして、西はエーゲ海の向こう側のマケドニア地域まで、東は東アジア西部の辺方サカス地域までに亘る大帝国を建設したのだ。東アジアの西部地域の諸夏国は西域のアッシリア帝国の東進からの脅威を免れるために春秋時代以来、併合と会盟などの方法などを通じて統一政策を推進してきた。しかし、BC6世紀中盤に入って、東アジアの隣接地域で以前の帝国よりももっと力強い大帝国が形成されると、東アジアの諸夏国は過去のそういう方法では統一が不可能だということを悟るようになり、その後、武力闘争を通じて天下統一を実現させていくという立場を取るようになったのだ。そういう立場は、ペルシア帝国に最も接していた西北地域の秦と西南地域の楚によって最も強力に推進されていったのだ。

 古代東アジア中部地域での儒教思想というのは、外でもなく、まさしく漢帝国が確立させた帝国主義思想だったが、実はその儒教思想は諸夏国が春秋時代以後、西域の諸帝国からの攻撃にさらされ、その脅威を免れるための方案として統一を推進してゆく過程で成立した思想だったのだ。元々の儒教思想は、西域のアッシリア帝国の勢力とともに鉄器文明が東アジア西部地域に流入され、既存の社会的秩序が崩壊されると、春秋時代中期の孔子(551~479、BC)がそれを再定立させてゆくための方案の一環として成立させた思想だった。ところで当時孔子が最も評価した先人たちの中の一人は、春秋時代初期に尊王攘夷の政治的理念を実現させていった管仲だ。管仲は彼の政治思想が紹介されている『管子』で、天下を国家の根本と見た(天下者国之本也)。彼の尊王攘夷思想も彼のその天下を国家の根本と見た政治観にもとづいたものだった。ところで、かれのそうした政治観は商の上帝思想と周の天帝思想を本にしたものだ(注46)。このようないくつかの点を勘案してみるとき、漢帝国の思想的基盤としての儒教思想は尊王攘夷思想を基底にして成立されたものなのが分かる。それだけでなくわれわれは、漢帝国のそういう思想的基礎が打ち立てられる過程で整理され、現在の形態に文献化されてきた東アジアの西部地域の古典たちの中には、いかなる形態においてでもその中に尊王攘夷を中核にした帝国主義思想が内在しているはずだという立場を取ってみることができる。

3.古代西域の帝国主義国家たちと古典の出現

 以上のように、古代東アジアの西部地域の古典たちが西域の帝国主義国家たちの東進の可能性に対応して漢帝国が確立させた帝国主義思想である儒教思想を礎石にして成立されたものだとしたら、他の諸地域の古典はどうか。まずギリシア、インド、メソポタミアなどの場合を把握してみて、終りに東アジア東部と中部の場合も考察してみることにする。

 古代ギリシアの最古の古典として挙論される叙事詩『イリアッド』(Ilias)、『オディッセイ』(Odyssey)が吟遊詩人によって朗読され始めたのは、BC750年頃のことであった。それらがギリシア・アルファベットによって記録され始めたのは、BC550年頃のことだ。また、それらがパピルス紙で作った継ぎ紙本に書かれたのは、BC6世紀末から5世紀初めと推定されている。その根拠は、当時ギリシアで継ぎ紙諸本が作られ始めたのが、BC6世紀末から5世紀初めだったし、それらが筆写され書籍商人たちによって売られ幾つもの書店ができたのが、BC5世紀の末頃だったと言われているからだ(注47)。ヘロドトス(484~424、BC)がペルシア戦争(492~448、BC)を素材にして『歴史』を執筆したのは、BC431~425年頃と推定されており、プラトン(427~347、BC)の『ソクラテスの弁明』を含めた30編ぐらいの著作品が書かれたのは、BC4世紀初盤のことだった。『イリアッド』は、ギリシア人の武勇を歌ったし、その民族の騎士道精神をほめたたえた叙事詩だった。『オディッセイ』はギリシア民族の単一性と英雄的資質を謳った作品だ。ヘロドトスの『歴史』は、ギリシアのゼウス神に対して敬虔な立場を取ったヘロドトスによって、ギリシアを侵略したペルシア帝国の第四代王クセルクセス一世の傲慢性がギリシアの神によって呪われるようになるはずだという立場で書かれたものだ。

