比較文学比較文化研究室

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研究室紹介担当教員紹介大学院学部後期課程

授業内容一覧

平成28/2016年度授業科目一覧

科目名(担当教員) 講義題目・内容
多元文化構造論I
(前島志保)
[S1S2 / A1A2ターム]「明治期の新聞・雑誌を概観するIII」
(S1S2ターム シニア共通「比較文学比較文化特殊研究I」)
新聞・雑誌といった定期刊行物はこれまでは様々な研究の資料として扱われることが多かった。そのメディアとしての在り方自体が注目されるようになったのはごく近年のことである。また、新聞・雑誌自体が研究対象となる場合も、両者の境界を越えて考察されることは稀であった。本講では、明治期の主な定期刊行物のいくつかを取り上げ、刊行頻度、大きさ、紙質、レイアウト、編集傾向、文体、記事ジャンル、視覚表象の用いられ方、取り上げられる話題の傾向などに着目して調査・分析することを通して、言説を盛る器・コミュニケ―ションの媒介項としての新聞・雑誌がどのように変遷してきたのかを具体的にたどっていく。今年度は明治中期~後期の新聞・雑誌を取り上げる予定。
多元文化協力論I
(佐藤光)

[S1S2ターム]「イギリス児童文学と岩波少年文庫を考える」
(シニア共通「比較文学論I」)
「イギリス」とは何か?「児童文学」とは何か?という非常に重要な問いはさておき、イギリス児童文学とみなされるテクスト群からいくつかを選び、履修者の皆さんに内容と論点を報告していただきます。一回に一作品を扱いたいので授業では翻訳を使用しますが、あわせて原書を読んでみましょう。裏のテーマは、岩波少年文庫とは何か、です。

民俗社会論I
(渡辺美季
[S1S2ターム / A1A2ターム] 「近世琉球と中国・日本」
近世期(1609-1879年)の琉球は、中国・日本と二重の君臣関係を有しながら、そのどちらにも包摂されずに王国を維持した。この授業では、近世琉球に関わる文献や史料を講読し、琉球および琉球と関わる国や地域を比較し、近世東アジアにおける国・通交・境界・秩序等について議論と考察を深めることを目的とする。今年度は1801年に薩摩を旅したある熊本藩士の紀行文の講読などを行い、日本が琉球をどのような存在として認識していたのかという点について重点的に検討する予定である。
神話と文化I
(徳盛誠)

[A1A2ターム]「本居宣長『古事記伝』会読」
本居宣長『古事記伝』の個々の解釈や考証を丹念に読み理解することを基本としながら、その方法や意義、思想的影響、同時代状況との関わり、「神代」解釈の伝統との相剋、等々、参加者の多様な関心からこの書物を問い、それがつくりだしたものを考えます。

基層文化形成論I
(田村隆)
[S1S2ターム] 「『浜松中納言物語』を読む」
この授業では平安時代後期成立とされる『浜松中納言物語』を輪読する。「仮名文学」でありながら、物語の巻一は女性も漢詩文を詠み交わす唐の国が舞台であり、『うつほ物語』や『源氏物語』などの変奏といえる側面も持っている。テキストの一語一語にこだわりながら、この物語の独自性や先行作品の影響などについて考えてみたい。底本には東京大学文学部国文学研究室蔵本居文庫本の複写を用いる予定である。
文化コンプレクシティ演習I
(大石紀一郎)

[S1S2ターム / A1A2ターム]
S1S2ターム「「想起の文化」の批判的考察(1)」
現代ドイツで独特の発展を見た「想起の文化」に関して考える。

A1A2ターム「「想起の文化」の批判的考察(2)」
現代ドイツで独特の発展を見た「想起の文化」に関して考える。

文化コンプレクシティ演習II
(谷口洋)

[S1S2ターム / A1A2ターム]「漢文とその思考の型を、読解の実践を通じて学ぶ 」
東アジア文化の研究者として必要な漢文資料の解釈能力を錬成する。
漢文という文体にまとわりつく思考の型を、読解という行為を通じて体感的に学ぶ。

文化コンプレクシティ演習III
(桜井英治)

[A1A2ターム]「戦国時代の社会と文化」
戦国から織豊期にかけて薩摩の大名島津家に奏者・家老として仕えた上井覚兼(うわい・さとかね)の日記『上井覚兼日記』を読む。当主島津義久の日々の政務にかかわる記事を中心に、武士の生活や文芸、価値観、さらには北九州以北にはみられない、南九州特有の社会構造をうかがわせる記事なども多数見られる。使用されている漢文も、多数の九州方言を含む独特なもので、けっして平易とはいえないが、言語学的にもきわめて興味深い素材といえよう。この史料から何をつかむかはひとえに銘々の関心次第だが、歴史学・文学・言語学・社会学・文化人類学・民俗学など、さまざまな分野からの受講者を広く期待している。今年度は天正2年(1574)11月20日条からはじめる予定である(ただしテキストに関しては受講者との相談により変更することもありうる)。