 では、このようなギリシアの古典たちとその内容とはどのように形成されてきたのか。古代ギリシアのポリス国家たちは彼ら民族の共同主神ゼウスをほめたたえるための方案として、BC776年頃からゼウス神殿のあるオリンピアに集まって祭典競技を行っていった。またBC534年に至ると、毎年ギリシアのディオニソス神を讃揚するための一方案として、毎年悲劇競演大会を開催していった。その時以後ギリシア民族にはゼウス神をはじめとしたギリシアの神々を信じる民族はヘレネス、つまり文化人だが、その神を信じない民族はバルバロイ、つまり野蛮人だという思想が形成されてきた。その時代ギリシア人たちにおけるバルバロイというのは異国人で戦争捕虜から取られた奴隷身分そのものであった。ギリシア人たちはそういう思想に即してエーゲ海の向こう側の小アジア地方の人間たちを自分たちの植民地にしていった。ギリシア人たちのそういう帝国主義的思考は結局は、ペルシア帝国のギリシア地域に対する攻撃を惹起させた。ギリシアの古典たちはギリシアのポリス国家たちの国民に彼ら諸民族の共通の神々に対する信仰を基礎にして共同体意識を形成させていった。ギリシアの古典たちはギリシア諸民族が小アジア地方を自分たちの植民地にしていき、またペルシア戦争が起こり、それが持続していく過程で出現した。またそれらはペルシア戦争を通じて前よりもっと強力な帝国主義国家へと改編されてきたスパルタ帝国とアテネ帝国とがポリス国家たちのヘゲモニーを闘い取ってゆく過程で起こったペロポネソス戦争(431~404、BC)の雰囲気の中で出現したとも言える。トゥキディデス(Thukydides、460~400、BC)の『ペロポネソス戦争史』がその一例だ。古代ギリシアの三大悲劇作家たちの作品もまさにこのBC400年代に出現したものだ。これらの悲劇の主題は神々に対する人間の傲慢性を戒めようとするものだったが、そういう戒めは、人間たち特に戦争を起こしてゆく政治家たちの私的欲望を自制させて、またギリシアのポリス国家たちの共同体意識を啓発させ、ギリシア民族中心の帝国主義思想を助長させてゆく意図の下で行われたものだったと言うことができる。

 アリストテレス(384~322、BC)の著作物はアレクサンダー大王(在位336~323、BC)がマケドニアの王位に上ったその翌年のBC355年に彼がアテネに建てた学園「リュケイオン」で行っていった講義ノートが整理され、エジプトアレキサンドリアの「ムセイオン」などで整理され文献化されて生み出されたものである。だから彼の講義ノートは、アレクサンダー大王の東方遠征(334~323、BC)が行われる時期に作成されたことで、その講義ノートは彼の死後にヘレニズム帝国(334~30、BC)の学者たちによって整理本として出刊されたものだと言える。事実上アレクサンダー大王の東方遠征を通じたヘレニズム帝国の建設は、彼の師匠アリストテレスの『政治学』を実現させたものだという見解がある。このような見解は、アテネ帝国の標榜したギリシア民族中心の帝国主義思想に基礎して形成された彼の著作物の中に内在した思想に基礎してヘレニズム帝国の標榜していった人類普遍主義思想が再構築されたという立場を成立させる。事実アリストテレスは帝国主義の中核ともいえる奴隷制度について一言も否定的な話しをしていなかった者でもあった。むしろ彼は『政治学』第一巻第二章で“女性と奴隷に対しては次のような詩句が産まれる。当然野蛮人はギリシア人によって支配されるべきだ。何故ならば野蛮人と奴隷は本質的に同じものだからだ”という話もいっている。彼の師プラトンは彼の著書『国家論』で“卑賤な者は優越な者に支配されるべきであると言っている。彼もその立場を取って理性を所有している者が理性を所有していないものを支配すべきであるという立場を取っている。彼は非ギリシア人が野蛮人の状態に放置されていることよりも文明化されたギリシア人の社会に入って奴隷になっているのがもっと幸福になれるといっているのである。奴隷制度についてアリストテレスの著作物がそういう立場をとっているように、ギリシアの古典たちもそういう歴史的状況下でうまれたといってもよい。つまり、それらが現在われわれの前に置かれた形態で整理されて現在われわれが読むようになった内容・形態を取るようになったのは、ヘレニズム帝国を通じてだったのだ。

 アレクサンダー大王の後継者たちの中の一人によって建設されたプトレミ王朝(305~30、BC)は、建設時点から国立公共図書館と「ムセイオン」という研究所を建立して、プトレマイオス一世(305~282、BC)から四世(222~205、BC)までの一世紀の間、彼らはアリストテレスを含めたギリシアの学者たちが成し遂げたすべての学問的業績を収集して整理し尽くした。その理由は、ギリシア文化をヘレニズム帝国の全地域に伝播させて、ギリシア民族中心の世界を構築してゆくためだった。こうして、BC3世紀にヘレニズム帝国の帝国主義思想が定着してゆく過程でギリシアの古典たちが現在の形態で出現して出てきたのだ。こうしてみたとき、ギリシアの古典たちの内容は、ギリシア民族中心の帝国主義思想を基礎にして形成されたものだと言える。

 インドの古典たちはどうか。それらはベーダ語で記録されたベーダ文学と古典サンスクリット語で記録された古典サンスクリット文学に両分することができる。ベーダ文学は、BC1200~1000年の間に編纂されたブラフマン教の最高の聖典として知られている『リグ・ベーダ』を含めBC6世紀以前に成り立った四種のベーダ賛歌集たちとそれらの解説集たちから成り立っている宗教文学だ。

 ブラフマン教は、イラン地域のアーリア族民族がBC1300~1000年の間に鉄器文明を持って、インド西北のパンジャブ地域、ガンジス河流域などへと侵入して入って行き、そこの先住民を征服して、彼らを奴隷化してゆく過程で形成され現れたものだ。ブラフマン教の崇拝の対象は、自然現象の背後において、ある支配力を行使していると想像される、ある主体だ。ブラフマン階級はそれを人格的主体へと想定して、それを崇拝していったし、彼らはそういう思想に即してカースト制という社会制度を作って先住民たちを制度的に奴隷化していった。その社会制度が形成されてきた過程で賛歌集たちが編纂されてきたのだ。

 では、古代サンスクリット文学はどのように成立されたのか。BC500年代に入ってインドは、もう一度西北のイラン民族からの侵攻に苦しむようになる。その勢力とは、他でもないペルシア帝国だった。インドは、BC600年代までにすでに数十個の部族連盟体で構成されていた。ところが、BC500年代中盤イラン地域で、ペルシア帝国が建設されその勢力がインドの西北に拡張されてゆくと、インド地域の部族連盟諸国は統一国家の建設という目標の下に角逐戦を繰り広げていくことになった。その中で最も際立った王国は、東北部のマガダ王国だったが、その王国はビンビサーラ王(在位582~554、BC)と彼の息子アジャータシャトゥル(在位 554~527、BC)に至り、征服事業を敢行し、インド大陸の強者として浮上するようになった。マガダ王国は、そうした征服事業を通じインドの中北部地域を統一させてゆく過程で、BC518年からペルシア帝国がインドの西北地域を侵攻して来て、結局シンド(Sind)地域とパンジャブ地域が彼らの支配下に入っていった。

 そういう状況が展開される過程で、マガダ国から釈迦(564~486、BC)が出現し、アーリア族から成るブラフマン階級の立場で形成された世界観に反対して、インドの土着人たちから成る奴隷階級の立場で把握した世界観を提示する。このような過程で、BC6世紀頃からウパニシャッド哲学が成立されてきた(注48)。釈迦の晩年に当たるBC 5世紀~BC 4世紀頃には、当時の西北人たちの知識階級の言語を基礎としてサンスクリット語の文法で『アシュターディヤーイー』(Aṣṭādhyāyī)を作って文法体系を確立させた文法学者パーニニ(Pāṇini)も出現する。その後、インドはBC327年に至り、アレクサンダー大王から大規模な侵攻を受けるようになるが、そうした状況の中でパンジャブ地方を政治的基盤としてチャンドラグプタ(在位、321頃~298頃、BC)が建てたマウリア王国(317~180、BC)によってインド全域が統一され立ち現れる。より具体的に言えば、チャンドラグプタの孫、すなわちマウリア王朝の第三代アショーカ王(273~232、BC)に至ってはインド半島(準大陸)も南端部のタミール地域を除いた全インドが統一された姿を現したのだ。

 一方、イラン地域では、パルティア王国(BC 247~AD 226)が建てられ、それに引き継いでササン朝ペルシア(226~651)が登場したが、その期間、北インドの西北地域はバクトリア(Bactria)、シャカ(Sakya)、中央アジアの遊牧民族であるクシャン族などによって支配されていった。クシャン朝は2世紀頃のカニシカ王の時が絶頂期だったと言えるが、カドペセス二世の時にはインダス川の河口でヒンドゥークシ山脈地域までを占領下に収めた。このようにインドは、BC2世紀から紀元後3世紀に至る期間に多くの王朝たちが乱立する混乱期を経験したが、このような状況の中でBC1世紀頃からは新しい仏教運動が起きて、『般若経』『法華経』『華厳経』などのような大乗仏教の諸経典が整理され、サンスクリットで書かれてきた上に、ブラフマン中心のブラフマン教が民衆的要素を吸収して紀元3世紀頃に至ると、インド特有のヒンズー教へと切り替わってきた。このような雰囲気に乗じて、インドの国民的二大叙事詩である『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』が整理され、サンスクリットの古典たちが出現してきた。

 この二大叙事詩は、BC数世紀前ごろからすでに整頓された形態を取り揃えるようになっていたが、それらがサンスクリットで記録され現在の形態を取るようになったのは、『ラーマーヤナ』はクシャン朝のカニシカ王の時の2世紀頃で、『マハーバーラタ』は4世紀頃だ。それでそれらはウパニシャッド書とともにヒンズー教の聖典として扱われていった。西北インドの仏教詩人、アシュバゴーシャ(Aśvaghoṣa、100頃~160頃)の作品で古代サンスクリット文学の最古の作品だと評価されている仏教叙事詩『仏陀の生涯』(Buddhacarita)もまさにこのクシャン朝のカニシカ王の時に書かれたものであると知られている。

 一方、インドで最初に帝国の形態を取った王朝は、グプタ王朝(320~530)だと言われている。このグプタ朝は、イラン地域で過去のアケメネス・ペルシア帝国の復興を目標として出現したササン朝ペルシア帝国(226~651)に対立して出現した王朝だ。ササン朝ペルシア帝国がゾロアスター教の理念を基盤とする神政国家の性格を帯びていたから、グプタ朝もその勢力に対立して古代インド文化の復興を目標にしてブラフマン教を背景に成立されたヒンズー教を奨励していき、その宗教的教理を一般化させていくための方案として、古代サンスクリット文学が奨励された。そのような理由から、インドでの古代サンスクリット文学はまさにこの王朝の代に初めて開花したのだ。