文化コンプレクシティ演習IV
(梶谷真司)

[S1S2ターム / A1A2ターム]「規範に関する歴史哲学的研究」
「規範」について、哲学、社会学、歴史学など、多面的に考察する。

文化コンプレクシティ演習V
(斉藤渉)
[S1S2ターム / A1A2ターム]
S1S2ターム「フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』を読む」
M. フーコー(1926-1984)の『監獄の誕生――監視と処罰』(1975)は、近代ヨーロッパにおける刑罰システムの成立を論じた著作ですが、その射程は監獄だけでなく、工場や学校など、近代において鍵となる社会制度にまで及びます。膨大な史料を駆使しながら提示される歴史的考察と鮮明で鋭利な理論的思考との結合が、本書の特色であり魅力だといえるでしょう。近代に対する批判的な自己理解には何が要求されるかを考えていきたいと思います。

A1A2ターム「フーコー『知の考古学』を読む」
M. フーコー(1926-1984)の『知の考古学』(1969)は、彼が書いたもののなかでも異色の著作であり、方法論を主題的にあつかった唯一の書物といえます。このフーコーの「方法叙説」は、先行する著作(『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』)に繰り返し言及していること、ほとんど注らしい注がないことなど、テクストとしても特異なものです。明快に見えてきわめて難解なこの著作にじっくり時間をかけて取り組んでいくことが、この授業の目的です。

比較詩学I
(菅原克也)

[S1S2ターム / A1A2ターム]
S1S2ターム「夏目漱石『虞美人草』を読む」
夏目漱石の『虞美人草』を具体例としてとりあげ、小説のテクストを読むにあたっての手続を確認してゆく。先行研究としての「漱石論」を参照するが、授業ではテクスト分析に重きをおく。

A1A2ターム「萩原朔太郎『青猫』を読む」
萩原朔太郎の詩集『青猫』に収められた詩を読みつつ、詩の精読のための手続を学ぶ。

比較詩学II
(田口一郎)

[S1S2ターム / A1A2ターム]「漢詩・漢文(中国古典詩文)の読解」
『明七才子詩集掌故』の閲読を通して、古典詩文の読解,古典注釈の方法を学びます。テキストは早稲田大学図書館蔵本
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko11/bunko11_d0153/「明七才子詩集掌故」でgoogle検索をかけると一番上に出てきます)等をweb上で見ることが出来るので、ご確認下さい。『明七才子詩集掌故』は、明代の古文辞派と呼ばれる詩人たちの詩に、江戸の学者が注釈をつけたものです。

ジャンル交渉論I
(ロバート キャンベル)

[S1S2ターム / A1A2ターム]
(シラバス未公表)

比較形象論I
(今橋映子)

[S1S2ターム / A1A2ターム] 「エクスプリカシオン・ド・テクスト(explication de texte) 再考——テクスト評釈の精緻化と人文研究の存立」
(シニア共通「比較日本文化論演習」)
本年度は一年間をかけて、「エクスプリカシオン・ド・テクスト」(作品評釈)についての徹底的な考察を行う。この方法は、150年近い歴史をもつ比較文学研究の中心的な学問方法として精緻化されてきた。これは現在、文学テクスト以外の芸術作品にも適用され豊かな学術成果を生み出している。作品評釈から始まる比較研究(Comparative Studies)は人文研究に何をもたらしているのか、
隣接学問の方法との差異に改めて意識を払うことによって、今日における可能性や問題点等を見極めたい。

Sセメスターでは共通テーマ、Aセメスターでは自由テーマで、以下のように進行させるため、通年での受講を原則とする。

◆Sセメスター◆
「エクスプリカシオン・ド・テクスト」の実践とその可能性の探究

1)比較文学で長くdisciplineとして認識され、継承されてきた「作品評釈」(explication de texte)とは何かを学び直す。フランスの教育法で開発されてきた方法、それを応用精緻化させた比較文学研究での理論を整理し、自分自身の方法として鍛え直す。【講義および参加者発表】
2)試みに、日本近代文学の小品を一つ取り上げ、それを個々で評釈して互いに講評し、上記の理論に逆照射して検討する。【小レポート】
3)美術史研究において基礎とされる「作品記述」(description)の方法を学び直し、上記2)と同様に、20世紀写真作品を取り上げて全員で評釈し、互いに検討する。【小レポート】
4)作品評釈を主体とするがゆえに傑出した成果を上げた比較文学比較芸術研究の論文を取り上げ、論文分析をする。【参加者発表】
4)作品に密着する比較研究(Comparative Studies)は、人文研究として畢竟どこを目指そうとしているのか、統計調査や分析理論から出発する他の学問との差異や可能性、限界などについて全員で討議する。【討議】