 西アジアでメソポタミア、シリア、エジプトなどの地域たちを最初に統一させた国は、アッシリア帝国(911~612、BC)だった。その帝国の全盛期は、ティグラトピレセル三世(746~727、BC)からアッシュール・バニパル(669~630、BC)の間であると把握されるが、問題は人類最古の古典であると同時に古代メソポタミア地域の最古の古典として評価されている『ギルガメッシュ叙事詩』(Epic of Gilgamesh)がアシュバルパル王の代に今の形として出現したということだ。アシュバルパル王は、アッシリアの最高の神アシュールの聖典が存在する地域に図書館を建てた。彼はメソポタミア地域からだけでなく、小アジア、エジプト地域などからも粘土版図書など各種の諸図書を収集し、そこでそれらを研究していった。その過程で彼は、そこに『ギルガメッシュ叙事詩』の粘土版も収集し、それを整理しておくようになったのだ。『ギルガメッシュ叙事詩』はその大部分がBC2000年代初盤にすでに書かれていた。しかし、BC7世紀に来てアシュバルパル王国がそれらの粘土版たちを収集し、現在の形態へと完成させたのだ。彼がそれを整理し、その作品を現在の形態へと完成させておいた主な理由は、当時エジプトとイランなどを侵攻した彼の帝国主義的態度と、何らかしらの形態において深く関わっていたはずだ。

結論

 今までわれわれは、古代東アジア西部地域での古典の成立背景のことを考察してみた。その結果、われわれはここで結論的に次のようなものが話せる。

 まず第一に、古代東アジア西部地域の古典は、帝国主義を思想的基底にして形成されてきたということで、それらの形成に影響を及ぼした古代西域の古典も帝国主義思想を基底にして出現したものだということだ。

 第二に、以上のようないくつかの点を考慮して、古代東アジアの東部地域の諸古典の成立経緯を考察してみるとき、われわれは次のようなことが言える。東部地域の古典『古事記』『日本書紀』などはまず一次的に西部地域の帝国主義思想が制度化される過程で出来た儒教思想の影響下で成立された。より具体的に言うと、このような東部の古典たちは、帝国主義思想を通じて確立されたもので、特に天帝思想を主軸にした儒教思想に基づいて成り立っているものである。

 第三。古代東アジアの東部地域の諸古典の成立経緯も当時東アジア東西部地域の国々の帝国主義的政策と深く関わっている。大和朝廷は、韓半島(朝鮮半島)に派遣した日本軍が白村江の戦い(663)で唐軍と争って敗れ、また高句麗が668年、羅唐連合軍によって滅亡させられると、羅唐連合軍が日本を攻撃して来る可能性があると判断したあまり、そういう可能性に備えその時から中央集権的政治体制を確立させ帝国主義的国家形態を取ってゆくようになった。その過程で、『古事記』『日本書紀』などのような古典たちが出現するようになったのだ。

 第四。当時そういう帝国主義国家の形態を構築してゆく上で、『古事記』と『日本書紀』の役割はその当時の人々に自然の一部分である天を最高の神と認識させることであった。また自然を歌った詩集『万葉集』(759頃)の役割というのは何であったかという問題が提示される。それは人間たちが『古事記』『日本書紀』などが提示した天神、すなわち自然を支配してゆく最高の神が起こしてゆくなどと認識された自然の多くの諸変化現象を観察し、その理と本質を悟り、彼らが自然現象を起こしてゆく天神をいっそうもっと崇拝してゆくようにし、またその存在といっそうもっと親密な関係を作っていくようにすることだったと言うことができる。

 第五。東アジア東部地域でのこのような現象は、近代以後にもまったく同じく起きた。19世紀に入って近代西欧の帝国主義諸勢力が東アジアに群がって来て、東アジアの西部地域を占領していった。すると、その東部地域にある国家は、自国の国家的危機意識に直面しなければならなかった。その結果、東部地域の国家は、国家的危機克服の一環として、近代西欧の帝国主義国家をモデルにして、素早く帝国主義国家へと切り替え始め、近代西欧の帝国主義国家たちと競争しつつ、東アジアの中部地域を占領していった。さらに、東アジアの東部地域の国家は、近代西欧帝国主義諸国の東アジア地域に入って来る進入路だった西部の北部地域までも自分たちの植民地にした。こうして東部地域国家は近代西欧帝国たちの東アジア侵略に備えていき、また中部・西部地域に対して帝国主義的侵略行為を行っていく過程で、東部地域では古代帝国主義思想の内在した古典たちが積極的に研究されていった。また、そういう古典たちとそれらを研究してゆく人材たちが基礎になって、「国文学」という学問分野が成立されてきたのだ。

 第六に、東アジア西部地域の古典たちは漢帝国が自分たちの帝国主義政策を推進させていき、またそれを確立させていくための手段だったということだ。漢帝国における諸古典の存在理由は儒教思想を礎石にした儒教社会を確立させていくことにあると見られるが、この場合での儒教思想というのは天帝思想を主軸にして形成されてきたもので、漢帝国はそうした儒教思想を通じて帝国主義思想を実現させていったということだ。このようにして東アジア西部地域での儒教思想と、その根幹を成す天帝思想などが漢帝国の帝国主義政策が行われる過程で確立されてきたとするなら、東部地域の場合では西部地域のそういう帝国主義思想をモデルにして神道思想というものが彼らの帝国主義思想の基底として形成されてきたということだ。

 第七。東アジア中部地域の代表的な古典は『三国史記』(1145)『三国遺事』(1285)だ。北方の遊牧民族である遼、金(1115~1234)、元(1279~1368)などの国々が中部地域へ攻めてきたとき、その地域の民族が自分の民族的危機意識を乗り越えていく過程で作り出したものであった。前者は儒教思想を、後者は仏教思想を各々背景にしていたのだ。

 第八。東アジア西部地域の古典たちは西域文明の東進という文化的現象を背景にして成立して現れたということだ。より具体的に言うと、西部地域のSVO型の統辞構造を取った言語、漢字などのような文字、道教などのような思想、天帝思想、金属器文化などが西域文明の東進という文化的現象を背景にして形成されてきたということだ。

 第九。東アジア西部地域の諸古典の思想的基底として把握されうる帝国主義思想は、西域帝国たちのそれからの影響の下に成り立ったということだ。古代ギリシアの場合、ポリス同盟国たちの帝国主義意識はゼウスを最高神にしたギリシア神話を確立させたし、またその神話に対する信仰如何に基づいて文化人と野蛮人を分ける思想を創出させた。ペルシア帝国の場合は帝国主義思想の論理的根拠としてゾロアスター教を確立させたし、インドでのアーリア族の場合はブラフマン教を、インド内における土着インド人たちの場合はヒンズー教を、それぞれ新たにつくり出したのだ。西域諸地域の諸古典もまた、このような様々な帝国主義思想を思想的基底にして出現されたものだということだ。

 第十。以上のように各地域の諸古典の思想的基底に敷かれている帝国主義思想は、結局は古代の諸国家に施行された奴隷制と深く関わっている。古代社会での大部分の奴隷たちは、戦争捕虜出身たちだ(注49)。青銅製の武器が出現すると、古代人たちはそれらを他の集団より早く手に入れるか開発して、それらを持って他の諸民族を侵略し、彼らを征服していった。そういう侵略戦争で勝利した民族は、敗れた部族や王国の民たちを自国に連行して、自国民たちの奴隷としていった。戦勝国の王は、彼らを使って神殿、城、堤防、道路などを建設しつつ、他の諸地域を侵略し、より強い国家を建設していった。一人の王や王家を主軸にして形成された各民族の構成員たちは、他民族との戦争で敗れれば他民族の奴隷にならざるを得ないので、戦争で敗れては決してならないという意識に囚われていた。正しくそういう意識が一般化され、結局、王と王家を中心にした人間集団に、民族意識というものが形成されてくるようになったのだ。古代における帝国主義思想というのは、正しくこのような民族意識に基礎して形成されてきたもので、なによりも他民族の奴隷にならないために他民族を自分たちの奴隷にし、他民族の領土を自分たちの植民地にして彼らを支配してゆくことで、自国の安定と平和を維持させていかなければならないという思想から始まったものだった。

 第十一。古代の諸国家で奴隷制が維持されるためには、まず戦争が起こらなければならないし、戦争捕虜を捕らえねばならない。次に古代国家の運営者らは、戦争捕虜たちが他国で奴隷の身分で自分たちの暮らしを維持してゆける存在論理を彼らに提供し、彼らにとってそれを内面化してゆくようにした。この場合、古代国家の運営者たちが新たにつくり出した存在論理というのは他でもない開国神話や創造神話だったのであり、また奴隷などのような被支配身分の人間たちが自分たちの支配者たちのそういう支配論理を受け入れていく過程で、音楽、文学などのような芸術ジャンルたちが成立されてきたということだ。

 第十二。現在近代ナショナリズムに基づいて形成されたわれわれの倫理道徳意識も基本的に支配思想を中核にするそういう帝国主義思想を基礎にして確立されてきたものだし、またそういう意識たちも古代のそういう帝国主義思想の確立手段だった諸古典を通じて啓発されて出てきたということだ。

 第十三。われわれの意識はそうした古典によって慣らされたものである。それでわれわれはその古典から出てその古典の持っている短所を見つける必要がある。

 第十四。人類の歴史は神中心の歴史から人間中心の歴史を経て、宇宙中心の歴史へと切り替わっていっている。すでにわれわれは宇宙中心の立場、より具体的に言ってグローバリズムの立場で神中心・人間中心の歴史がかつてつくり出した諸文化を眺めることで、それらの真面目を探り出さなければならないということだ。