◆Aセメスター◆

Sセメスターの成果を踏まえ、各自が現在行っている研究テーマに即して、 作品評釈を試み、まとまった時間での研究発表を行う。発表の可能性としては、

1)       一つの作品を取り上げて、徹底的に評釈する。
2)       設定した発表テーマの一部に、作品評釈を取り入れる。

上記2つが考えられる。発表には必ずディスカッサントを設定し、相互に発表を批評することも重視する。参加者は発表とディスカッサントの両方を担当することとなる。

本授業で「作品」とは、文学、絵画、写真、彫刻、映像、舞踊、建築など広く捉えるため、幅広い専門分野からの参加者を歓迎する。音楽は作品対象から外す予定。ただし(Sセメスターの)共通課題としては文学と写真を使用するため、それに積極的に参加することが条件となる。

比較ナラトロジーI
(寺田寅彦)

[A1A2ターム]「フランス自然主義文学と詩」
フランス自然主義文学は19世紀のフランス文壇を席巻したが、詩の分野はこの自然主義の影響をあまり受けなかったようにみえる。しかし、ゾラをはじめとして自然主義文学と詩の分野とは親しい関係にあった。注目されることの少ないこの両者の関係をさまざまな角度から検討する。

比較思考分析I
(野矢茂樹)

[S1S2ターム / A1A2ターム]
S1S2ターム「主観的、間主観的、客観的(1)」
ドナルド・デイヴィドソンの第三論文集第一部の諸論文を取り上げ、デイヴィドソン哲学の展開を捉える。また、そこで論じられる認識論の諸問題に対して考察を深める。

A1A2ターム「主観的、間主観的、客観的(2)」
ドナルド・デイヴィドソンの第三論文集第二部の諸論文を取り上げ、デイヴィドソン哲学の展開を捉える。また、そこで論じられる認識論の諸問題に対して考察を深める。

比較心性論
(永井久美子)

[A1A2ターム] 集中講義「展覧会評を書く――日本美術の場合」
日本美術に関する展示を例に、展覧会についての学術的な批評を執筆してもらう。今回の授業では、江戸東京博物館「戦国時代展―A Century of Dreams―」、出光美術館「岩佐又兵衛と源氏絵―〈古典〉への挑戦」展、東京国立博物館「春日大社 千年の至宝」展の見学会を実施する。見学会後、討論の時間を設けるので、それぞれの展覧会についての寸評を各自発表してもらいたい。セメスター末の提出課題とする展覧会評では、見学会で訪れた展覧会のほか、日本美術に関わるものであれば、他の展覧会を取り上げてもよい。

比較文学比較文化演習I
(齋藤希史)

[S1S2ターム]「古典文学芸術論選読」
(大学院人文社会系研究科共通「中国文学演習(古典文学芸術論選読)」 )
中国古典における文学芸術論(詩・文・書・画・音楽にかかわる理論や批評)について、その歴史的な展開をみわたす視野を獲得し、それぞれ特徴をもつ思想・思潮が、相互にどのような関係にあるのかを、構造的に把握することを目的として、会読形式による精読を行なう。

[A1A2ターム]「東アジア人文学の諸問題」
(大学院人文社会系研究科共通「中国文学演習(東アジア人文学の諸問題)」 )
東アジアの人文学にかかわる諸問題について、参加者の問題意識を共有し、討議によって理解を深める。とりわけ、漢字圏における書記や表象にかかわる問題を取り扱う。

比較文学比較文化演習II
(ヘルマン ゴチェフスキ)

[S1S2ターム / A1A2ターム]「音楽文化と近代化 」
この授業ではいつものように授業題目と関係なく音楽分野で論文を書く学生に発表する機会を与えるのが重要な目的であるが、残る時間を今回「音楽と近代化」というテーマに分けたいと思う。それはまた特に文化交流という面から考えたい。例えばアジアの西洋音楽受容氏は今まで多く「近代化」という視点から見られたが、それは欧米諸国の近代化とどういう関係にあるか。あるいは近代化はアジアの伝統音楽文化にどのような影響を与えたのか。この授業は通年で行いますが、6月までは駒場博物館のエッケルト展もあるから(http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/exihibition.html#Eckert)夏学期には「近代化の中のエッケルト」という観点にもフォーカスを当てたいと思う。