 第十五。現在われわれは、地球から宇宙に出て宇宙にある多くの人工衛星から地球上のすべての諸現象を観察していくことができる視角を確保した。その視角の中には東アジアも入って来ているし、西アジアも入って来ている。ユーラシア全体が入って来ている。それだけではない。その視角の中には近現代も入って来ているし、古代と先史時代もすべて入って来ている。このグローバル的視角の中には空間だけではなく時間までも入って来ているのだ。したがって、今われわれはあのアインシュタインが取ったこの宇宙論的視角を持って地球上で起きる文化的諸現象を把握しなければならない時代を迎えるようになったということだ。

〔注〕

(注1)古代ギリシャ語で「日が昇る所」を意味するアナトリコス(Anatolikos)から出た言葉。
(注2)郭大順ほか著、キム・ジョンヨル訳『東北文化と柔然文明 –上』、東北亜歴史財団、2008、p.534。
(注3)鄧蔭柯著・訳『古代発明』、大家、2008、p.41。
(注4)北京大学中国伝統文化研究中心編、チャン・ヨンほか訳、『中華文明大視野』、キムヨン社、2007、p.63。
(注5)许进雄著、ホン・フィ訳、『中国古代社会』、東文選、1998、p.20。
(注6)同上書、同ページ。
(注7)中国最初の正史、本紀(年代紀)と列伝(個人の伝記)から構成される紀伝体を出現させた歴史散文。
(注8)晋の恵帝代(290~306)の崔豹が編んだ『古今注』に収録 : 漢四郡時代(BC 108~AD 313)のものと推定。
(注9)BC 17年高句麗第二代王琉璃王の作として知られている、『三国史記』(1145)に収録。
(注10)駕洛国の始祖である首露王の降臨神話の中に添えて伝えられている四句体の歌謡の漢訳歌の形態を取る。AD 42年作と知られており、『三国遺事』(1285)の「駕洛国記」に挿入されている。
(注11)郷札で表記された最初の古代歌謡、579~632、『三国遺事』に収録。
(注12)『三国志』の一部を成す『魏書』の「東夷伝倭人」参考。
(注13)スティーブン・ロジャー著、パク・スチョル訳、『文字の歴史』21世紀ブックス、2010、p.46。
(注14)BC11~6世紀の間の周を含めた斉、陳など8か国の言論を記録したもの。
(注15)BC772~BC468の間の周王朝と各諸侯国の重要な歴史的諸事実を記録した本。
(注16)周(1122~255、BC)は、紀元前770年に西戎の侵入で鎬京から東方の洛陽(洛邑)へと遷都した。
(注17)隷書はもともとは秦代に形成されたものだが、それが一般化されてきたのは漢代だった。秦の始皇帝は、全国統一直後、丞相李斯の請願を容れて、自分たちが使っていた大篆を小篆に変えて、それで文字を統一させていった。しかし、その後また始皇帝は、一下級官吏が獄中生活の中で小篆をもっと簡略化して作った隷書体で文字統一を行うようにした。その結果、漢代へ来て、それが一般化されてきたのだ。現在われわれは印鑑や碑文などを通じて隷書に接することができる。隷書は、漢代に古文に対して今文として知られたもので、始皇帝の焚書以前の古文に対する近代文の基礎になった文字体だ。現在われわれに知られている漢字体は、楷書体だが、それは隷書を基礎にして漢代末に形成されてきて、六朝を通じて確立されてきものだ[キム・テワン、ヤン・ヒソク『漢字、漢文、そして中国文化』、全南大学校出版部、2008、p.76]。
(注18)中国で筆墨が使われたのは戦国時代(403~221、BC)からだが、それが使われる以前には木や竹の短冊の巻物の先に漆を塗って書いたので字の点画が、頭が厚くて終りが細く、字の形が蝌蚪(お玉じゃくし)の形をしているので、それを科斗文と呼んだという[孔安国『尚書』「序」]。
(注19)諸橋轍次『大漢和辭典』「科斗文」参考。
(注20)C. J. Ball, Chinese and Sumerian, London, 1913, pp.13-14。
(注21)I. J. Gelb, A Study of Writing, Chicago, 1963, p.24。
(注22)M. A. Powell, "Three Problems in the History of Cuneiform Writing: Origin, Direction of Script, Literacy," Visible language, ⅩⅤ(Autumn 1981), p.431。
(注23)Terrien de Lacouperie, Western Origin of the Early Chinese Civilisation, Osnabruck Otto Zeller, 1996, p.4。
(注24)元亨甲『詩経の謎』、翰林院、1944、p.34。
(注25)東アジア諸国家の言語構造は、アルタイ語のSOV型と中国語のSVO型に両分されている。中国の西北方のチベット語、北のモンゴル語、北東の方の満洲語、東の韓国語と日本語、南方のビルマ語などがSOV型に属しており、南側のベトナム、タイ、マレーシアなどが中国語と等しいSVO型に属する。われわれがここで中国人たちが南下してベトナム・タイ・マレーシア人たちになった、またアルタイ語のSOV型がこの地球上に中国語のSVO型より先に出現したという点を勘案してみるなら、われわれはSVO型を取る中国語が東アジアの外から東アジアに流入して入って来たのだという立場を取らざるを得ない。言い換えると、われわれはここで、言語の統辞構造が共通セム語が取っているSO(名詞文)あるいはVSO(動詞文)型から出発してウラル語・アルタイ語・アーリア族語・インド語・チベット語などが取っているSOV型を経てヨーロッパ語・中国語が取っているSVO型へと発展していったという立場が言語学者たちによってだされているということを念頭に置く必要があるのだ。
(注26)de Lacouperie, Western Origin of the Early Chinese Civilisation, Osnabruck Otto Zeller, 1996, p.4。
(注27)周の大占術が太卜はこれら三つの『易経』を皆持っていた[アルフレッド・フォルケ著、ヤン・ジェヒョクほか訳、『中国古代哲学史』、ソミョン出版、2004、p.57参照]。
(注28)『書経』は、紀元前20世紀頃からBC 8世紀までの夏・商・周などに関する歴史を記録したものだ。夏・商・周という最初の三つの王朝では、王室に公式的な史官が存在した。彼らは占い師だった。『呂氏春秋』には、夏王朝の年代記編纂者である終古の名前が記録されている。『史記』は、孔子が東周の首都洛陽にある王立図書館で、『書経』を見つけ、それを新たに出刊したと言っているし、孔安国は、BC 90年孔子の宗家で孔子が出刊したその本を見つけたと言っている。『書経』にある尭・舜・禹などに対する記録部分は、彼らの時代に記録されたものではなく、夏代や商代に彼らの時代の記録たちを集めて編集したものと見られる[アルフレッド・フォルケ著、ヤン・ジェヒョクほか訳、『中国古代哲学史』、ソミョン出版、2004、p.37~44参照]。
(注29)『易経』によれば、彼はBC 2852年に政権を取った者だとしている[アルフレッド・フォルケ著、ヤン・ジェヒョクほか訳、『中国古代哲学史』、ソミョン出版、2004、p.57参照]。
(注30)『書経』「商書」、高宗肜日 : “惟天監下民,典厥義,降年有永有不永”
(注31)燕燕于飛, 差池基羽 / 之子于歸, 遠送于野 /
(注32)日居月諸, 照臨下土 / 乃如之人兮, 逝不古處 / 胡能有定, 寧不我顧
(注33)Edwin O. Reischauer・John K. Fairbank, East Asia : The Great Tradition, Houghton Mifflin Company: Boston, 1960, pp.146-147。
(注34)Henry C. Boren著、イ・ソグ訳、『西洋古代史』、探求堂、1983、p.131。
(注35)その拠点都市たちは、小アジアのトロアデ、シリアのイソス、エジプトのナイル川河口、メソポタミアのカラックス、ペルシア、インダス川の中流、現在のアフガニスタン、トルクメニスタン、天山山脈入口地域などに建てられた。
(注36)アリストテレス(384~322、BC)がアテネに設立した「リュケイオン」(Lykeion)という学園をモデルとして建てたもの。
(注37)『日本書紀』(720)における「天地開闢」に関する記述は、『淮南子』と『三五歴記』のそれらに基づいて成り立ったと見られている[神野志隆光『古事記と日本書紀』(講談社、1999), pp.117~178]。現在、『三五歴記』は消失した。しかし、その内容の一部が『太平御覧』『芸文類聚』などに残されている。われわれは、『三五歴記』の天地開闢神話は、盤古の天地開闢神話だと推定している。盤古の天地開闢神話には、「天地がたまごのように混沌としていた状態であった時、その中で盤古が生まれたが、それから一万八千年が経った。その時点で空と地が開かれたが、明るくて清いものは空となり、暗くて濁ったものは地になった。盤古は、その中に存在して一日に九回変化したが、空を見て神秘的で、地よりも神聖だった。」などというような内容が収められている。ところが、『日本書紀』(720)の冒頭にも天地開闢の状態を『三五歴記』の場合と同様に「天地がたまごのように混沌状態」(混沌如鶏子)という表現で記している。
(注38)拝火教の創始者はゾロアスター(Zoroaster, 630頃~553頃、BC)だが、彼は唯一神思想に即して宇宙的二元主義を主張した。拝火教は次のような原理に即して成り立った宗教だ。唯一神アフラ・マズダ(Ahura Mazda)は、光と秩序と正義の神で、善を志向する。ここに対立されるアフリマン(Ahriman)は、暗さと混乱と不義の神で、悪を志向する。この拝火教の原理は、西アジアのシリア地方におけるユダヤ教の原理形成にも影響を及ぼした。B.C.5世紀頃から成り立ち始めたと言うユダヤ教の聖書『旧約聖書』の創世記は、「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」(第1章1~5)で始まる。拝火教の原理は、東アジア西部人たちの世界観形成に影響を及ぼした。その結果、西アジア地域ではB.C.5世紀から紀元1世紀の間にユダヤ民族を中心に『旧約聖書』の創世神話が出現してきたし、東アジアの西部地域では『淮南子』の天地開闢神話が出現するようになったと言える。劉安の『淮南子』は、彼が数多くの文章家たちを集めて彼らをして文を書くようにし、彼らが書いた文を編んで編纂した本だった[ギム・ドクヤンほか著、『中国文学思想』、青年社、1990、p.133]。