比較文学比較文化演習III
(三浦篤)

[S1S2ターム / A1A2ターム]
S1S2ターム「視覚芸術と検閲」
視覚芸術(美術、イメージ一般を含む)と検閲の問題を検討する。政治的、宗教的、道徳的、芸術的等々の理由から、美術作品が展示、公開を禁じられる、あるいはスキャンダルを起こすという事態を招くことがある。そのような事態、状況がなぜ起こったのか、作品のどのような要素が検閲をもたらしたのか、検閲後の反応や歴史的評価はいかなるものか等々について、考察していきたい。個別例の蓄積が必要となるが、具体的な出発点としてフランス第二帝政期に制作され、政治的検閲を受けたマネの《皇帝マクシミリアンの処刑》(1867-69年)を取り上げ、そのプロセスを検証するとともに、他の事例へと広げていきたい。特に、作品と政治=社会状況との関わりを追究する予定である。

A1A2ターム「娼婦の表象」
(A1A2ターム シニア共通「芸術作品分析法II」)
2015年から2016年にかけてパリのオルセー美術館とアムステルダムの国立ヴァン・ゴッホ美術館で開催された展覧会Splendeurs et misères. Images de la prostitution 1850-1910(栄光と悲惨、売春のイメージ1850~1910年)は、近代フランスの文学や美術を考えるときに避けて通れない社会史的テーマを扱った画期的な展覧会であった。バルザックやゾラの小説、マネ、ドガ、ロートレックの絵画が示すように、ブルジョワ社会の裏社交界に君臨した高級娼婦から下級の娼婦に至るまで、「彼女たち」抜きに19世紀フランスの文化を語ることができないのは明らかである。この授業では、上記展覧会を出発点にして、参加者に「娼婦」というテーマをめぐって発表してもらい、多様な視点から議論を深めていきたい。

比較文学比較文化演習IV
(伊藤徳也)

[S1S2ターム / A1A2ターム]「日中比較現代文化史研究」
(A1A2ターム シニア共通「比較文化論II」)
世界史の動きを背景に置きつつ、文学・カルチャーを中心とした近現代中国文化を、近現代日本文化と直接比較対照させながら検討する。 本授業の目的は日中の現代文化史を対比的につかんだうえで、時期毎(1900年前後、1925年前後、1980年前後、1995年前後、2000年前後・・・)それぞれの日中の現代文化のイメージを歴史的に把握することである。 Sセメスターでは、1990年代の中国で起こった文化産業としての文学およびカルチャーの制度的変化を検討する。今回は、ある部分ある一面を精密に検討するのではなく、全体像をおおまかに把握し、焦点を当てるべきポイントをその中から適切にピックアップすることをめざす。扱う文献は基本的にすべて中国語文献になる。今のところテキストとして念頭においているのは、张伯存 卢衍鹏《二十世纪九十年代文学转向与社会转型研究》(光明日报出版社,2014年/特に第3章“20世纪90年代文学生产机制的建立”、第4章“20世纪90年代的文学与传媒”)である。

*なお、Aセメスターでは、日本側に焦点を当てる。近年日本文壇で活躍する中国語圏出身の日本語作家(楊逸、東山彰良、温又柔等)の作品とそれをめぐる批評や言説全体を一つの文化現象として検討する。特に楊逸は、芥川賞受賞時に、日本文壇の文学意識を反映する様々な言論が飛び交ったので、彼女の作品とそれに対する批評言説が中心になる。扱う文献は日本語文献になる。Aセメスターは学部の比較文学比較芸術コースの「比較文化論Ⅱ」等との合併授業になる。

比較文学比較文化演習V
(古荘真敬)

[S1S2ターム]「自己と他者(西田幾多郎を読む)」
「他者」とはいったいどのような存在なのか? それは「自己」の変様態にすぎないのか、それとも「自己」こそが「他者」によって構成されているのか、そのいずれでもあるのか/ないのか? こうした問題についての考察を練り直すことを狙って、今年度は、西田幾多郎の「私と汝」を検討する。

超域文化科学特別講義I
(ロジャー エイムズ)