(注39)劉安(179頃~122頃、BC)の『淮南子』には、「女媧補天」の神話がある。ここで女媧は、混沌とされた世界を直し、それを治めていった者として描かれている。また、他の記録では、彼女が天地開闢の偉業を果した者で、人類を含めて宇宙万物を創造した者で、偉大な神として記述されている。後漢の時、應劭がものした『風俗通儀』には、女媧が天地開闢の初期に人がいなかったので黄土を醸して人を作ったという話がある。この場合の女媧は、『旧約聖書』の「エホバ」から取られた可能性を排除することができない。
(注40)アルフレッド・フォルケ(Alfred Forke)著、ヤン・ジェヒョク(梁再赫)ほか訳注、『中国古代哲学史』、ソミョン出版、2004、p.46。
(注41)この書が出る前に『旧三国史』というのが有ったといわれている。この書はそれを含めて、基本的に高句麗で一世紀頃書かれた『留記』(100巻)、600年に書かれた李文真の『新書』(5巻)、百済で375年に書かれた高興の『書記』、新羅で545年に書かれた居漆夫の『国史』等を基にして出来あがった。しかし、この底本と考えられるこれらの本は全部遺失された。この書の資料として使われたのは韓半島からは『三韓古記』、8世紀初金大門の『高僧伝』、『花郎世紀』、崔致遠の『帝国年代暦』などであり、中国側からは、『後漢書』、『三国志』、『晋書』、『宋書』、『梁書』、『南北史』、『隋書』、『唐書』、『新唐書』、『通典』、『冊府元通』、『資治通鑑』、『古今郡国志』、『新羅国記』(9世紀半ば唐人の令狐澄の作)(金富軾著・辛鎬列註訳『三国史記』、東西文化社、2007、p.11)
(注42)僧一然が中国梁の慧皎(496~594)の『高僧伝』、『唐高僧伝』、『宋高僧伝』などを参考に編纂したもので、神話・伝説で編まれているものである。当時高麗は来襲した蒙古軍の武力で完全に蹂躙されてしまった。高麗政府が武臣権力を維持していくために何の代案もなく江華島に政府を遷していくことによって国民たちの命は蒙古軍の刃に露のように落ちた。このような現実を目撃した一然は参禅のようなものではその問題を解決することが出来ないと考えてわが民族の主体について苦悩した。わが民族を永遠に生かしていく方法が何であるかを深く考えたのであった。その結果彼はこの書を書くことになったのである。(一然著・朴性奎訳『三国遺事』抒情詩学、2009、pp.19~23)
(注43)「十三経」は、『詩経』、『書経』、『周易』、『春秋』、『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』、『春秋左伝』、『礼記』、『儀礼』、『周礼』、『論語』、『孟子』、『孝経』、『爾雅』だ。
(注44)『戦国策』は劉向(79頃~8頃、BC)の作として知られているが、その著者をめぐる論争も後を絶たない。無名氏説、劉向を中心にした多くの人の参加説、縦横家を学んだ人の著作説、劉向一家の学問説などで、まだその論争が終結していない。
(注45)李春植『中國古代史の展開』、藝文出版社、1986、p.96。
(注46)商の上帝思想と周の天帝思想はメソポタミア地域のシュメール神話からの影響下でなされたといえる。
(注47)ライオネル・カッソン(Lionel Casson)著、キム・ヤンジンほか訳、『古代図書館の歴史』、ルネサンス、2003、p.70。
(注48)その根本思想は、万有の根本原理を探求して大宇宙の本体であるブラフマン(Brahman : 梵)と個人の本質であるアートマン(Ātman : 我)が一体であるという梵我一如の思想で、観念論的一元哲学だと言える。それは、紀元後3世紀に至って完成され、当時成立して立ち現れたヒンズー教の思想的基盤としての座を占めるようになる。
(注49)他国へ連行されて行った戦争捕虜たちは、自分たちの言語とは違う言語を使う自分たちの管理者たちに、自分たちの感情や考えを言語では伝達することができない。それで戦勝国民たちの奴隷になった彼らは、打楽器や管楽器、あるいは自分たちの声を伝達するしかなかった。奴隷たちが自分たちの管理者たちに各種の音で自分たちの感情と考えを表現してゆく過程で、音楽芸術が誕生するようになったし、歌詞を伴う歌が歌われる過程で、詩あるいは叙事詩などのような文学芸術が成立し出現するようになったのだ。このように古代文学の成立は、奴隷制度の出現と深く関わっているのだ。古代における叙情詩が奴隷たちや被支配者たちの立場で詠まれたものだと言えるとするなら、叙事詩の場合は、奴隷主と支配者階級の立場で詠まれたものだと言うことができる。歴史が支配階級の語ったものであるとするならば、寓話とは被支配階級の立場で語られたものだといえる。

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