[A1A2ターム] 集中講義“Theorizing the Relational Conception of Person: A Confucian-Deweyan Dialogue”
G.W.F. Hegel in the introduction to his Encyclopaedia Logic famously observes that one of the most difficult problems in any philosophical investigation is the question of where to begin. If our goal is to take the Confucian tradition on its own terms and to let it speak with its own voice without overwriting it with our own cultural importances, we must begin by first self-consciously and critically theorizing the Confucian conception of person as the starting point of Confucian role ethics. My argument is that ren 仁 is the ground of a Confucian role ethics and should be understood as “achieving consummate virtuosity in one’s roles and relations.”
In our own time, but with deep roots in the classical Greek philosophical narrative, individualism has become a default, commonsense assumption, if not an ideology. That is, individualism has become an ideology when, in our own post-Marxist, post-collectivist era, it has garnered a monopoly on human consciousness without any serious alternative to challenge it. I will argue that the language of virtue ethics broadly in appealing as it does to the vocabulary of agents, acts, generic virtues, character traits, autonomy, motivation, reasons, choice, freedom, principles, consequences, and so on, introduces distinctions that assume this foundational individualism as its starting point.
I will claim that Confucian ethics by contrast begins from the wholeness of experience, and is formulated by invoking a radically different focus-field cluster of terms and distinctions with fundamentally different assumptions about how personal identities emerge in our human narratives, and how moral competence is expressed as an achieved virtuosity in the roles and relationships that come to constitute us. To fail to distinguish what I will call individual human “beings” from relationally-constituted “human becomings,” then, would mean that we have willy-nilly insinuated a contemporary and decidedly foreign notion of person into our investigation before it has even begun.
John Dewey in his reconstruction of philosophy represents a flat out revolution in the Western philosophical narrative, introducing a radically novel conception of what it means to become a morally competent person. Dewey’s insights into the nature of the moral life are not only compelling in themselves; they also provide a vocabulary that can be useful in the comparative exercise of coming to a better understanding of an ethical tradition a world away, that is, of Confucian role ethics. Indeed, his critique of and disjunction with the traditional ethical theories of his own tradition and his insistence upon a more holistic approach to the human experience opens a space for a dialogue between Deweyan pragmatism and Confucian philosophy.

超域文化科学特別講義I
(榊敦子)

[S1S2ターム]集中講義 “Itinerant Narratives: Arrivals in, Departures from, Making Sense of and Remembering Berlin”
This course will look at textual representations of the city of Berlin from the perspectives of Japanese visitors, natives, expatriates, immigrants and visitors, in the span of time between the late nineteenth century and early twenty-first century. These accounts are inflected by the itineraries of their journeys before and after their experience of the city and by their peripatetic and phenomenological as well as optical experience of urban spaces of varied historical, social, material and geopolitical conditions. They reveal the city not as a cartographical spot but as a site in the traffic of bodies and gazes, being transformed by and transforming literary discourses. The readings shall be arranged in such a way that participants can trace the city’s literary mediations by variably invested observers.

超域文化科学特別講義I
(タイモン スクリーチ)

[A1A2ターム] 集中講義 “The International Dimension of Art in Early-modern and Modern Japan.”
(シニア共通「比較文学比較文化特殊研究II」)
The course will offer a new look at internationalism in the arts of Early-modern and Modern Japan. We will consider c. 1580 - 1900, with the intention to reevaluate the way in which Nanban culture move into that of the Edo Period, and the way in which Edo was, or was not ‘isolated’ (sakoku). We will then consider the Bakumatsu period, and Meiji’s move towards a more European-style visual environment.

超域文化科学特別講義II
(京谷啓徳)

[S1S2ターム]集中講義「本朝ミュージカル事始」
(シニア共通「比較文化論I」 )
この講義では、明治末年より昭和初期にかけて多くの人々を熱狂させた、うたと踊り、笑いとエロティシズムをともなう大衆芸能を紹介する。講義題目は、「日本近代のショウ・ビジネス」といいかえてもよい。またそれは、オペラやレヴュウ、ミュージカルといった欧米の舞台芸能を、近代日本がいかに受容したのかを検討する作業にもなるだろう。

超域文化科学特別講義II
(勝又基)

[S1S2ターム] 「支配の道具か、庶民の娯楽か―江戸の孝と文学」
江戸時代の文化・文学を孝という道徳面から見直そうとする。
江戸の孝文化は、孝子という実在の人物、孝子表彰という政治行為、孝子伝執筆という文学行為、逸話の形成という説話行為、孝子伝の出版・流通という経済的行為など、さまざまな要素が絡み合った多面的かつスケールの大きなものである。
江戸時代における孝のありかたを明らかにする上で、どのような調査を行うべきなのか。そして孝という面から見直すと、江戸文化はどのように異なった面を見せてくれるのか。こうした点についての私見を示す。
目標は、この授業を通じて、受講者が文化に対する独自の視点を持つための方法を体得することである。

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